パルデンの会

チベット独立と支那共産党に物言う人々の声です 転載はご自由に  HPは http://palden.org

日本人が日本人たるためには、意思を貫く事。そしてその障害を明らかにする事。

送り火とは お盆に戻ってくる精霊たちを迎える宗教行事ではないか。

そのため 鎮魂の意をこめて 被災地の松を使ってそれを執り行うすばらしい事である。
それを 松に放射能があるという難癖を付けられて やめさせられた 京都の自治体、関係団体。
仏教会こそここで物を言わなければならない!
何してんの?

遠く チベットの地で ダライラマ法王が被災地を思い悩まれて、『般若心経 1万回勤行をお勤めしよう』
と世界に呼びかけてくれました。

しかしながら 被災地で 「避難所で般若心経を唱えるなんて滅相もない、人が落ち込んでいるのに!」
と言われた宗教関係者がいたと聞きます。

いったい日本人の アイデンティーはどこに行ってしまったのでしょうか?

我々は 日本古来の 神をあがめ、 そして自分たちの祖先が祭ってきた仏教を尊ぶ民族では
なかったでしょうか? 神をあがめるだけではなく 1000年以上前から 日本国を象徴とする
 『天皇』を 奉ってきた民族ではないでしょうか。

その天皇が 一番長きに渡っておられた 「京都」、が日本人の魂を冒涜していることを

京都市民、ならびに 京都の仏教会、 神道会は よく考えてほしい。

勝谷氏の有料ブログより転載

京都は良くも悪くも日本国の窓である。かの地にいるとそれがよくわかる。帰国してまずこんな報道に
接するとなるほど「貧しくてみじめな国」になっているのかなと涙するほかはない。

<五山送り火:被災地の松「まき」計画中止…放射能を懸念>

 http://mainichi.jp/photo/archive/news/2011/08/08/20110808k0000e040058000c.html
東日本大震災津波で流失した岩手県陸前高田市高田松原の松に震災遺族らのメッセージを記し
て京都の「五山送り火」(16日)のまきにする計画が、放射能汚染を懸念する声を受けて中止されるこ
とになった。メッセージが書かれたまき約350本は陸前高田市内で保管されており、現地入りしている
「大文字保存会」(京都市)の松原公太郎理事長らが8日夜、精霊の「迎え火」として燃やす。しかし
京都市には市民から中止を批判する声も多数寄せられている。>
あのなあ。なめんなよ。京都という高慢な場所を日本人がみとめているのはそこが私たちのなにもの
かを昇華させてくれる聖なる土地だからかだ。そのことを民族の災禍の時に受け入れなくておまえら、
何の存在意義があるのか。
帰国していろいろと報道を見ているとこのことについて毎日新聞がもっとも熱心に書いていて、その
ことは立派だと思うが記事に主語がない。
<計画が報道された6月末以降、京都市や関係者の自宅に「放射能汚染された灰が飛ぶ」などと抗議
の電話やメールが寄せられるようになった。>
これが「誰なのか」を書くのが新聞記者のつとめでしょう。こういうところが京都の「嫌らしいところ」
でもあるのだ。匿名のまま塀の中から石を投げる。そしてそのことを認めてしまう部分がある。エセ同和
や極道が横行するゆえんである。この記事に記者は辛うじてのメッセージを入れたのではないかとも
私は思う。<関係者の自宅に>というところですね。「ああ、そやろうな」とわかる。そして意地悪な
もと週刊文春記者としては「どこでカネにするつもりやろ」とも思うのである。そうならない「抗議」は
連中はしませんからね。関係者が唯々諾々とこの「抗議」に従った理由が記事のどこを読んでも書かれていない。
しかしそこにこそおそらくこの出来事の本質があるのだが。
そもそも送り火の日までまだ一週間ある。にもかかわらず妥協がはかられずに早々に「決着」をつけるか
のようなことが次々になされるのはなぜか。

 <陸前高田の松/現地で焼かれる>


http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110809/t10014788281000.html
津波でなぎ倒された陸前高田市の国の名勝「高田松原」の松を巡っては、京都市の「大文字五山送り火
で燃やす計画を、送り火の保存会が進めていましたが、「放射性物質が出るのではないか」という不安の声
が寄せられたため、保存会は計画を中止しました。これを受けて用意された333本すべてのまきを、8日夜、
陸前高田市で燃やすことになり、準備に当たった被災者など100人が参加しました。まきには犠牲者を追悼
する思いや復興への願いが書き込まれていて、燃えさかる炎に向かって手を合わせる人の姿も見られました。
まき集めを中心になって進めた陸前高田市の鈴木繁治さんは「申し訳ない気持ちでいっぱいですが、皆さんに
見守ってもらって燃やすことができ、ほっとしました」と話していました。保存会は松を運べなかった代わりに、
被災者がまきに書いたメッセージを写真に撮り、京都市で別の木に書き写して「大文字五山送り火」で燃やすこ
とにしています。>
いちいちおかしいと思うのは私だけだろうか?

 <五山送り火被災松使用中止/抗議・非難の電話殺到>


http://sankei.jp.msn.com/life/news/110809/trd11080901240001-n1.htm
<計画の中止が報じられ、休日が明けた8日朝から同課では電話が相次ぎ、約100件に上った。その
大半が「被災者の気持ちを無駄にするのか」「京都のイメージダウンにつながる」などと計画中止を
抗議、非難する内容だった。>
繰り返すが「何の問題もない薪」なのである。そこに因縁をつける連中が出た。それが報じられると
逆の抗議、避難の電話が殺到した。肝心の送り火までは1週間ある。行政としての判断は明らかではな
いか。なのになぜ断念してしまい、さっさと地元で薪を燃やすか。その間に何があったをこそ、大マス
コミは調査報道するべきではないのか。
 私の想像をひとつ書いておく。「薪」こそ「利権」なんじゃないですかね。ひとつひとつの「薪」の
売り上げがどこに入っているのかぜひ大マスコミは書いていただきたい。普段ならばそんな「闇」はま
あ見過ごしていい。しかしこの国難に殉じた方々の魂がこもったものを薄汚いそうした中に巻き込むこ
とを私は許さない。
私が感情的になってしまうのは奥州と京都という土地が持つ歴史的な宿命を連想するからだろうか。
奥州はずっと京都に恋い焦がれだからこそ世界遺産に指定されたばかりの平泉の文化が出来た。一方で
京都は奥州を便利使いにしてきた。貴族たちは飢えるとかの地に落ちどこぞの豪族に養ってもらってい
た。今回のやりとりを見ているとそういう「力関係」がほの見えて私は切なくなる。
今こそ奥州の人々はもっと誇りをもって立ち上がればいいのではないか。かつて奥州藤原氏がそうで
あったように。復興はそこから始まるようにも思われてならない。

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