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中国軍機、自衛隊機を妨害 急上昇で乱気流も 5~6月
北京=倉重奈苗
2014年8月24日13時10分朝日新聞
中国軍の戦闘機が今年5月と6月、東シナ海の公海上空で自衛隊機に異常接近した問題で、中国軍機が自衛隊機の下方から急上昇して飛行を妨害する危険行為をしていたことがわかった。一歩間違えば、自衛隊機が墜落する可能性もあったという。複数の日中関係筋が明らかにした。
中国軍のSu27戦闘機は5月24日と6月11日、計4回にわたり、自衛隊のYS11EB電子測定機とOP3C画像データ収集機に接近。最も近づいた時の距離は約30メートルだった。日中関係筋によると、中国軍機はそのうちの1回、自衛隊機に下方から接近。急上昇して前方に出た後、乱気流を起こして自衛隊機の飛行を妨害したという。気流を乱すのに、推力を増すアフターバーナー(再燃焼装置)を使ったとの見方もある。
こうした危険行為は首相官邸にも報告され、「墜落につながる異常な行為で、戦闘行為に近い」との衝撃が広がっているという。
中国軍の戦闘機が今月19日、南シナ海の公海上を巡回していた米海軍の哨戒機に異常接近していたことが22日、明らかになった。最接近時の距離は約6メートルだったという。米政府は「深刻な挑発行為だ」として中国政府に抗議した。
中国軍機は、P8Aの下方15~30メートルを通過。さらに前方を横切り、真下や横につけた。横に並んだときの両軍機の翼の距離は約6メートル。青いヘルメットをかぶった中国人パイロットがすぐそばに見える距離だった。その後向きを変え、P8Aから約13メートルの距離をかすめるように飛び去った。
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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成26年(2014)8月24日(日曜日)
通巻第4321号
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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成26年(2014)8月24日(日曜日)
通巻第4321号
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中国の新海軍戦略は「遠海防衛」で、これを「藍水海軍」と命名
沿岸警備隊から沿海防御、そして大躍進のブルーウォーター(公海)へ
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中華人民解放軍の海軍は、その発足当時「近岸防衛」が関の山だった。日清戦争敗戦の場所は青島の北、威海衛、その沖合にあるのが劉公島である。
江沢民時代、反日キャンペーンを開始し、ここに「甲午戦争記念館」を建てた。巨大な建物の中にはいるとアヘン戦争からの中国近代の戦争をジロラマで再現しつつ、しかし日清戦争に負けたとは明示していない。劣等意識の現れだろう。
同記念館は英国、ドイツの侵略者をあまり批判せずに、ひたすら日本が悪いと総括し、これを愛国教育基地だと言い張った。
この劉公島へ第二次大戦を経て国共内戦直後の1950年に、中国海軍が上陸したところ、軍事転用できる船は一隻とてなく、すべては蒋介石が持ち去ったか、あるいは棄却していった。
このため中国海軍の発足時は「沿岸警備」ていどの海軍力、これを自虐的に「近岸防衛」と呼び、カバーできる水域はせいぜいが黄海くらいだったから「黄海水軍」と名付け、海軍力の充実に乗り出した。
蒋介石が台湾へ逃げ去ったあと新中国が直面したのは経済的困窮であり、海軍の建設は経済成長を伴わない限り無理な話だった。
それでも陸海空三軍の整合性ある軍事作戦行使を可能とするために「沿岸警備隊」ていどの力が発揮できる艦船、潜水艦、快速船を必要とした。「空、潜、快」を合い言葉にして海軍力の充実に力を注いだ。口では台湾解放などと叫びながら、台湾上陸が可能な海軍艦船はなきに等しかった。そもそも上陸用舟艇さえ殆ど保有しなかったのだ。
