「日本が建国以来、大切にしてきた価値観、八紘一宇(はっこういちう)」――。三原じゅん子自民党参院議員(50)の発言は唐突だった。戦後70年の国会で、かつての戦争遂行のスローガンがなぜ?
 ■三原議員が質問中に発言
 16日の参院予算委員会。三原氏は国際的な租税回避問題についての質問で、八紘一宇とは「世界が一家族のようにむつみ合うこと」だとし、グローバル経済の中で日本がどう振る舞うべきかは「八紘一宇という根本原理の中に示されている」と語った。
 そもそもどんな意味なのか。田中卓・皇学館大元学長(日本古代史)によれば、由来は日本書紀にある。神武天皇が大和橿原に都を定めた時に「八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)に為(せ)んこと、またよからずや」と語った。地の果てまで一つの家とすることは良いことではないか、との意だ。
 ■大正時代に宗教家が造語
 ここから「八紘一宇」を造語したのが、国家主義的な宗教団体国柱会」の創設者、田中智学だった。

 大谷栄一・佛教大准教授(近現代日本宗教史)によると、田中は1913(大正2)年、機関紙「国柱新聞」で初めて八紘一宇に言及。著書「日本国体の研究」で「悪侵略的世界統一と一つに思われないように」としたが、やがて「日本が盟主となってアジアを支配する」という文脈で使われるようになる。

 第2次近衛文麿内閣は40(昭和15)年、「基本国策要綱」を決定。「八紘を一宇とする」精神にもとづき「先(ま)づ皇国を核心とし、日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する」とした。当時、日中戦争は泥沼化し、翌年には太平洋戦争に突入する。
 戦争推進の国民的スローガンの一つとして「八紘一宇」も使われ、当時の小学生は習字で書き、朝日新聞も「八紘一宇の大理想のもと父祖の大業を継ぎ……」などと戦争を支持した。
 こうした歴史を背景に、この言葉に複雑な思いを抱く人は少なくない。
(これが朝日新聞
 ■複雑な思い、昭和天皇にも
 昭和天皇は79年10月、国体開会式出席のため宮崎県を訪問。当初、県立平和台公園にある「平和の塔」で歓迎を受ける予定だったが、広場に変更された。40年に建立された塔には「八紘一宇」と刻まれていた。
 当時の侍従長による「入江相政(すけまさ)日記」の同年9月の記述には「八紘一宇の塔の前にお立ちになつて市民の奉迎にお答へになることにつき、割り切れぬお気持がおありのことが分り……」とあり、昭和天皇の意向が場所を変えた理由だったことを記している。
 中曽根康弘元首相も83年、国会で「戦争前は八紘一宇ということで、日本は独善性を持った、日本だけが例外の国になり得ると思った、それが失敗のもとであった」と述べた。
 三原氏は取材に「侵略を正当化したいなどと思っていない」と文書で回答し、「『人類は皆兄弟としておたがいに手をたずさえていこう』という和の精神」を伝えたかったとした
 前坂俊之・静岡県立大名誉教授(ジャーナリズム論)はこう指摘する。
 「八紘一宇は侵略のキーワードで、三原氏の質問は全く関係ない問題に誤用した発言だ。終戦70年の首相談話が問題となっている時期に、グローバルな政治情勢の判断を欠いている」