パルデンの会

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こんな 朝日新聞の態度で 許せますか!


こんな 朝日新聞の態度で 許せますか!
朝日新聞は 発刊をやめよ!
朝日新聞読者は他紙に変われ!
天声人語など 試験問題に使うな!
朝日新聞は 創価学会の印刷だけで生きてゆけばよい!


毎週火曜日 12:00~13:00 朝日新聞本社前でデモが起きています。




 




2014/08/06 に公開
青山繁晴激怒。朝日新聞がついに32年かかって吉田清治の捏造従軍慰安婦問題記事を取­り消し。橋下市長も「朝日新聞もに逃げられなくなった」とコメント。当時研究不十分で­あったことが間違いの原因の一つとしているが少し調べれば分かる問題であり、全く事実­ではなくずっと報道し続けた病的な間違いはなぜ起きたのか?
日本を貶めるためだったら裏付けしなくてよかったという風潮があった、報道ではなかっ­たのか。毎日新聞は国会招致は干渉であると反論記事。また謝罪なき朝日新聞を改めて青­山繁晴さんが断罪。
植村記者の妻は韓国人で反日団体に所属しており、
記事にはこういったことが反映されていたのではないか?
韓国新聞は朝日を擁護?終わりの始まり朝日新聞
韓国の新聞じゃないかと青山さんが厳しく指摘。




http://youtu.be/38iNnZ5U76E


産経新聞

 
朝日新聞が5日付朝刊に掲載したこれまでの同紙の慰安婦報道の検証記事は、 
 一部の記事が事実無根だったことや不正確なことは認めて反省は表明した。しかし、明確な謝罪は行っていない。 

  今回、朝日は「確認できただけで16回、記事にした」(検証記事)という自称・元山口県労務報国会下関支部動員部長、吉田清治氏の証言を「虚偽だと判断し、記事を取り消します」と明らかにした。 

  ただ、朝日が初めて吉田氏の記事を掲載したのは昭和57年9月であり、過ちに気付くまで実に32年近くかかったことになる。 

  その間、朝日は吉田氏を「ひと」欄(58年11月10日付朝刊)で「朝鮮人を強制連行した謝罪碑を建てる」と紹介したり、 
 夕刊1面コラム「窓 論説委員室から」(平成4年1月23日付)で証言を次のように取り上げたりしてきた。 


 『(朝鮮)総督府の五十人、あるいは百人の警官といっしょになって村を包囲し、女性を道路に追い出す。木剣を振るって女性を殴り、けり、トラックに詰め込む」「吉田さんらが連行した女性は、少なくとも九百五十人はいた』 


  その後、吉田氏の証言が虚偽と判明してからも朝日は「(吉田)氏の著述を裏付ける証言は出ておらず、真偽は確認できない」(9年3月31日付朝刊記事)とするにとどまり、訂正しようとはしなかった。 

  国連人権委員会に提出され、慰安婦を「性奴隷」と認定した8年の「クマラスワミ報告」が吉田証言を引用しているのも、 
 朝日が繰り返し吉田氏の紹介を続け、知名度を上げたことと無縁ではないだろう。 


  朝日は、もともと無関係の慰安婦と工場などで働いた女子挺身隊を混同した理由について「原因は研究の乏しさにあった」と書く。 

  また、「朝日は93年(平成5年)以降、両者を混同しないように努めてきた」としているが、両者が別の存在であることは少しでも調べれば分かることだ。 

  韓国政府ですら4年7月に発表した「日帝下の軍隊慰安婦実態調査中間報告書」の中で両者の混同を戒め、「女子勤労挺身隊と慰安婦は区別すべきだ」と指摘している。 

  元朝日新聞ソウル特派員のジャーナリスト、前川惠司氏も今年5月、産経新聞の取材に「挺身隊と慰安婦が違うことは、戦時下の日本のことをちょっと勉強すれば常識だ。すぐに、訂正がでるだろうと思っていた」と語っている。 

  朝日は、韓国人元慰安婦の証言を初めて取り上げた3年8月11日付朝刊(大阪版)の植村隆記者(今年3月退社)の署名記事 
 「元朝鮮人慰安婦 戦後半世紀重い口を開く」について、「意図的な事実のねじ曲げなどはありません」と結論付けている。 

