次の世代に受け継ぐのも、愛国心なのだ。
氷川丸と日本丸 老朽化進み保存に課題
カナロコ by 神奈川新聞 1月27日(火)10時12分配信
ミナト横浜のシンボルとして親しまれている「氷川丸」と「日本丸」の保存をめぐる動きに注目が集まっている。戦前から活躍した両船は老朽化が進み、廃船の危機が迫っているとの指摘も。造船工学に詳しい国土交通省運輸安全委員会委員の庄司邦昭さんは「日本海運の歴史をいまに伝える貴重な海事文化遺産だ」と訴え、国の重要文化財指定など保存に向けた機運の高まりに期待を寄せる。
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日本郵船氷川丸と帆船日本丸はともに建造から85年を迎える。庄司さんは「日本の重要文化財にふさわしいだけでなく、世界でも重要な海事遺産」とその価値を指摘する。戦時中に病院船として徴用された氷川丸は機雷に3度触れながら、沈没を免れた逸話も残る。
庄司さんが特に評価するのが、鋼鉄製の船体の外板をつなぎ合わせている「リベット構造」。この技術を用い、現在も浮かんでいる船は国内にほとんどなく「保存によって戦前の造船技術を後世まで伝えることができる」と訴える。
保存に向けた動きが急がれる理由がある。
氷川丸は1961年、日本丸は98年を最後に大規模修繕を行っておらず、船体の劣化については両船の船長とも「正確には分からない」と口をそろえる。氷川丸は日本郵船、日本丸は横浜市が所有し、維持管理に当たっている。ともに「100歳を目指す」との目標を掲げるが、具体的な動きはないのが現状だ。
氷川丸、日本丸と同じ年に建造され、富山県の富山新港で係留されている「帆船海王丸」は船底などの大規模修繕に約4億5千万円を要したといい、日本郵船の幹部は「あと5年程度は管理できるが、建造100年の2030年まで保存するには国の支援が必要」との認識を示す。
想定しているのは国による重文指定で、指定されれば国の補助金が受けられるようになる。ただ調査から指定に4、5年はかかるとされ、帆船日本丸記念財団の幹部は「重文指定に動きだすなら今年がラストチャンス」とみている。
■「廃船」も選択肢
では、実現可能な保存方法はどのようなものが考えられるのか。庄司さんは「浮かべた状態で保存するのは良いことだが、100年という例は世界的にもない」と腕組みする。
日本丸のあり方をめぐって横浜市が10年に設立した帆船日本丸保存活用検討委員会の委員長を務めた。当時の結論は「可能な限り現在の活用を続けながら氷川丸とともに建造100年を目指す」。この時念頭にあった「市民らが継続して活用できることを優先して考えるべき」との思いはいまも変わらないという。
日本丸では市民ボランティアが参加して帆を張る「総帆展帆(そうはんてんぱん)」など観光イベントが実施され、氷川丸でも豪華客船の面影を残す客室の見学会などが催されている。
「何が何でも今のままの状態で保存するべきというものではない。引き続き市民に親しんでもらえることこそ大事」と強調する庄司さんは「外観や利用者の安全性が保てるならオリジナルにこだわらず、新しい素材や修繕方法を導入する選択肢もある」。そうすることで補修や維持にかかる費用を抑えることも可能になると説く。
それでも費用を負担し切れない場合は「廃船にして陸上で保存する道もある」。国の重文で、東京都江東区の東京海洋大敷地内に設置されている灯台巡視船「明治丸」や横須賀市の三笠公園にある記念艦「三笠」のように建築物として管理するというものだ。この場合は船内での活動や公開が制限される可能性があるという。
■市民の理解必要
いずれにせよ保存には市民の理解と協力が不可欠だ、と庄司さんは強調する。「市民共有の文化財という意識が高まってほしい」。そうした機運は重文指定の追い風になり、国の補助金が出たとしても、それは自分たちが納めた税金にほかならないからだ。
好例として庄司さんが挙げるのが、英国・ロンドン郊外のドックで保存展示されている帆船「カティー・サーク」。1869年に建造され、中国から紅茶などを運んだ当時世界最速の帆船。2007年、改修工事中に出火し、船首を残してほぼ全焼してしまった。
復元には4600万ポンド(約65億円)が必要とされたが、保存団体が寄付を呼び掛けると市民らから資金が集まり、英政府による300万ポンドの支援もあってロンドン五輪の12年までに再建がかなった。
現地を訪ねた庄司さんは「父親がわが子に説明しながら見学している様子が印象的だった。市民は自分の町の宝物のような感情を抱いていた」。伝統を重んじる国柄もあり、市民の愛着が保存運動の根底に息づいていると実感した。
庄司さんはシンポジウムや見学会などを積極的に開くことで船がたどった歴史を学ぶ機会を増やし、愛着を持ってもらうことが必要と考える。そこで強調するのが、これまで保存に向けた取り組みに市民が果たしてきた役割だ。
氷川丸は1960年の引退でスクラップにされるところを市民らが県や市とともに山下公園前での係船を求めた経緯がある。日本丸の誘致活動をした84年には約83万人の署名が寄せられ、基金が設立された。その後、日本丸は練習船として、氷川丸は係留船として船の機能が保てたのも、市民ボランティアや関係者らによる補修作業があったからだった。
歴史的、文化的価値は時代を重ねるごとに重みを増すと考える庄司さんは言う。「海運国・日本の玄関口である横浜港に浮かんだ状態で保存されていることに意義がある。歴史の生き証人をそろって残してきたことを横浜市民はもっと誇りに感じてもいい」
◆日本郵船氷川丸
横浜船渠(三菱重工業横浜製作所の前身)で建造された貨客船。北米シアトル航路に就航し、横浜港からの生糸などの輸出でも活躍。「北太平洋の女王」と呼ばれた。戦時中は病院船として、戦後は引き揚げ船として使われた。1953年にシアトル航路に復帰したが60年に引退。翌年から山下公園前に係留、ユースホステルや結婚式場などを経て現在は博物館施設として公開されている。
◆帆船日本丸
日本人船員の養成のため、神戸の川崎造船所で進水した大型練習帆船。その美しい姿から「太平洋の白鳥」と呼ばれた。戦時中は帆装を外して物資輸送、戦後は引き揚げや遺骨収集に携わった。1952年から再び航海訓練に従事し、84年に引退するまでに1万1500人の訓練生を育てた。横浜市が同年に誘致し、85年からみなとみらい21地区で展示、公開されている。
○しょうじ・くにあき
1948年東京都生まれ。横浜国立大工学部造船工学科卒。東大大学院工学系研究科船舶工学専門課程(博士課程)修了。東京海洋大教授を経て国土交通省運輸安全委員会委員。専門は造船工学、船舶工学。著書に「航海造船学」「ショージ先生の船の博物館めぐり」など。
【照明灯】帆船日本丸
2015.01.09 10:30:00