パルデンの会

チベット独立と支那共産党に物言う人々の声です 転載はご自由に  HPは http://palden.org

このたびの パラオ訪問 「ご苦労さまでした」


 2015年4月10日号。<「ご苦労さまでした」。流行語なんとかのアホはどうでもいいが、私の今年の言葉はもうこれである>。


 4時起床。尼崎の自宅。
 天皇皇后両陛下がパラオ訪問を終えて帰国された。まずはご健康に問題なく戻られたことに日本国民として安堵する。
 

<両陛下パラオで慰霊終え帰国の途に>

 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150409/k10010042981000.html
 <太平洋戦争の戦没者の慰霊などのため、
パラオを訪れていた天皇皇后両陛下は予定された日程をすべて終え、帰国の途につかれました。
 両陛下は9日夕方、パラオ国際空港で、
レメンゲサウ大統領夫妻からお別れのあいさつを受けられました。続いて、パラオ側の関係者をねぎらうなどしたあと、チャーター機に乗り込み、午後4時45分ごろ、帰国の途につかれました。>
 ご覧のように、NHKの映像の冒頭は車窓からのお手振りである。
実際のニュースで拝見した時も私は感じたのだが、天皇陛下のお顔が、まことに柔和になっておられないだろうか。羽田空港でのお言葉の時など、玉顔は恐懼したくなるほど厳しかった。これからご自身がせねばならぬことへの決意に満ちているように私には感じられた。それが、ご帰国にあたっては、まことに申し訳ない私どもの言い方ではあるが「憑き物が落ちた」かのように、優しくなられていた。
 憑き物などと言ってはいけない。おそらく両陛下は日本国に「
国の魂」あるいは祖霊といったものの何かを背負って行かれたのだろう。私などには何か、としか言いようがない。その何かとご一緒に南洋に散った英霊を慰めることが日本国の天皇のなすべきことであり、それを達成していないことが、ずっと御心にひっかかっておられたのだと拝察する。だからこそ、なし遂げてあの柔和にご表情になられたのではないか。

 昨日、
私は正午のオープンと同時にジムで練習を始めようと思っていた。そうしないと18時の羽田発の便までに充分なことができないのである。だから11時、干していたバンテージをとりこんでくるくると巻き上げながらニュースでも観るかとNHKをつけた。手が止まった。立ち上がって佇立し、家の中なので着ていなかったシャツを慌てて身につけた。画面には天皇皇后両陛下が映っていた。
 まさに、ペリリュー島の日本政府の慰霊碑に献花を終えられて、
旧兵士や遺族の方々にお声をかけておられるところであった。カメラはかなり遠くから撮っていて、音声もない。しかし私には会話が聞こえるようであった。白髪の後頭部が画面の真ん中にあって、その前で両陛下は長く長く、立ち止まっておられた。さまざまな場面でのお声がけの長さはほぼ決まっている。なにごとにも平等を重んじられる両陛下はそのことにお心配りをされることを私は知っていた。だから、目の前で生中継で起きていることに驚いた。異例に長い間、その白髪の人物と、両陛下はお話をされていたのである。
 おそらく、以前もここで紹介した土田喜代一さんであったと思う。
ちなみに。いささか自慢になるが、彼のことやペリリュー島南洋庁のことを拙日記で紹介し続けてきたことで、今回のご訪問の意義を周囲や子どもや孫たちにしっかりと説明できたというメールをたくさん頂戴した。共通していたのが、話すうちに聞き手が背筋を伸ばし、威儀を正してきたということだ。それぞれの方は朝日新聞沖縄戦を巡ってなどで煽るのとは違う「語り部」をして下さったんですよ(苦笑)。それこそが天皇皇后両陛下がおそらくは望んでおられることで、ご訪問の意味の一端を担ったとの誇りにしていただけると幸いだ。
 土田さんである。何を話しあわれたのか、
断片しかなかなか伝わってこなくてもどかしい。本当は全体を知りたいのだが。私の日記ごときで「語り部がたくさん生まれているのに大マスコミの意識はまことに低い。そもそも「語り部の方々がこんな日記で勉強していただいたほどのことも、記者たちは知るまい。「軍事を知らず」に「平和だけ」を語ろうとするので当然なのだけれども。
 まだしも産経新聞がこの貴重な場面を描写してくれている。
この記者は「軍事をわかって」いますね。かなり勉強をしていることが察せられる。やりとりは伝えなくとも、土田さんたちからいいコメントを得ている。

