パルデンの会

チベット独立と支那共産党に物言う人々の声です 転載はご自由に  HPは http://palden.org

宮崎正弘先生がおもしろい本の書評を書いておられる、『アフターコロナ、日本がリードする世界の新秩序』(かや書房)

 

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(C)有限会社・宮崎正弘事務所 2020 ◎転送自由。転載の場合、出典明示

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宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和2年(2020)6月28日(日曜日)弐
       通巻第6561号  
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<<読書特集>>
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  書評 しょひょう BOOKREVIEW 書評 BOOKREVIEW 
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 ここまで言ってもいいんかい。日本の回復の秘密は山のようにある
  國際金融都市としての香港が駄目になれば、東京市場しかないではないか
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エミン・ユルマズ v 渡邊哲也
『アフターコロナ、日本がリードする世界の新秩序』(かや書房)
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 ユルマズ氏と言えば、トルコからやってきた天才的相場師。日経平均が30万円になるという大胆な予測で知られるが、楽観的世界観の持ち主ではないし、理詰めの思考が前提にあって氏独特な世界観を築いていることは、前作の『米中新冷戦のはざまで日本経済は必ず浮上する』でも十分に読み取れる。この本も小覧でまっさきに取り上げた。
 カウンターパートの渡邊哲也氏に関しては、いまさら紹介の必要はないだろう。この二人が次の世界秩序をいかに見通しているのかは興味あるところだ。
 日本経済が急回復する理由は国際舞台から中国が消えるからだとする。国連は要らないし、日米欧主導のG20が代替できるとするのも、理想とはいえ、まだ先の話ではないだろうか。

 國際金融都市としての香港が駄目になれば、東京市場しかないではないか、と誰もが口にしないことを平然と言うのも、業界のしがらみがないからだろう。
 エミン・ユルマズ氏は、現在世界に拡大中のコロナ禍は「百年に一度ではない、七百年に一度の悲劇である」と世界史のパースペクティブから予測を立てる。
 なぜならエルサレム聖墳墓教会が閉鎖されたからだ。
イエス・キリストのお墓のあった場所に建てられた教会で、世界キリスト教徒の聖地」だが「本格的な閉鎖は1349年のペスト禍以来、679年ぶり」(12p)。

 話題はあちこちといきなり北米から南米へ飛び、中東、欧州を駆けめぐるが、ハリウッド映画の次の予測の箇所も興味深い。
 リチャード・ギアは、チベット仏教徒、中国批判の映画に主演し、ずっと干されていたのだ。見えないけれども資本の圧力で中国が妨害され、映画に出演できないほどだった。ハリウッドはチャイナマネーに汚染されていた。
 アメリカの中国への猛烈な批判がなされ、中国企業ウォール街場から、アメリカの年金ファンドの中国株投資にまで怒りが集中、これでハリウッドが中国礼賛の映画を撮り続けることは感情的にも、財政的にも不可能となった。
 さてエミン氏の大予言の肯綮は「日経平均は五年以内に五万円に到達する」(中略)「株価というのは先を見るので、コロナウィルス収束の兆しが見えれば、後から出来た数字が悪くとも上がるんですよ。これを「『不況下の株高』といいます」(178p)。
 渡邊「アメリカの中国に対する戦略によって、ウォールストリートに上場している中国株は消えるんじゃないですか」
 エミン「中国株から逃げたグローバルマネーが日本に来ればもっと上に行く」(つまり日経ダウは五万円を突破する)