  記事は後に金学順氏と判明する元慰安婦を匿名で取り上げ、「『女子挺身隊』の名で戦場に連行」と書いていたが、 
 金氏は記者会見や別のインタビューで「母に40円でキーセン(朝鮮半島の芸妓(げいぎ)・娼婦)に売られた」と語っている。 

  この植村氏の記事が慰安婦問題に火が付いた大きなきっかけだということを考えれば、朝日は少なくとも訂正すべきだろう。 

  ところが、朝日は今回の検証で植村氏の「金さんがキーセンについて語るのを聞いていない」 
 「そもそも金さんはだまされて慰安婦にされたと語っていた」との言い分を引いてみせただけだ。 


  検証はまた、金氏が植村氏に「女子挺身隊の名で戦場に連行」されたと話したかどうかは明らかにしておらず、 
 植村氏の記事に「意図的」なものが本当になかったかは判然としない。 
 (抜粋) 

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140806/plc14080608070004-n1.htm 
 

【朝日慰安婦検証】東京基督教大学教授・西岡力氏 日本の名誉傷つけた

2014.8.6 11:00
 朝日新聞吉田清治氏の証言を虚偽と判断し、記事を取り消したことは良かった。しかし、評価に値するのはその一点の みだ。朝日新聞が自らの非を認めるまで30年以上かかった。その間、国際社会に日本の負のイメージがどれだけ浸透し、日本の名誉が傷つけられたことか…。 朝日新聞は自らの報道だけでなく、日本が被った損害も併せて検証する責任がある。
 また、一見すると反省しているように見える紙面も姑息(こそく)さが随所にうかがえる。例えば、朝日新聞は「挺身隊」と「慰安婦」を“誤用”した という。だが、挺身隊は慰安婦ではない。事実と異なる報道をすれば、どんな事情があるにせよ“誤報”にほかならない。誤用という言葉の裏に、ごまかしや保 身の念が透けてみえる。
 朝日新聞は日頃の報道で、舌鋒(ぜっぽう)鋭く政治家の責任を追及する。過ちを犯せば責任を取るのは当然だ。今こそ、その自浄能力を大いに発揮してもらいたい。(談)
朝日新聞検証のポイント
 ▽朝鮮や台湾では軍の意向を受けた業者が女性をだまして集めることがで  きた。インドネシアなどでは、軍が女性を無理やり連行したことを示す 資料が確認されている。本人の意に反して慰安婦にされる強制性があった
 ▽吉田清治氏が済州島慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消す。証言を裏付ける話は得られず、証言の核心部分についての矛盾がいくつも明らかになった
 ▽朝日新聞が1992(平成4)年1月11日朝刊で報じた「慰安所 軍関与示す資料」の記事は、宮沢喜一首相の訪韓時期を狙ったわけではない
 ▽女子挺身隊は、女性を軍需工場などに動員した「女子勤労挺身隊」を指し、慰安婦とはまったく別。当時は慰安婦問題の研究が進んでおらず、誤用した
 ▽元慰安婦の証言を報じた植村隆元朝日新聞記者の記事に意図的な事実のねじ曲げなどはない
© 2014 The Sankei Shimbun & Sankei Digital


