パルデンの会

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かって 台湾人、朝鮮人の人々は日本人として生活していたことを忘れるべきではない、ヨキニつけアシキにつけ

日本李登輝友の会メールマガジン日台共栄 平成25(2013)年4月3日配信記事:



日本人に伝えたい元日本兵台湾人の話  上田 真弓(本会会員)

 昨年7月20日発行の本誌で、自決された元日本兵の許昭栄氏のことを書いた、本会会員で千葉県在住の上田真弓(うえだ・まゆみ)氏のエッセーが「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」というコンテストで金賞を受賞したことをお伝えし、その受賞作も掲載した。

その上田氏からお便りをいただいた。先の受賞作品が1000字に制限されていたため書き
足りないと思っていた上田氏は、ノースアジア大学(旧秋田経済法科大学)が4000字で募集していることを知り、同じテーマで第5回「ノースアジア大学文学賞」に応募したところ、今度は審査員特別賞を受賞したそうだ。昨年12月1日に同大学で行われた授賞式にも出席したと書かれている。その受賞作品をお送りいただいたので下記にご紹介したい。

 許昭栄氏も泉下で上田氏の2回の受賞を喜ばれているにちがいない。何より、こういう営みを通じて許昭栄氏の功績と遺志を伝えていくことの大事を改めて知らされた。

近年、台湾のことを書いたエッセイなどは増えているが、台湾関係の雑誌などでしかお
目にかかれない。ましてや、一般募集で受賞することも稀だ。こういう上田氏のような地道な積み重ねが日本人の台湾への認識を改めてゆく。

なお、掲載に当たっては漢数字を算用数字に改めたことをお断りします。また上田真弓
氏は男性です。

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日本人に伝えたい元日本兵台湾人の話
    上田 真弓

2007年12月、私は友人たちを誘って10で台湾を訪れた。私はその4年ほど前から台湾との
交流を続けており、台湾人の知り合いも増えていた。この時の旅は私が計画を練り、以前
台湾を旅行した時に一緒になって親しくなった人や、台湾に関心の高い友人などに声をか
けてメンバーを募った。日本語世代の台湾人にお会いして、台湾が日本であった時代のことや、戦後の台湾のお話などを伺って、日本と台湾の交流を深めたいと企画した5日間の旅であった。

この時、知り合いの紹介で元日本兵の許昭栄さんに初めてお会いした。事前に電話でお話して待ち合わせの時間と場所、案内して頂きたい所などを相談し、高雄の新幹線の駅でお会いして、2日間案内して頂いた。

許昭栄さんは昭和3年の生まれ。台湾は終戦までの50年間日本の領土であり、台湾人は日本人であった。許昭栄さんは完璧な日本語を話し、私たちが読むのに苦労するほど達筆な日本語を書く。昭栄という名前は、お父さんが「昭和の時代が栄えるように」と願って付けたそうである。許昭栄さんは日本を愛してやまない、日本人の魂を持った台湾人である。

許昭栄さんは戦争中に志願して、日本海軍の兵士になった。日本が戦争に負けて台湾から引き揚げた後、大陸からやってきた国民党の中国人が台湾を支配したため、敵であった元日本兵の台湾人は国民党の兵士にされた。そして大陸での共産党との戦争に駆り出され、その多くが戦死した。国民党が共産党との戦争に負けた後、国民党の中国人は台湾に逃げてきたが、台湾人の元日本兵は大陸に残され、共産党に捕まって共産党の兵士にされた。そしてその後の朝鮮戦争に送り出され、ほとんどが戦死した。それでも生き残った人は、その後の文化大革命などで迫害されて殺され、最後まで生き残った人はごくわずかだったそうである。許昭栄さんの調査では、このようにして亡くなった元日本兵の台湾人は、約1万5千人にもなるとの話であった。

運よく台湾に帰ってくることができた許昭栄さんは、大陸で亡くなった元日本兵台湾人のために、私財をなげうって地元の高雄に慰霊碑を建てた。土地は理解を示さない市と何度も交渉してやっと手に入れた海沿いの広い場所で、ここを「戦争と平和記念公園」と名付け、私財を投じて慰霊のための公園を造営中であった。また許昭栄さんは、大陸でわずかに生き残った元日本兵の台湾人を探して中国を訪ね歩き、その経緯や面会した人たちの様子を本にして出版した。

紹介してくれた知り合いの話では、許昭栄さんは慰霊碑の建立や生き残りの調査、そして本の出版など、財産のほとんどすべてを元日本兵の台湾人のために使ってきたので、非常に貧しい暮らしをしているとのことであった。「特にお礼はいらないと思いますが、食事代などは全部出してあげてください」と言われていた。許昭栄さん自身も、「豚小屋のような貧しい家に生まれて育ち、戦前も戦後もずっと苦労してきた」と話していた。

私たちを高雄の慰霊碑に案内してくれた許昭栄さんは、「戦争で亡くなった兵士たちの慰霊は、本来は国がやることです。しかし日本の政府も台湾の政府も、台湾人の元日本兵に対して無関心で、何もしてくれません」
と言って嘆いた。

私たちは許昭栄さんが建てた慰霊碑の前で、大陸で亡くなった元日本兵の台湾人たちのご冥福をお祈りした。慰霊碑の後ろは海で、その海の向こうは中国大陸である。

 翌日、許昭栄さんは私たちを台湾の南のバシー海峡を望む猫鼻頭(びょうびとう)にある、潮音寺というお寺に案内してくれた。
戦時中バシー海峡では約20万人の日本人が、アメリカ軍の攻撃によって船を沈められて亡くなった。その中には、当時同じ日本国民であった台湾人と朝鮮人もいた。この海岸にはたくさんの遺体が流れ着いたそうである。何日も海を漂った末に助かった日本人が、慰霊のために私財を投じて、ここに潮音寺を建てた。そして許昭栄さんたち地元の台湾人が、お寺の管理をしているそうである。