 二人は北朝鮮の挑発的横暴で、さすがに韓国も反米・反日はまずいと気がつき、日米の仲間にふたたび戻ってくるだろうと予測する。また香港が駄目になったらシンガポールがあるじゃないかという業界の予測に対してはシンガポール言論の自由のない、民主国家ではなく『明るい北朝鮮』だ」と否定的だ。
 これ全編、希望と期待に溢れて愉しくなる本だが、ひとつ不満が残るのは、「日本初のクスリが世界を救う」という惹句があるのに、説明が少ないことだった。
 悲観論が巷に溢れ、テレビのショーも新聞も、中国を非難しないで、安部の失政ばかりを報じるのは本末転倒、本質を見つめる作業が必要になるだろう。 したがってものごとの本質、世界の対極的流れを掌握する一助になる。
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宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和2年(2020)6月28日(日曜日)
       通巻第6560号  
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 西パプアでインドネシアからの独立運動が再燃
  こんどは韓国企業の土地買いに反発、自然を守れ
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 インドネシアがややこしいのはボルネオの西がマレーシアとブルネイ、チモールの東はもぎ取られ、パプアも東はパプアニューギニア、島の西側と1968年以来、インドネシアが支配する。
もともとオランダ領だったため、この島はキリスト教徒が多い。

 ジャワはたしかにイスラム世界だが、第二の都市ジョグジャカルタの周辺は、かつての仏教寺院がずらりと並び、世界遺産のボロブドール寺院はそのひとつである。ところがバリ島はヒンズー教ときている。

 インドネシア政府は2019年に首都移転をきめた。
首都建設プロジェクトは稼働し始めた。場所はボルネオの東、カリマンタンのバリクパパンの北側、密林地帯を開墾する。ジャワ島の比重を、ほかの島へ移す意味もある。
ところがコロナ騒ぎ、工事は中座している。

 政府がコロナ対策で振り回されているタイミングを狙うかのように、西パプア住民は、インドネシアからの独立を叫び始めた。これを支援するのは付近のキリバス、バヌアツなどだが、国際社会では、西パプア問題には触れようとしない。無関心である。
 この島の森林資源と土地に間をつけたのは、中国ではなく、韓国だった。
土地を買い占め、森林を伐採し、パームオイルの植林事業を本格化させた。これに対して住民の反発が引き金となって都市部では暴動となった。住民らは「西パプア共和国」を名乗っているが、未承認国家である。

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集中連載 「早朝特急」(23) 
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第二部 「暴走老人 アジアへ」(その3)

第三章 中国を恐れないベトナムの強靭さ

 ▲建設ラッシュ、まるで二十年前の中国。人口ボーナスが続き外国企業の進出続く

 カンボジアの中国代理人的な鵺的行動とは対照的、中国に正面から挑むのはベトナムである。
 ベトナムは北と南では民族性が異なるとされるが、たしかに旧北ベトナムの人たちは精悍で狡猾なところがある。南のベトナム人はどちらかと言えばのんびり組が多い。
 西沙諸島の領有をめぐり、中国艦船に怯まないベトナムは、漁船を沈没させられても、敢然と反撃する。しかもベトナムは中国が全人代開幕中に、これ見よがしに米空母カール・ビンソンンをダナンに寄港させた(2018年3月7日)。
 嘗ての宿敵だったアメリカの最強空母は艦載機70機以上。ダナンはいまや海岸沿いにアメリカ系の豪華リゾートホテルが立ち並ぶほどに戦争の傷跡は消えた。そのダナンに40年ぶりの米国空母となれば、市民はカメラを持って見物に集まった。反米感情はほとんど消えていた。
 ベトナムに筆者は足繁く行った。
 地形が細長くて、国内移動でも飛行機を使うことが多い。各地の表情はちょうど二十年前、活況に湧いていた中国のようで、あちこちにクレーンが唸り、ブルドーザが行き交い、ビルの建設ラッシュが続く。高度成長に燃えているかのようだ。
 半年見ないでいると「新都心」やらニュータウンやら、それもロスアンジェルスかと見まごうばかりの瀟洒なショッピング・ストリート、ぴかぴかの百貨店、摩天楼の豪華ホテルがハノイに建っているではないか。
 この国は共産党一党独裁ではなかったのか?
 ハノイの旧市街はフランス植民地時代の建物が多く、劇場、政府庁舎、中央郵便局、博物館など美観にも優れたものが多いが、摩天楼はなかった。
 ところが新街区の景観は、ガイドブックには出ていないけれど、別の国に迷い込んだのかという錯覚がある。摩天楼の林立を目撃する。「これが現実のベトナムなのか」と驚くことばかりである。
 背広にネクタイはいないが、汗で黒ずんだTシャツの人は減り、なかなかの服飾をしている若者が多い。