歴史の偽造は許されない

――「河野談話」と日本軍「慰安婦」問題の真実



日本軍「慰安婦」問題 志位委員長の一問一答から  

2014年3月14日  日本共産党幹部会委員長  志位 和夫

 
はじめに
 日本軍「慰安婦」について政府の見解を明らかにした河野洋平官房長官談話(1993年8月4日、以下「河野談話」)が国政の重大な焦点となっています。
 この間、一部勢力を中心に「河野談話」を攻撃するキャンペーンがおこなわれてきましたが、2月20日、日本維新の会の議員は、衆議院予算委員会の場で、 (1)「慰安婦」を強制連行したことを示す証拠はない、(2)「河野談話」は韓国人の元「慰安婦」16人からの聞き取り調査をもとに強制性を認めている が、聞き取り調査の内容はずさんであり、裏付け調査もしていない――などと主張し、「新たな官房長官談話も考えていくべきだ」と「河野談話」の見直しを迫 りました。
 こうした攻撃にたいし、本来なら「河野談話」を発表した政府が、正面から反論しなければなりません。しかし、答弁に立った菅義偉官房長官は、それに反論 するどころか、「当時のことを検証してみたい」、「学術的観点からさらなる検討を重ねていく必要がある」などと迎合的な対応に終始し、2月28日には政府 内に「河野談話」の検証チームを設置することを明らかにしました。また、安倍晋三首相が、維新の会の議員に対して、「質問に感謝する」とのべたと報じられ ました。
 「河野談話」見直し論は、歴史を偽造し、日本軍「慰安婦」問題という重大な戦争犯罪をおかした勢力を免罪しようというものにほかなりません。
 この見解では、「河野談話」への不当な攻撃に反論するとともに、それをつうじて日本軍「慰安婦」問題の真実を明らかにするものです。
河野談話」が認めた事実、それへの攻撃の特徴は何か
 まず、「河野談話」が認めた事実とは何か、見直し派による「談話」攻撃の特徴はどこにあるかについて、見ていきます。
河野談話」が認めた五つの事実
 「河野談話」は、1991年12月からおこなってきた政府による調査の結論だとして、次の諸事実を認めました。「談話」にそのまま沿う形で整理すると、つぎの五つの事実が認定されています。
 第1の事実。「長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた」(「慰安所」と「慰安婦」の存在)
 第2の事実。「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した」(「慰安所」の設置、管理等への軍の関与)
 第3の事実。「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集 められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあった」(「慰安婦」とされる過程が「本人たちの意思に反して」いた=強制性があっ た)
 第4の事実。「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」(「慰安所」における強制性=強制使役の下におかれた)
 第5の事実。「戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下に あり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」(日本を別にすれば、多数が日本の植民地の朝鮮半島出身者 だった。募集、移送、管理等は「本人たちの意思に反して行われた」=強制性があった)
 これらの諸事実の認定のうえにたって、「河野談話」は、「本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、こ の機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し 心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」と表明しています。
 さらに、「われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じ て、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する」とのべています。
慰安所」における強制使役にこそ最大の問題がある
 「河野談話」が認めた諸事実のうち、「談話」見直し派が否定しようとしているのは、もっぱら第3の事実――「慰安婦」とされる過程が「本人たちの意思に 反していた」=強制性があったという一点にしぼられています。(1)「慰安婦」を強制連行したことを示す証拠はない、(2)元「慰安婦」の証言には裏付け はない――こういって「河野談話」の全体を信憑(しんぴょう)性のないものであるかのように攻撃する――これが見直し勢力の主張です。