ここでも許昭栄さんは、「このような日本人の戦死者に対して、日本政府は無関心で何もしてくれません。私たち元日本兵の台湾人が中心になって、ここで慰霊を続けているのです」と言って嘆いた。

許昭栄さんは戦後の日本人が同じ日本であった台湾、同じ日本人であった台湾人のことを忘れていることを嘆き、悲しんでいるのである。その台湾人が、戦争で亡くなった日本人の慰霊を続けているのである。私たちはバシー海峡に眠る20万人近い日本人のご冥福を祈って、許昭栄さんと共に黙祷を捧げた。

私たちは許昭栄さんに2日間案内して頂いたことに深く感謝し、またお会いすることを約束して、高雄の新幹線の駅でお別れした。
日本に帰ってから、私は許昭栄さんに電話してお礼を述べ、またお礼の手紙を書いて送った。許昭栄さんからは達筆な手紙と共に、自費出版された本が送られてきた。

 それから半年後の2008年5月20日、許昭栄さんと親しくしている知り合いから、衝撃的なニュースが飛び込んできた。許昭栄さんが自ら建てた高雄の慰霊碑の前で、ガソリンをかぶって焼身自殺したというのである。あまりにも衝撃的すぎて、信じられなかった。嘘であってほしいと願ったが、台湾のテレビニュースでも伝えているとのことで、間違いはなかった。

許昭栄さんの活動に批判的な人たちの圧力で公園の建設が困難になり、市が公園の名前を趣旨とは違う名前に変えるように迫ったり、国民党の議員が国民党の中国人兵士も慰霊しろと強要することなどに抗議し、そして台湾が再び国民党の政権になったことに絶望して、許昭栄さんは自らの命を絶ったのである。3月の総統選挙で、台湾人が作った政党・民進党陳水扁総統が負け、8年間続いた民進党政権が潰れた。許昭栄さんが自決したその日は、総統選挙に勝利した国民党の馬英九氏が、台湾の新しい総統に就任した日であった。
半年前にお会いした時、許昭栄さんは「なんとしてでも民進党が勝たなければならない。
また国民党が政権を取るようなことになったら、台湾は中国に呑みこまれてしまう」と、3月に行なわれる総統選挙のことを非常に心配していた。

日本兵の台湾人、許昭栄さんの焼身自殺を伝えた日本のマスコミは、ほとんどなかった。日本を愛する元日本兵の嘆きと叫びが日本に伝わってこない現実に、私は憤りと悔しさで、やりきれない気持ちになる。許昭栄さんがガソリンに火をつけた時の気持ちを思うと、胸が張り裂けそうである。私は一緒に台湾に行ったメンバーに集まってもらい、東京の九段会館で許昭栄さんを偲ぶ会を行なった。そして靖国神社にお参りし、壮絶な最期を遂げた元日本兵台湾人のご冥福をお祈りした。

それから1年後の2009年5月初旬、台湾の高雄市の市長から一通の手紙が届いた。許昭栄さんの命日の5月20日、高雄の「戦争と平和記念公園」で行われる追悼会への招待状であった。一緒に台湾に行ったメンバー全員に招待状が届いた。私は許昭栄さんにお会いした時、全員の名前と住所を書いた名簿を渡したので、遺族か市の関係者が遺品を整理する中で、その名簿を見つけてくれたのであろう。

私はこの高雄市長からの招待状を受け取って、涙が出るほど嬉しかった。許昭栄さんの死は決して無駄ではなかった。許昭栄さんの追悼会を、高雄市が主催して行なってくれるのである。許昭栄さんの声が届いたのである。

私はどうしても都合がつかずに行けなかったが、知り合いや一緒に台湾に行った友人が追悼会に出席した。あとで写真を見せてもらいながら聞いた話では、きれいな公園が完成し、許昭栄さんの記念碑や、台湾人の元日本兵の悲劇を紹介する立派な展示館が建っていたとのことである。大勢の人が出席して、みんなで許昭栄さんの遺志を継いでいこうと誓ったとのことであった。本当によかった。

台湾を旅行する日本人は、ぜひ高雄の「戦争と平和記念公園」を訪れてほしい。日本の旅行会社は台湾観光ツアーの旅程の中に、ぜひこの公園を組み込んでほしいものである。
一方、バシー海峡で亡くなった20万人もの日本人を慰霊するために建てられた潮音寺は、今や存亡の危機に直面している。土地を所有する台湾人が代替わりして、お寺のある広い土地を第三者に売ってしまい、買い手がお寺を壊してホテルを建てようと計画しているのである。できることなら潮音寺を残してほしいが、それが叶わないなら、なんらかの形で慰霊の場を残してほしいものである。そのためには、私たち日本人ができることをしなければならない。そのためにも、多くの日本人にこの事実を知ってもらわなければならない。

私は元日本兵の許昭栄さんから聞いた話、許昭栄さんの壮絶な最期、高雄に念願の公園ができたこと、バシー海峡を望む地に建つ潮音寺のこと、その潮音寺が存亡の危機にあることを、ひとりでも多くの日本人に知ってもらいたくて、機会があるごとに話してきた。
新聞の投書欄にも載せてもらった。これからも、多くの日本人に知ってもらえるように努力していきたい。

許昭栄さん、あなたのことは決して忘れません。台湾で語ってくれたことを日本の人たちに伝えてまいります。



『台湾の声』掲載日:2014.5.21 16:00