 ▲新空港も日本の援助で建てられた

空港の新ターミナルも日本の援助、東南アジアで一番長い吊り橋も日本が建てた。
 ベトナム戦争が終わり、中越戦争が終わり、全土の地雷除去作業が開始され、町の修復から経済復興が開始された。しかし共産党の一党独裁が強かったため行政の齟齬が目立ち、ベトナムの「改革開放」である「ドイモイ」路線の実行前に、華僑や金持ちがボートピーポルとして大量に逃げ出した。
 それゆえ1990年ごろまで建設は遅々として西側からは完全に見捨てられた国だった。二十世紀末まで発展は目立たず、改革はのろのろとしており、外国企業の進出も少なかった。
 華僑の海外逃亡がベトナム経済の復興を頓挫させた。
この苦境を助けたのが日本企業の進出だった。ついで韓国、台湾、香港、インド。いまや中国企業の進出が夥しく、最後の参加者が米国企業である。マック、KFCペプシコーラはやっと最近の進出である。
 いまではホーチミンハノイも見違えるような繁栄。繁華街は歌舞伎町のようにネオンが輝き、人々の服装も格段に良くなり、美味しいレストランも増えた。若い女性はジーンズ、伝統のアオザイは見かけなくなった。名物だった「闇ドル屋」も淘汰され、ベトナムの通貨が一流ホテルでも使えるほどに経済力がついたのだ。
 リキシャしかなかったタクシーは小型車が主流とはいえ、空港やホテルに待機するのは新車のトヨタやホンダ、たまにヒュンダイもある。塗装は派手で、なかにもピンクのタクシーも疾駆している。

 筆者はベトナム戦争中の1972年に、当時のサイゴンを取材した経験がある。
 市内までの検問が十ケ所、空港でビザのチェックに三十分も時間を要したことを思い出した。宿泊したマジェスティック・ホテルはジャーナリストのたまり場で開高健はこのホテルの202号室に長期滞在した。
河畔に建っていたので夜中に砲弾の音が聞こえた。夕闇とともに付近は米兵相手のバア、怪しげなマッサージばかりだった。
 2017年四月のある日、羽田からハノイ行きの全日空機に乗った
 札幌、仙台、成田、羽田、名古屋、福岡とベトナム各地は直行便で結ばれておりいつも満席に近いという。
物価が安いから日本人にとってはタイより暮らしやすく、またシンガポールのようにツンと済ましたところがないのが魅力かも知れない。ただし日本人ツアーはハノイからハロン湾へのクルーズが主流で、激戦地ハイフォンやディンビエンフーや、中国国境のランカイへと足を延ばす人は滅多にいない。
中国の広西チワン自治区側からベトナム国境を取材したこともあるが、河を挟んで、川舟がテレビや、電化製品を真っ昼間に「密輸」していた。その光景は驚きだった。