 こうした攻撃の手口そのものが、日本軍「慰安婦」問題の本質をとらえない、一面的なものであることを、まず指摘しなくてはなりません。女性たちがどんな 形で来たにせよ、それがかりに本人の意思で来たにせよ、強制で連れて来られたにせよ、一たび日本軍「慰安所」に入れば監禁拘束され強制使役の下におかれた ――自由のない生活を強いられ、強制的に兵士の性の相手をさせられた――性奴隷状態とされたという事実は、多数の被害者の証言とともに、旧日本軍の公文書 などに照らしても動かすことができない事実です。それは、「河野談話」が、「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」と認めて いる通りのものでした。この事実に対しては、「河野談話」見直し派は、口を閉ざし、語ろうとしません。しかし、この事実こそ、「軍性奴隷制」として世界か らきびしく批判されている、日本軍「慰安婦」制度の最大の問題であることを、まず強調しなくてはなりません。
 そのうえで、「河野談話」見直し勢力が主張する、“「慰安婦」とされる過程が「本人たちの意思に反していた」=強制性があったという「談話」の事実認定には根拠がない”という攻撃が成り立ちうるものであるかどうか。つぎに検討していきましょう。
河野談話」にいたる経過を無視した「談話」攻撃
 この攻撃の第一の問題点は、「河野談話」にいたる経過を無視した「談話」攻撃になっているということです。
 日本軍「慰安婦」問題が、重大な政治・外交問題となったのは1990年からですが、それから1993年8月の「河野談話」にいたる経過をみると、つぎのような事実が確認できます。
 (注)この見解では、「河野談話」にいたる事実経過の検証などのさいに、河野洋平内閣官房長官と石原信雄元内閣官房副長官の発言を引用していますが、その出典は下記に記した通りです。
 (出典a)『オーラルヒストリー アジア女性基金』(「財団法人 女性のためのアジア平和国民基金」編集・発行)に収録された河野氏のインタビュー(2006年11月16日)。
  (出典b)同上書に収録された石原氏のインタビュー(2006年3月7日)。
  (出典c)『歴史教科書への疑問』(「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」編)に収録された河野氏の講演と質疑(1997年6月17日)。
  (出典d)朝日新聞に掲載された河野氏のインタビュー(1997年3月31日)。
韓国側から「強制連行の事実を認めよ」との訴えが提起される
 まず、日本軍「慰安婦」問題で大きな被害をこうむった韓国から、「強制連行の事実を認めよ」という訴えが、さまざまな形で提起されます。
 (1)1990年5月18日、韓国の盧泰愚(ノ・テウ)大統領(当時)の来日を前にして、韓国の女性団体が、日本軍「慰安婦」問題について「日本当局の 謝罪と補償は必ずなされなければならない」との共同声明を発表します。しかし、日本政府は、その直後に国会で「慰安婦」問題が議論になったさい、軍や官憲 の関与を否定し、「慰安婦」の実態調査も拒否しました(1990年6月6日)。
 (2)1990年10月17日、こうした日本政府の姿勢に対して、韓国の主要な女性37団体が共同声明を発表し、つぎの6項目からなる要求を提起します。
 「一、日本政府は朝鮮人女性たちを従軍慰安婦として強制連行した事実を認めること
   二、そのことについて公式に謝罪すること
   三、蛮行のすべてを自ら明らかにすること
   四、犠牲となった人々のために慰霊碑を建てること
   五、生存者や遺族たちに補償すること
   六、こうした過ちを再び繰り返さないために、歴史教育の中でこの事実を語り続けること」。
 (3)1991年8月14日、韓国の元「慰安婦」の一人である金学順(キム・ハクスン)さんが、「日本政府は挺身(ていしん)隊〔「慰安婦」のこと〕の存在を認めない。怒りを感じる」として、初めて実名で証言します。
 同年12月6日、金さんをふくむ韓国の元「慰安婦」3人(のちに9人)は、「組織的、強制的に故郷から引きはがされ、逃げることのできない戦場で、日本兵の相手をさせられた」として、日本政府を相手取って補償要求訴訟を提起しました。
 日本国内でも、市民団体や研究者による真相究明を求める運動が起こりました。
日本政府、「慰安婦」に政府(軍)の関与認める
 こうした事態をうけ、日本政府は、1991年12月から日本軍「慰安婦」問題について本格的な調査に乗り出します。
 (1)1992年7月6日、加藤紘一官房長官(当時)が談話を発表し、関係資料を調査した結果として、「慰安所の設置、慰安婦の募集に当たる者の取締 り、慰安施設の築造・増強、慰安所の経営・監督、慰安所慰安婦の衛生管理、慰安所関係者への身分証明書等の発給等につき、政府の関与があったことが認め られた」とし、「従軍慰安婦として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられた全ての方々に対し、改めて衷心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げたい」と表明しまし た。
