する機会を 日本人が 作ったことを 侵略と言おうが 植民地と言おうが
結果オーライであって 我々は 先人を敬わなければならない。
インドネシアや ベトナムや ビルマの山奥で 太平洋戦争終結後もたくさんの
日本人兵が独立のために 自分の身を投じたことを何故教えない、マスコミや教育者たち。
彼らの思いが 遠く靖国神社に舞い戻っているのです。
(ニュースQ3)「八紘一宇」戦時中のスローガンを国会でなぜ?
2015年3月19日05時00分
■三原議員が質問中に発言
16日の参院予算委員会。三原氏は国際的な租税回避問題についての質問で、八紘一宇とは「世界が一家族のようにむつみ合うこと」だとし、グローバル経済の中で日本がどう振る舞うべきかは「八紘一宇という根本原理の中に示されている」と語った。
そもそもどんな意味なのか。田中卓・皇学館大元学長(日本古代史)によれば、由来は日本書紀にある。神武天皇が大和橿原に都を定めた時に「八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)に為(せ)んこと、またよからずや」と語った。地の果てまで一つの家とすることは良いことではないか、との意だ。
■大正時代に宗教家が造語
大谷栄一・佛教大准教授(近現代日本宗教史)によると、田中は1913(大正2)年、機関紙「国柱新聞」で初めて八紘一宇に言及。著書「日本国体の研究」で「悪侵略的世界統一と一つに思われないように」としたが、やがて「日本が盟主となってアジアを支配する」という文脈で使われるようになる。
第2次近衛文麿内閣は40(昭和15)年、「基本国策要綱」を決定。「八紘を一宇とする」精神にもとづき「先(ま)づ皇国を核心とし、日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する」とした。当時、日中戦争は泥沼化し、翌年には太平洋戦争に突入する。
こうした歴史を背景に、この言葉に複雑な思いを抱く人は少なくない。
(これが朝日新聞)
■複雑な思い、昭和天皇にも
当時の侍従長による「入江相政(すけまさ)日記」の同年9月の記述には「八紘一宇の塔の前にお立ちになつて市民の奉迎にお答へになることにつき、割り切れぬお気持がおありのことが分り……」とあり、昭和天皇の意向が場所を変えた理由だったことを記している。
三原氏は取材に「侵略を正当化したいなどと思っていない」と文書で回答し、「『人類は皆兄弟としておたがいに手をたずさえていこう』という和の精神」を伝えたかったとした。
前坂俊之・静岡県立大名誉教授(ジャーナリズム論)はこう指摘する。