ベトナム料理は日本人の舌に親しみやすい

 ハノイでは日系ホテルに旅装を解いた。小さな池のある公園の前で、和やかな風景が拡がっていた。
まわりが和食レストランの多いことに驚かされた。ハノイにも日本企業が蝟集しはじめた証拠である。げんに宿泊ホテルのレストランのなかにも和食、寿司、天ぷらがあった。
 公園に行くと所在なげな老人たちがベンチに腰かけ世間話。中年おばさん達の体操、歌声大会、そして野外の散髪屋。下町にでると人々と車がひしめき合い、安宿、食堂街に外国人ツアー客が引きも切らない。ランタン、蓑傘、ベトコン・サンダルが欧米観光客の土産に人気とか。春巻きや麺などベトナム料理は安くて美味なので、日本人の若い女性にやけに人気が高まった。
 ハノイから長距離バスでハイフォンへ行った。
鉄道は一日三便しかなくバスより時間がかかる。長距離バスはハノイ市内の三ヶ所からそれぞれ十五分ごとにでていて途中の乗り場で次々と人に荷物を乗せる。このやり方は中国そっくりである。
 激戦の時代、ハイフォン港にはソ連船が出入りして米軍と対峙した。中国は陸路のホーチミンルートを通じて武器弾薬を送りベトコンを支援した。米軍の「北爆」はこのルート上にあるラオス、カンボジア爆撃のことを含め、また戦争中の韓国軍のベトナム人虐殺はいまもベトナム人の恨みを買っている。
 意外にアメリカ人は好感で迎えられる。日本人はとくに歓迎される
 ハイフォンへ向かう道路沿いにイオンの大店舗がある。ロッテマートはあちこちにあるが中規模だ。
 二時間のドライブ中、ハイウェイの両脇は工場だらけである。日本企業、台湾企業が多い。通勤はオートバイかバスだが、役員らは自家用通勤。だから道が混んでひどい渋滞の箇所がある。沿線にはまベトナム国旗、ホーチミン肖像画、若い国ゆえにナショナリズムを煽って国民を糾合しようとしているわけだ。
 ハイフォンへ入ると運河沿いに中心部まで歩いた。公園の中央に巨大な銅像がある。これが女傑レ・チャン像である。
 周囲に花屋が多いのも意外だが、フランスが建てたいかめしい茶褐色のビルをいまはベトナム海軍省が使っている。中心部はボーグエンザップ通りで、両側には市民会館、劇場、ビジネスホテルがならび、商店街にはレストラン、洒落た喫茶店そしてインターネットカフェに若者が多い。しかし総じて、この町シャッター通りである。若者等は出稼ぎに工場地帯へ、そしてハノイへ出たのだ。
 遅い昼食を蟹を混ぜたホー(ベトナムうどん}で有名な「バークー」という店へタクシーで行った。鉄道線をまたぎ、下町にあった。ハイフォンの下町は東南アジア共通の安物屋台、汗の臭い、蚊や蠅、サンダル履き、化粧気のない女性たち。それはともかく海ガニをこねてつくった料理、大きな別皿の野菜は無料、ビールも国産。腹一杯で千円もしなかった。
 書店をのぞく。ベトナム語の雑誌、小説に混ざってここも漫画本が溢れているが、この文化的な堕落は日本と似ている。かのベトナム戦争中、人々は争うように西田幾太郎、鈴木大拙を読んだ。これらのベトナム語訳が並んでいた。三島もあった。
 平和ムードのベトナムは依然として一党独裁下にあるとはいえ、精神の荒廃も進んでいるかと訝かった。ただ人々の目が活き活きとしているのは救いである。