 こうして、加藤談話は、「慰安婦」問題での政府(軍)の関与を認めるものとなりました。慰安所の経営・監督にかかわる公文書には、「慰安所規定」も含ま れており、「慰安所」における「慰安婦」の生活が自由のない強制的なものであったこと――強制使役であったことも、この調査によって明らかになりました。 同時に、加藤長官が、「朝鮮人女性の強制徴用を示す資料はなかったのか」との問いに、「募集のしかたについての資料は発見されていない」と答えたことが、 「強制連行は否定」と報道され、談話への強い批判が寄せられます。
 (2)この調査に対しては、国内外から「調査が不十分」との批判があがります。とくに、韓国政府は、日本政府の調査を「評価する」と指摘する一方、「全 貌を明かすところまでは至っていない」として、(1)今後も日本政府による真相糾明への努力を期待する、(2)韓国政府として独自の調査報告書を発表する ――と表明しました。
 1992年7月31日、韓国政府は、元「慰安婦」からの聞き取り調査も経て200ページを超える報告書(「日帝下の軍隊慰安婦実態調査中間報告書」)を発表し、韓国政府として「慰安婦の募集方法」などの追加調査を求めました。
“強制性を立証する日本側の公文書は見つからなかった”
 (1)これらの事態を受けて、日本政府は再度、国内だけでなく国外まで広げて「慰安婦」問題の調査をすすめます。
 この再調査では、「慰安婦」とされる過程での強制性、すなわち「本人の意思に反して慰安婦とされた」という事実を立証する公文書を見つけることが、大き な焦点の一つとなりました。しかし、日本政府の再調査でも、結局、日本側の公文書に関して言えば、そうした文書を見つけることはできませんでした。
 それは、「談話」を発表した河野元官房長官が「女性を強制的に徴用しろといいますか、本人の意思のいかんにかかわらず連れてこい、というような命令書が あったかと言えば、そんなものは存在しなかった。調べた限りは存在しなかった」(出典c)とのべ、「談話」をとりまとめる事務方の責任者だった石原信雄元 官房副長官が「通達とか指令とかいろんな資料を集めたんですけど、文書で強制性を立証するようなものは出てこなかったんです」(出典b)と証言していると おりです。
 (2)強制的に「慰安婦」とされたことを立証する日本側の公文書が見つからなかったことは、不思議なことでも、不自然なことでもありません。拉致や誘拐 などの行為は、当時の国内法や国際法でも、明々白々な犯罪行為でした。政府であれ、軍であれ、明々白々な犯罪行為を指示する公文書などを、作成するはずが ありません。かりに、それを示唆するような文書があったとしても、敗戦をむかえるなかで、他の戦争犯罪につながる資料とともに処分されたことが推測されま す。
 河野氏も「こうした問題で、そもそも『強制的に連れてこい』と命令して、『強制的に連れてきました』と報告するだろうか」(出典d)、「そういう命令を したというような資料はできるだけ残したくないという気持ちが軍関係者の中にはあったのではないかと思いますね。ですからそういう資料は処分されていたと 推定することもできるのではないかと考えられます」(出典a)と同様の認識を示しています。
 強制性を証明する日本側の文書が見つからなかったことをもって、強制的に「慰安婦」とされたという事実そのものを否定することは、まったく成り立たない議論です。
強制性を検証するために、元「慰安婦」への聞き取り調査をおこなう
 (1)文書が見つからないもとで、日本政府は、「慰安婦」とされた過程に強制性があったかどうかについての最終的な判断を下すため、ここで初めて政府と して直接に元「慰安婦」から聞き取り調査をおこなうことを決定し、調査団を韓国に派遣します。そして、元「慰安婦」16人からの直接の聞き取り調査をおこ ないます。
 このように、元「慰安婦」からの聞き取り調査の目的は、強制的に「慰安婦」にしたという日本側の公文書が発見されないもとで、強制されたという主張が真実かどうかを、直接、被害者から聴取することで検証しようとするところにありました。
 聞き取り調査の目的がここにあったことは、河野・石原両氏の証言からも明白です。河野氏は、「文書資料を見つけることも大事だけれども、いわゆる慰安婦 だったという方から聞き取り調査を丁寧にやる方がいいということで、韓国で聞き取り調査をやることにした」(出典a)と証言しています。石原氏は、「強制 性を立証できるような物的証拠」がないもとで、「元慰安婦の人たちにお会いして、その人たちの話から状況判断、心証をえて、強制的に行かされたかどうかを 最終的に判断しようということにした」(出典b)とのべています。
 (2)そして元「慰安婦」の人たちの証言を聞いた結果、日本政府は、「慰安所」における強制使役とともに、「慰安婦」とされた過程にも強制性があったこ とは間違いないという判断をするに至ります。そうした判断をするにいたった事情について、「談話」のとりまとめにあたった河野・石原両氏は、つぎのように 証言しています。
 河野氏は、「話を聞いてみると、それはもう明らかに厳しい目にあった人でなければできないような状況説明が次から次へと出てくる。その状況を考えれば、 この話は信憑性がある、信頼するに十分足りるというふうに、いろんな角度から見てもそう言えるということがわかってきました」(出典a)とのべています。
