2015-03-23 <両陛下/パラオ訪問前に元日本兵と懇談> フリー ジャパン #神奈川県 勝谷誠彦の××な日々。 より転載 6:15 (3 時間前) 2015年3月23日号。<南洋に浮ぶあの美しい島の名が、二つの大切な場所で語られた春のひとひ>。 2時半起床。 この時刻に、風呂を入れている(笑)。『スッキリ!!』の最終回は、斎戒沐浴して出ようと思い立ったのだ。いろいろあったが、長くお世話になった番組である。意外と私はこういうところは律儀なのだ。 見えないところではそんなことをしたりするが、番組そのものは何事もなかったように淡々と終わらせる。視聴者には何の関係もないことだ。もっとも意外と多くに読者の方から「毎回観ていた」とのメールをいただいて驚いた。普通の方ならば月曜日のあの時刻は週の仕事はじめだ。にもかかわらず、録画して観ていて下さったり。「夜に晩酌しながら眺めるのにちょうどいいんですよ」とか。確かに、あのヌルさはむしろそいう楽しみ方の方がよかったのかも知れませんね。 驚いた。きわめて異例であり、帝国陸海軍の元軍人としては、これ以上の名誉はないのではないか。4月のパラオ訪問に向けた天皇皇后両陛下の「ご覚悟」に私ごときまで身の引き締まる思いである。ましてや、天皇陛下におかれてはお席に耐えられないご体調だったようだ。案じられてならない。 <両陛下/パラオ訪問前に元日本兵と懇談> http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150322/k10010024431000.html <天皇皇后両陛下は、来月、太平洋戦争の戦没者の慰霊のためパラオを訪問するのを前に、激戦地のペリリュー島で生き残った元日本兵を皇居に招いて懇談されました。 皇居に招かれたのは、およそ1万人の日本兵が犠牲となったパラオのペリリュー島で、最後まで戦って生き残った34人のうち、茨城県の元陸軍軍曹、永井敬司さん(93)と、福岡県の元海軍上等兵、土田喜代一さん(95)の2人です。 両陛下は、22日午前10時半から、お住まいの御所の応接室で2人と懇談されました。 天皇陛下は、21日から発熱などかぜの症状があるためまもなく退席しましたが、「本当に長いこと大変ご苦労さまでした」と、2人にことばをかけられたということです。 皇后さまは、およそ45分間にわたって、戦争当時の様子や、戦後、帰国してからの生活について説明を受け、アメリカ軍が上陸した海岸で激しい戦闘が行われたと聞くと、「大変でしたね」などと述べられたということです。> 別の報道によると天皇陛下は5分ほどで退席されたのだという。皇后陛下が45分も懇談されたことを考え合わせると、かなり体調はお悪いのではないか。今週、会見を楽しみにしているであろうインドネシア大統領夫妻などには申し訳ないが、ぜひ無理をなさらずに、それこそ念願であるパラオ訪問へ向けて、ご快復に専念していただきたいと思う。 これまでも何度か触れたが、ペリリュー島については私は戦記も読み、実際に訪問もした。相当な「マニア」である。報道の中に登場する土田喜代一海軍上等兵という名前に「ハッ」となるのは、この国でもそう何人もおるまい。土田さんはただの「生き残り」ではない。「残留日本兵」なのだ。 <ペリリューの戦い/1944年(昭和19年)太平洋戦争の玉砕戦へ> http://new22nozawa.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/194419-f65e.html <結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延びていた。ペリリュー島の戦闘は終了したのだが、日本が負けた…とは思わない兵士とアメリカ軍に「投降しよう」という兵士との間で、悲劇が起きた。 ぺリリュー島の戦友会「三十四会」(みとしかい)の責任者になっている上田喜代一さん94歳が、当時の思い出を書いている。