 ▼激戦地ディンビエンフーはいま

 前から宿題だったが、激戦地ディンビエンフーに向かった。
 フランス軍を破ったベトナムの英雄、かのボーグエンザップ将軍の背後で作戦指導した残留日本兵がいた。戦後、台湾へ軍事指導に行った白団もあれば、根本中将は金門島での戦闘を指導した。
インドネシア独立戦争に残留日本兵の多くが加わった。
 ホテルのビジネスセンターからディンビエンフー行きを予約すると向う三日間飛行機は満員だという。バスだと十ニ時間ほどかかるのであきらめかけたが、念のためベトナム航空のオフィスに行ってみた。翌日日帰りなら予約可能だというので、すぐさまチケットを買った。
 ディンビエンフー空港は田舎の牧場という景観、まるで山小屋風でこじんまりとしている。たまたま一台とまっていたタクシーを雇っフランス軍基地跡、博物館、勝利の記念塔、そしてフランス軍令部跡などを急いで回った。なにしろ飛行機の都合で日帰りしなければならない。のどかな田園、少数民族ターイ族が農耕に従事し、この町には商店街もなく、むろんスーパーも映画館もカラオケもない。
 ド・カストリー司令部跡は嘗てのトンネルがフェンスで囲まれ、屋台の土産店にはゲバラのTシャツとかベトナム戦争のDVD、ホーチミン伝記など埃を被っていた。
 「最近、ここまで観光に来る人なんて殆ど居ない。ベトナム人だって中学校の遠足くらいさ、あの戦争はとうに風化したっていうのに、えっ。日本からわざわざ?」。
 付近にはフランス軍が架けた鉄骨のムオンタイン橋が残り、オートバイがナムゾン河をわたる。中州には野菜、魚介市場がある。
 河を見下ろすとシジミか何かをザルでとっている。のんびりした風景に心が和む。
 昼時となったので運転手の推薦もあって、「ザンドゥックアン」というターイ族のレストランに入る。高床式の座敷もあるが藤椅子と卓。まずビールを頼み、ベトナム語はさっぱりなので、運転手に任せると三皿ほどローカルなカバブ風の肉料理がきた。
 フランス軍が最後に立て篭もりあちこちに塹壕を掘ったのが「Ai陣地」である。
 そのフランスの地下塹壕より、もっと深くを掘ってベトナムのゲリラ部隊は960キロ爆弾を仕掛けフランス軍を破ったのだ。
 明らかに日露戦争二百三高地の闘いを彷彿させる。ロシアのベトン基地を陥落させるため乃木大将は同様な作戦をとった。
 A1基地跡にしばらく立って植民地主義者と果敢に戦ったベトナム軍、その背後にあって狡猾に支援した中国共産党ソ連共産党の動きを思い出した。日本ではベトナム反戦運動が燃え、べ平連の小田実を司馬遼太郎が「現代の龍馬」とか煽(おだ)てていた時代である。
 基地に入り口に「博物館」があり、簡単な模型と写真パネルが飾ってあった。戦車、高射砲の残骸はともかく、狭い「博物館」に展示されたパネルは赤茶け、土産屋もまるで商売っ気がない。帰り際、中国系と見られるツアー団体とすれ違った。
 嗚呼、ベトナム戦争は遠くなりにけり。

 ▲米越関係が敵対から友好へ劇的に変貌

 ベトナムは米国との関係を急激に親密化させた。
 2017年に米国の上院議員四名がベトナムを訪問し、政府高官と連続会見した。団長はジョン・マケイン上院議員(当時、18年没)、クリス・スミス上院外交委員会幹部が加わり、この訪越団と一緒にデンプシー統幕議長の顔もあった。マケインは大統領候補としてオバマに挑戦した大物の共和党議員、ベトナム戦争では空軍パイロットとして参戦し、ベトナムで捕虜となった。
 米越関係は中国の南シナ海での無謀な軍事行動、侵略的行為の数々とスプラトリー、パラセル群島の岩礁、沙州に軍事施設を建設し、自然環境を破壊しつつ海洋リグ工事をやってのけたうえ、一部の岩礁を埋め立てて滑走路の建設。こうした中国のやりかたは地域を不安に陥れ、とくにベトナムは急速に米国との関係を改善してきた。その後、米越関係は緊密度を加速化させ貿易は倍々ゲーム、年率20%の増加ぶりである。
マケイン議員は中国を名指しで批判し「地域の安全保障に脅威を与える中国は、責任を取るべきだ。今日に不安定化はすべて中国に責任がある」と激しかった。
 最強最大の援助を惜しまないのは我が国である。
対越ODA累積はじつに1兆8630億円に達する。2013年1月16日に発足した安倍首相の、最初の外遊先はベトナム、タイ、インドネシアだった。また岸田外相(当時)は、2014年五月の「反中暴動」直後に、「ベトナムに対して巡視船十隻を供与する」と発表した。