 石原氏は、「その報告の内容から、明らかに本人の意に反して連れて行かれた人、だまされた人、普通の女子労働者として募集があって行ったところが慰安所 に連れて行かれたという人、それからいやだったんだが、朝鮮総督府の巡査が来て、どうしても何人か出してくれと割り当てがあったので、そういう脅しという か、圧力があって、断れなかったというような人がいた。何人かそういう人がいたので、総合判断として、これは明らかにその意に反して慰安婦とされた人たち が一六人のなかにいることは間違いありませんという報告を調査団の諸君から受けたわけです。総理も官房長官も一緒にその話を聞いたんです。結局私どもは、 通達とか指令とかという文書的なもの、強制性を立証できるような物的証拠は見つけられなかったのですが、実際に慰安婦とされた人たち一六人のヒヤリングの 結果は、どう考えても、これは作り話じゃない、本人がその意に反して慰安婦とされたことは間違いないということになりましたので、そういうことを念頭にお いて、あの『河野談話』になったわけです」(出典b)とのべています。
 こうして、「河野談話」では、朝鮮半島では「(慰安婦の)募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」ことが明 記され、「慰安婦」とされる過程でも「本人たちの意思に反し」た=強制性があったことを、認めるに至ったのです。また、他の証言記録や資料も参照した上 で、全体状況としては、「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に 反して集められた例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあった」ことが明記されたのです。
 「河野談話」の作成は、もちろん河野氏個人によるものでなく、当時の総理大臣、官房長官官房副長官、外務省、厚生省、労働省など関係省庁などが集団的に検討・推敲(すいこう)し、内閣の責任でおこなったものであることは、河野・石原両氏が証言していることです。
元「慰安婦」証言から強制性の認定をおこなった「河野談話」の判断は公正で正当なもの
 (1)「河野談話」見直し派は、元「慰安婦」の証言について、「裏付け調査をしていない」ことをことさらに問題視していますが、これは聞き取り調査の目的を理解しない、ためにする議論です。
 すでにのべてきたように、元「慰安婦」に対する聞き取り調査の目的は、日本軍「慰安婦」制度において、女性たちが「慰安婦」とされた過程に強制性があったか否かということを最大の焦点として、その実態と真相を究明することにありました。
 それは、刑事裁判における証言のように、個別具体的な犯罪行為を特定して裁くことを目的としたものではありません。また、民事裁判における証言のように個々の被害事実を認定して賠償させることを目的とするものでもありません。
 16人の元「慰安婦」の聞き取り調査は、「慰安婦」とされた方から直接に話を聞くことで、「意思に反して慰安婦とされた」という訴えに真実性があるかど うかを判断するということを最大の目的にしておこなわれたものです。この点で、十分に確信をもって強制性を判断できる証言を得たというのが聞き取り調査 だったのですから、「裏付け調査」など、もとより必要とされなかったのです。
 (2)もともと、元「慰安婦」の聞き取り調査について、「裏付け調査をしていない」とか、証言に「間違いがある」、「信憑性に疑問がある」などの批判 は、いまに始まったことではありません。こうした批判にたいしては、当事者である河野氏が、すでに1997年の段階でおこなった一連の発言の中で、次のよ うにのべています。
 「半世紀以上も前の話だから、その場所とか、状況とかに記憶違いがあるかもしれない。だからといって、一人の女性の人生であれだけ大きな傷を残したこと について、傷そのものの記憶が間違っているとは考えられない。実際に聞き取り調査の証言を読めば、被害者でなければ語り得ない経験だとわかる」(出典 d)。
 「局部的には思い違いがあるのではないか、こんなことはなかったのではないか、つまり、場所が違ってやしないかとか、何がどうだということはあったとし ても、大筋において経験がなければ、体験がなければ、こんなことを証言できないと思える部分というのは、非常にあっちこっちにあるということははっきりし ています」(出典c)。
 「私はその証言を全部拝見をしました。『その証言には間違いがある』という指摘をされた方もありますが、少なくとも被害者として、被害者でなければ到底 説明することができないような証言というものがその中にあるということは重く見る必要がある、というふうに私は思ったわけでございます。
 ……はっきりしていることは、慰安所があり、いわゆる慰安婦と言われる人たちがそこで働いていたという事実、これははっきりしています。それから慰安婦の輸送について軍が様々な形で関与したということも、これもまた資料の中で指摘をされていたと思います。