取材に応じて語っている。> <上田さんは、アメリカ軍の捕虜になったのち、ペリリュー島の残留兵士に投降を呼びかけ、それに生存兵士全員が応じ、終戦後1947年4月22日に米軍へ投降した。この生き残りの34人は「三十四会」(みとしかい)という戦友会を結成した。> どうしてこの記事では「上田」なのか不明だが「土田」が正しいと思う。投降のきっかけを作った土田さんは残留兵たちにとって、命の恩人とも言える。パラオの戦史について勉強をなさっておられる天皇陛下は、おそらくそこまでわかった上で、彼をお招きになったのではないか。このことを知っているのとそうでないのとでは、今日の記事の読み方もかわってくるだろう。 95歳の土田さん、なんと4月の両陛下のご訪問にあわせて自身もペリリュー島を訪れるのだという。恐るべきは元帝国陸軍兵士の生命力だ。もっとも、それだけ強靱な精神力と肉体があったからこそ、あの地獄の戦場から生還したのだろう。「陛下のご先導をつとめて、戦友たちの眠る島へ還る」。帝国軍人としてこれほどの誉れはあるまい。いささかペリリューにかかわった私としても、嬉しさがこみあげる朝であった。 朝日新聞の日本語のおかしさは今に始まったことではないが、今朝の1面トップの書き出しのこれには笑った。 <世界新秩序/米中を追う/中国、米で尖閣宣伝工作/有利な解釈、電話攻勢> http://www.asahi.com/articles/DA3S11664918.html <国際政治の表舞台で、中国が水面下の宣伝工作を繰り広げている。> <表舞台>なのか<水面下>なのかどっちよ。わずか数十字の間にこんな矛盾を抱えて見逃すデスクは凄いなあ。記事そのものは、なかなか勉強になる。まあ、インテリジェンスに多少通じた人間ならば、誰でも知っていることではあるが。尖閣諸島を巡っては、日本側は「あそこは日本国の固有の領土なのだから、領土問題そのものが存在しない」との立場だ。それに対して支那は、なんとか問題の存在を印象づけようとしてきた。 <中国側が公表した中国語版は、この部分で「見解」ではなく「主張」という言葉を使い、一方的に公表した英語版では「position(立場)」と訳した。領有権をめぐる日中間の対立が存在していることを印象づける狙いが透けていた。 中国大使館員たちが米国の有識者に一斉に電話をかけたのは、北京での協議が終わった数時間後。中国外務省関係者によると、大使館員たちが手分けをして電話攻勢をかけ、中国側にとって有利な合意文書の解釈を説明したという。> 一方で日本側は。 <数時間後、日本側も英語版を公表した。中国側がより強い「立場」という言葉を使った「見解」については、見解や見方を意味する「views」と訳した。> <水面下>なんかじゃありませんね。堂々たる外交の表舞台での駆け引きだ。さきほど朝日をからかったが、実はあの間違いは深刻なのだ。「外交」と「謀略」は文字通りの裏表。その使い分けが「日本を代表するメディア」ですらでいていないことを示しているのである。今回は<水面下>ではありません。支那は「わざと見える形」で工作をしかけた。「フェア」さを印象づけることもまた、工作のひとつだからだ。それに日本は、完全に出遅れたというわけ。 何だか大東亜戦争の時の宣戦布告を思い出しませんか。あの時も在アメリカ大使館の怠慢で通知が遅れ、今にいたるまで真珠湾攻撃が「ジャップの奇襲」呼ばわりされてたたっている。どうも日本国の外務省は「反射神経」が鈍い。これはね、謀略をきちんとやっていないからなのだ。裏で謀略戦も戦っていると、そこではスピードが命となる。自然と表の工作も鍛えられる。「戦争をしない軍隊」に通じるところがあるなあ。 しかしその「戦争をしない軍隊」に伝えるメッセージはやっと「世界水準」に近づいてきた。いいことだ。いやあ、安倍晋三首相、踏み込むわ。一昔前なら、朝日新聞やら野党やらが大騒ぎしたことだろう。防衛大学校卒業式での訓示である。一部しか引くことができないが、ぜひプリントアウトをして、子どもや部下に読ませていただきたい。 <「平和を唱えるだけでは実現しない」「戦争に巻き込まれるとの言説は荒唐無稽」「諸君の務めとは…」> http://www.sankei.com/politics/news/150322/plt1503220010-n1.html <戦後、わが国はひたすらに平和国家としての道を歩んできました。しかし、それは「平和国家」という言葉を唱えるだけで実現したものではありません。> まだ生き残っている「世界妄想平和遺産」の連中への痛烈な一撃である。9条を祀って拝んでいれば侵略されないと、いまだに信じ込んでいる方々への。個人的には、自分のここ四半世紀ほどが重ねられて胸が熱くなった。ペルシャ湾での掃海活動、カンボジアPKOへの参加。いずれも私がモノ書きとして通り抜けてきた大きな関門だった。 <「『爆破成功』の声で、世界は日本の存在を知った」 派遣された隊員の言葉からは、当時の誇らしげな気持ちが伝わってきます。> 実にこれに従軍した宮嶋茂樹君の原稿を書いたのが彼のデビューであった。「不肖」の名はここに始まる。また。 <内戦によって傷ついたカンボジアでは、初のPKO活動に臨みました。自衛隊が作った道路や橋が平和を取り戻し復興するための大きな力となったことは間違いありません。部隊が(カンボジアの)タケオの町から撤収する日には、感謝し、別れを惜しむ現地の皆さん、大勢の子供たちで沿道はあふれていたそうであります。> その光景を私もよくおぼえている。部隊が日本を出陣する時、当時の社会党系の団体などが雇った船が、罵声を浴びせ続けた。しかし凱旋する自衛隊を送り出すカンボジアの人々は、涙を浮かべて見送ってくれた。いったいどこの国の軍隊なのかと憤った記憶がある。あの罵声を投げつけた奴らの何人かは、そのまま民主党などに潜り込んでいまも国会にいるのだから信じがたい。 考えてみれば、今回の卒業生たちはこれらの活動の頃、生まれたか生まれていなかったという世代だ。その幹部たちに、過去に自衛隊が汗と涙で積み重ねてきた体験をきちんと伝えておくことはまことに重要だろう。軍隊とは先人の歴史の積み重ねの上にこそ士気を維持できるのである。 最後に安倍さんがこのことに言及したのは、今日ここにこれまで書いてきた内容と、いささか呼応する。私も訓示を最後まで読んで「そう暗合するか」と驚いたのである。 <南太平洋に浮かぶパラオ・ペリリュー島。この美しい島は、70年前の大戦において1万人を超える犠牲者が出る激しい戦闘が行われた場所であります。守備隊長に任ぜられた中川州男(くにお)中将は本格的な戦闘が始まる前に1000人に及ぶ島民を退避させその命を守りました。いよいよ戦況が悪化すると部下たちは出撃を強く願いました。しかし、中川中将はその部下たちに対してこのように語って生きて持久戦を続けるよう厳命したそうであります。 「最後の最後まで務めを果たさなければならない」> 島民の何人かは島に戻ってともに戦おうとした。しかし中川中将は部下に銃を向けさせ、追い払った。「何て冷たい兵隊さんだ」と憤った島民たちは、将兵の目に涙を認めて、ハッと真意を悟ったという。徹底的な塹壕戦は米軍をしてペリュリューを悪夢の島と呼ばしめることになった。 その勇士たちの生き残りを天皇皇后両陛下が皇居にお招きになられ、安倍首相が若き防人たちの門出に中川中将の遺訓を語り、そして来月、両陛下はかの地にお出かけになる。なにかすべてがつながっているような気がして、私はならない。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ (c)2015 勝谷誠彦、katsuyamasahiko.jp All Rights Reserved. 問合せ:info@katsuyamasahiko.jp 情報提供・感想:stealth@katsuyamasahiko.jp 購読解除:http://katsuyamasahiko.jp/procedure/dissolve 発行:株式会社 世論社