 ベトナムは人口九千万人、しかも若者が多い。そのせいかどうか、たいへんな自負と、外国からは干渉されない歴史認識がある。
 かのアメリカ帝国主義を倒し、独裁国家中国の侵略戦争をはねかえしたという自信は当然だろうが、日本に対しても、「元寇はじつは三度目が用意されていたがベトナムチャンパ王国が反乱をおこして中国の当時の王朝は日本遠征どころではなくなったからだ」ベトナム人は自慢するのである。「三度目の元寇来襲が日本に行けなくなったのはベトナムのおかげである」
 だがこれは牽強付会で、チャンパ王国はそもそもシナとは西暦壱世紀のころから繰り返し戦争、騒乱、反乱を繰り返してきたうえ、かれらは現在のベトナム人ではない。ダナン南方に残る世界遺産のミーソン遺跡は、このチャンパ王国の遺産とも言われるが、あきらかに漢族文明と異なり、ヒンズーの影響が残る。この時代すでにベトナムには言語と文字があったことも分かっている。
 ベトナムは歴史始まって以来、17回、中国から侵略された。元寇を跳ね返したのは鎌倉武士の強さであり、その強靭な戦闘力と武装組織であり元軍は博多にも平戸にも上陸できなかった。上陸をあきらめて船上に待機した夜に強い風がきたのだ。この点をウランバートルに行ったおり、モンゴル人にも言うと「え、台風だけじゃなく日本の武士が強かったのですか」と目を丸くされたことがある。

 ▼微妙な政治的影響をもつロシア

  そもそも「ベトナム歴史学者はまれにしか存在せず対米戦争を叙述した書籍さえ見あたらない」(ビル・ヘイトン『南シナ海』、エール大学出版会、本邦未訳)。
 そのベトナムが正面から中国に牙をむいたのだ。
  わすれがちな事実がもう一つある。ベトナムとロシアが仲良しであるという重要な事実を再確認しておく必要がある。
 現在のベトナムの大統領、首相ら政府幹部はロシア留学組か「ロシアスクール」と呼ばれる革命運動の政治人脈から出ている。ベトナムの独裁政党は旧ソ連型の支配メカニズムによって成り立っている
 ソ連は崩壊したが、新生ロシアとなってもベトナムとの友好関係は変化がなく、カムラン湾にロシア軍艦が頻繁に寄港している。つまり米ソ冷戦時代に巧妙なバランスを維持し鵺的な政治行動をとったベトナムは、南シナ海での中国との軍事バランスを一方で日米に急接近し、他方ではロシア・カードも使うことによって立場を強くしようとしているのだ。
 げんにベトナム軍の武器は90%がソ連製であり、その補給はロシアになっても続行され、潜水艦の三分の一はロシアから供与された
 こうした文脈からウクライナを巡る問題でベトナムはロシア制裁に加わらない。一方でロシアは中国との関係が重要なため、スプラトリー問題ではベトナムの主張にも、中国の領有権主張にも、中立の立場を堅持し、資源開発関連のプロジェクトと軸にベトナムへの投資は増やしているのである。

 ▲中国牽制の重しにベトナムを活用できると踏む米国

 「西側のロシア制裁の反作用として東アジアに再接近しているのではなく、むしろロシアは中国とベトナムの間にはいって仲裁を主導することができる」(英語版『プラウダ』、15年1月8日)
 考えてみればベトナム戦争中、米国とたたかうベトコンを大々的に支援したのはソ連だった。武器・弾薬はソ連から運ばれ、間接的に米国に敵対した。ベトナム戦争が終わり、ソ連は徐々に対越援助を減らしたが政治的影響力は残した。
 ベトナムが過去の戦争を忘れて、米国に近づいたのは1979年の中越戦争からしばらく経ってからである。
 中国を牽制する梃子にベトナムを活用できると米国は読んだ。
 あの戦争で捕虜となってベトナムの監獄にいたマケインがベトナムを何度も訪問するほどに関係は劇的に変わった。やはりベトナム争参加したジョン・ケリー国務長官も足繁くベトナムに通いつめる時代である。
 ベトナムは紀元前弐世紀から十世紀まで中国に朝貢していた。この国は歴史的アイデンティティが希薄であり、多くの民族が混在しているため複雑であり、
多層的であり、かつベトナム人歴史家が、ちゃんとしたベトナム史を語れない。米国ではベトナム戦争に関して膨大な著作群があり、映画も何本も作られて当時の国防長官マクナマラさえも「あれは間違った戦争だ」と懺悔し、著名なジャーナリストのハルバースタムは『ベスト&ブライティスト』を書いて、「かくも最善で理知的な指導者が揃っていた米国が、なぜあんな(愚かな)戦争を繰り広げたか」と言った。