 そういう状況下でもう一つは、……当時の社会情勢の中で軍が持っている非常に圧倒的な権力というものが存在した。他方、いわゆる従軍慰安婦であったと言 われる方々からの証言というものを聞いてみても、それはもう明らかに被害者でなければ言えないような証言というものが聞かれた。等々それらを総合的に判断 をすれば、これはそうしたこと(強制性)がなかったとは到底言えない。むしろそういうことがあったと言わざるを得ない状況であろう、というふうに私は判断 をしたわけでございます」(出典c)。
 河野氏は、かりに個々には「局部的に思い違い」などがあったとしても、16人の元「慰安婦」の証言の全体と当時の資料等を「総合的に判断」するならば、 日本軍「慰安婦」制度において、「慰安婦」とされる過程で強制性が存在したことは否定できない事実だとの認定をおこなったとしています。
 これは当然の責任ある判断です。当時の政府が、「河野談話」において、こうした立場にたって認定をおこなったことは、公正で正当なものでした。
日本の司法による事実認定――「河野談話」の真実性は歴史によって検証された
 「河野談話」見直し派の攻撃の第二の問題点は、「談話」が発表されて以降の20年余、「談話」の真実性を裏付ける無数の証拠が次つぎに明らかにされたにもかかわらず、それを一切無視しているということです。
加害国である日本の司法による事実認定
 証拠は、被害者の証言、加害者側の証言・記録、内外の公文書など、さまざまな形で明らかにされていますが、そのなかでも、加害国である日本の司法による事実認定は、きわめて重い意味をもっています。
 各国の元「慰安婦」が、日本政府を被告として謝罪と賠償を求めた裁判は、つぎの10件にのぼります。
 1、「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟」(提訴年1991年、原告9人)。
  2、「釜山『従軍慰安婦』・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟」(提訴年1992年、原告3人)。
  3、「フィリピン『従軍慰安婦』国家補償請求訴訟」(提訴年1993年、原告46人)。
  4、「在日韓国人元『従軍慰安婦』謝罪・補償請求訴訟」(提訴年1993年、原告1人)。
  5、「オランダ人元捕虜・民間抑留者損害賠償請求訴訟」(提訴年1994年、原告1人)。
  6、「中国人『慰安婦』損害賠償請求訴訟(第一次)」(提訴年1995年、原告4人)。
  7、「中国人『慰安婦』損害賠償請求訴訟(第二次)」(提訴年1996年、原告2人)。
  8、「山西省性暴力被害者損害賠償等請求訴訟」(提訴年1998年、原告10人)。
  9、「台湾人元『慰安婦』謝罪請求・損害賠償訴訟」(提訴年1999年、原告9人)。
 10、「海南島戦時性暴力被害賠償請求訴訟」(提訴年2001年、原告8人)。
  (注)原告数は、「慰安婦」被害者・その遺族・訴訟承継人の数で、その他の原告は含んでいません。また、原告の数は、2次、3次の提訴分も含みますが、「中国人『慰安婦』損害賠償請求訴訟」以外は一つの判決にまとめられているので、合計しています。
 これらの裁判の結論は、いずれも原告の損害賠償請求を認めるものとはなりませんでしたが、10件の裁判のうち8件の裁判(上記裁判のうち「フィリピン 『従軍慰安婦』国家補償請求訴訟」、「台湾人元『慰安婦』謝罪請求・損害賠償訴訟」をのぞく8件の裁判)の判決では、元「慰安婦」たちの被害の実態を詳し く事実認定しています。
 それらの一連の判決は、「河野談話」が認めた、「慰安所」への旧日本軍の関与、「慰安婦」とされる過程における強制性、「慰安所」における強制使役など を、全面的に裏付ける事実認定をおこなっています。加害国である日本の裁判所が、厳格な証拠調べをおこなった結果認定している事実認定は、特別の重さがあ ります。それは、「河野談話」見直し派が声高に叫ぶ「強制連行はなかった」という主張を打ち砕くものとなっています。
河野談話」が認めた五つの事実のすべてが「事実と証拠」に基づいて認定された
 一連の判決の中では、事実認定は、(1)事件の「背景事情」と、(2)「各原告の被害事実」についておこなわれています。
 まず事件の「背景事情」について、一連の裁判の判決は、「河野談話」が認めた事実をほぼ全面的に認めるものとなっています。たとえば、韓国人元「慰安 婦」たちが提起した「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟」における東京高裁判決(2003年7月22日)はつぎのようにのべています。
 「本件の背景事情のうち争いのない事実と証拠(……)によれば、次の事実が認められる。
 ア、旧日本軍においては、昭和7年(1932年)のいわゆる上海事変の後ころから、醜業を目的とする軍事慰安所(以下単に『慰安所』という。)が設置さ れ、そのころから終戦時まで、長期に、かつ広範な地域にわたり、慰安所が設置され、数多くの軍隊慰安婦が配置された。……
 イ、軍隊慰安婦の募集は、旧日本軍当局の要請を受けた経営者の依頼により、斡旋業者がこれに当たっていたが、戦争の拡大とともに軍隊慰安婦の確保の必要 性が高まり、業者らは甘言を弄し、あるいは詐欺脅迫により本人たちの意思に反して集めることが多く、さらに、官憲がこれに加担するなどの事例も見られた。