1970年代まで中国海軍の実力はあくまで「近岸防御」とされ、不意の敵海軍の奇襲攻撃に耐えられる持久戦に入った。
孫子のいう不利なときは戦争に打って出るな、まさに「静かなること山の如し」である。
海軍の作戦には航空機の支援が必要である。
当時、中国空軍の基地は内陸深くにあって空からの攻撃を防ぐことに置かれていたため海軍の作戦範囲はまさに沿岸のみ、行動半径は狭く、西側軍事筋は「沿岸警備隊に毛の生えた程度」と評価していた。
▼「近岸防御」の時代から、ゆっくりと「近海防御」の海軍へ
第二期は中距離ミサイルを搭載した海軍が空軍支援を代替し、近海にでて作戦行動がとれる戦略に転換された。これをもって「黄海海軍」から「緑水海軍」と名付けて、もっぱら防衛力としての海軍の拡充を図ったのである。
1986年に海軍司令員だった劉華清が正式に党に提出した報告書に盛られ、同時に「第二砲兵」(つまり戦略ミサイル軍)が秘密裏に誕生していた。長距離ミサイルは中国海軍の空母不在を補い、海軍艦艇の遠距離への進出を可能にしようというわけだった。
こうした海軍の地道な拡充努力によって、中国海軍は北はウラジオストクから、南はマラッカ海峡まで行動半径が拡大されるようになった。
露西亜のカムチアツカ半島、千島列島、フィリピン群島、台湾への近接があと一歩という段階にきた。
「近岸防御」時代は300海里、そして第二段階になった「近海防衛」戦略では、1000海里が守備範囲と急拡大していた。
「中国海軍の父」と言われる劉華清はトウ小兵の信任が厚く、まだ「養光韜晦」(能ある鷹は爪を隠せ)という中国の長期持久戦戦略の下、しずかに遠洋進行型と区域進行が同時に進められた。
当時の米国とソ連しか保有しなかった遠洋進行型海軍を目指していることが判明した。それまでの中国人民解放軍は陸軍優位、海軍は副次的存在として扱われていたが、これを陸海空が均質平等としての力量整備に整合性を与え、3000トンから4000トン級の中型ミサイル搭載艦の充実を第二砲兵ならびに空軍にも協力を求めて、作戦可能の半径をさらに飛躍させた。
スプラトリー群島への進入、ベトナム領海の永興島に2600メートル滑走路の建設などが同時並行的に進められていた。
孫子的に言えば「侵略すること火の如く」あるいは「動くこと雷の震えるが如く」にして、フィリピン群島の一部にも進出を繰り返すのだった。
▼上策は「攻敵岸」、中策は『沿海攻』、下策は「近岸攻」。
第三段階は「遠海防衛」と呼ばれる戦略である。
空母建設が謳われ、原子力潜水艦が就航し、これを「藍水海軍」と呼称するまでに実力を蓄えるに至った。
ここまでの海軍力整備には時間と費用を要したが、中国の経済成長がこれを可能とした。ともかく中国の言い分では地球上の海の占める面積は70%、沿岸から二百キロいないに地球上の80%の人々が暮らし、防衛の通称ルートは、海洋に90%を依存しているからである。
中国の経済は青島、天津、上海、厦門、広州は沿海部がさきに発展したが、港湾に近いという地理的用件だった。
そして経済力が世界第二位と喧伝し始め、にわかに金持ち大国として近隣諸国を睥睨し始めるや、「沿海防御」は文明発展の必須条件にして、中国モデルが世界に示されたと自慢を喧しく開始するのだった。
いま中国海軍は奇妙な自信をもって作戦シナリオを語り出した。
第一に敵沿岸攻撃により進出意図を挫折させ、作戦を壊滅される。あたかも日本軍の真珠湾攻撃のように、奇襲は可能であるとする。
第二に敵海軍を海洋の途中で殲滅できると呼んでいる。ミサイルの発達が、これを可能にしたと豪語している。
第三は近海接岸間際に敵艦隊を殲滅する作戦も可能だと言う。
中国紙『聞声報』(2014年8月16日号)は、『上策は敵沿岸攻撃(攻敵岸)、中策は海洋途次の『沿海攻』、そして下策は接岸寸前殲滅の「近岸攻」と、あくまでも孫子的戦術の選択を謳っている。
こうみてくると中国軍はいまも孫子を尊重していることがわかる。
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