 ところがベトナムでは中越戦争は「北の国と闘った」とだけ教え、米国とも「帝国主義との戦争があった」としか教えていない。あれほど悲惨な被害にあったのに、ベトナム人は米国を憎んでいない。
 「ベトナムナショナリズムはアンチ中国となると、途端に燃えるのである」{ビル・ヘイトン前掲書)。

 中国のナショナリズムは、社会の混乱のなかで矛盾のすり替えに役立つとはいえ、身勝手な論法で、国民には団結と獅子吼しても、国民にはそういう概念が薄い。
したがってナショナリズムの組織化にはなかなか成功しない。「反日暴動」などと言っても民衆の自然の発露ではなく公安系が謀略的に演出した政治ジェスチャーでしかないことは常識である。
 だからベトナムへ行くと、数こそ少ないがロシア人には友好的で驚くほどである。
日本人にはもちろん情緒的な親しみをもって接してくるが、韓国人と中国人は決して心を許していない。韓国人は戦争中、残虐行為を繰り返し、挙げ句には数万の混血児をベトナムに置き去りにして去った。ベトナム各地には韓国軍の悪行の数々を展示した壁画や記念館が建てられ、鮮明な記憶として残っている。いまのところ韓国からの投資が巨額であるためベトナム人は韓国企業を歓迎してはいるが。。。

 ▼ダナンが分水嶺

 ダナンから古都のフエにかけては工業団地が多く、日本企業もかなり進出している。幹線道路は日本の援助で造られた。河岸のレストランで食事したところ満員、それもベトナム人の家族連れか、カップル。まるでファミレスである。経済的に豊かになりつつある証明のような風景だ。ダナンの都心部にはカテドラル教会もあって夕方のミサはかなりの人混み、デパートも人出がある。大手スーパーは韓国系だ。
 新市街区は海岸寄りに開け海辺には高級リゾートホテルが軒をきそう。これらの豪華リゾートはハイヤット、マンダリン、フラマとみ外資系である。しかしその間の土地は空いていて工場団地予定地に進出が予定される中国系企業は看板さえない。まだまだ工場建築に空き地がある。
 ダナンーフエを結ぶ幹線道路の主要区間と、あいだに横たわる山岳地帯に6・3キロの長いトンネルを完成させたのは日本の援助による。トンネルの入口と出口には、ちゃんと日本の大きな国旗が嵌め込まれて感謝の表示がある。
 フエはグエン王朝の首都、王宮跡がのこり、堀があり、付近は緑が豊かで花々が美しく咲き乱れている。この王宮跡に中国人観光客が多いのもグエン王朝が中国系であったからだろう。一眼レフカメラを抱えているから中国人とすぐに分かるが、以前ほど多くはなく、むしろ台湾と韓国からのツアーが目立った。
 韓国人はかなり乱雑に振る舞っている。ベトナム人の対韓国感情は悪いが、流通、小売り、観光産業への投資が顕著なため、じっとその横暴に耐えているという感じだ。実際にロッテリア・マート(大型小売店)、ヒュンダイ・ホテル。各地にロッテリア、小売りと流通では韓国が顕著な存在となっていた。
 コロナの封じ込めには台湾と並んで防疫に成功し、日本は空路の再開の第一号にベトナムを選んだ。
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