 <元日本兵に「ご苦労さまでした」/戦友2人、万感の思いで立ち会い>

 http://www.sankei.com/life/news/150409/lif1504090024-n1.html
 <「34人のうち、私が幸運にもここに来ることができた。
1万の英霊たちが喜んでいると思いました」。ペリリュー島守備隊で生還した元海軍上等水兵、土田喜代一さん(95)は、西太平洋戦没者の碑で拝礼した天皇陛下からおねぎらいを受けた後、報道陣にそう語った。>
 以前、ここでも触れたし記事にもあるが、34人というのは、
終戦を迎えても戦い抜いた残留日本兵の仲間たちの数字である。<おねぎらい>と見出しから私たちは想像をたくましくしなくてはいけない。「ご苦労さまでした」なのだろう。しかし「ご苦労さまでした」とやりとりをそのまま書くと、左巻き反日運動家から「あの戦争を正当化するのか」と因縁をつけられかねない。このあと触れるように実際に「ご苦労さまでした」というやりとりがあったことを産経新聞は示唆するが、それも聞いた側の言葉で、である。

 NHKの中継を私はずっと見続けていた。
ひょっとしてと思ってチャンネルをすべての民放局に一瞬だけかえてみたが、ああ、この国はもうダメだというアホ映像しか流れていない。全身が熱くなるようだった。「不敬」「非国民」という言葉が頭の中に出現したとしたことを私は隠さない。「滅びしてしまえ」とまで思ったが「滅びることなかれ」と戦ってくださった英霊の方々に向かい合っておられる両陛下を前に、そんなことが脳裏に浮かんだことを恥じた。辛い。
 この時、
全局のどこを観てもペリリュー島の光景が中継であるべきではないですか。今年は特に8月15日を前に民放でも「平和特集」があるだろう。そういう時には思い出して欲しい。「4月8日の天皇皇后両陛下のあの光景を中継もしなかったくせに」と。
 私がたまたま観始めた11時にはもう献花は終わっていたがNHK
はそのシーンを何度か録画で見せてくれた。日本国から持って来られた白菊を捧げられ、深々と碑に向かって頭を下げられる両陛下。そのあと、右側の海に向かって、また拝礼された。録画なのでNHKは解説したが、リアルタイムでどれほどの記者たちにその意味がわかっただろうか。私はすぐに察した。ああ、アンガウル島だなあと。そこまでご配慮いただけるのかと。
 アンガウルは悲劇の島である。
もともといた守備隊をパラオ各地の守備のためにために割き、寡兵をもって十数倍の米軍を迎えうった。全島ほぼ焦土と化し玉砕する。生き残りの方というのは奇跡に近い。そのヴェテラン(いまの日本では別の意味に使われるが、本来は退役軍人に対する尊称です)と陛下とのやりとりは、ある意味で今回のご訪問の白眉であったかも知れない。
 <「ありがとうございます。戦友に代わって、御礼申し上げます」
。元陸軍二等兵、倉田洋二さん(88)は、ペリリュー島の南西に位置するアンガウル島での過酷な戦闘で散った、宇都宮歩兵第59連隊第1大隊約1200人の仲間の名簿を手に、両陛下に伝えた。
 陛下の「ごくろうさまでした」というお声が、
戦友全員に届いたと思った。両陛下は西太平洋戦没者の碑に花を手向けた後、海の向こうに見えるアンガウルの島影にも深く頭を下げられた。倉田さんもつえで立ち上がって拝礼した。>
 子どものころから不思議だった。いや、
今も眠り続けている元陸軍主計中尉の父にも言われていた。「なぜ8月15日をもって日本人はあの戦争を『懺悔』で終わらせられるのか」と。当時、両親と歩いた梅田地下街には傷痍軍人たちがアコーディオンを弾いていくばくかのお金を貰っていた。家にはときどき「どこそこの戦場で縁があった」という人物が訪ねてきてお金を欲した。父はポツダム中尉であって、戦場には出ていないのだが。
 「戦争」はね、ずっと続いているのです。「戦闘」
が終わったに過ぎない。国家としてはその誇りを忘れてはいけないのに、捨て去ってしまっている。天皇皇后両陛下の今回のご訪問はそれを鮮やかにあぶりだす。もちろん、もう戦争などしてはいけないと両陛下はおっしゃっている。しかし、忘却してすむことではないよ、とも。両陛下こそ「軍事を知らずして平和を語るなかれ」であると申し上げると、あまりに不敬であろうか。
 天皇陛下は「此岸」と「彼岸」をつないでくださる存在である。
あまりオカルト的には考えないでね。日本人らしく、ゆったりと、ああ、そうかなあ、と。しかし「現場」におられたのに「此岸」に残った土田さんのこの感想には、いささかゾクッとするとともに、なるほどと感じ入ったのだ。
 <今回、島に到着した今月5日。慰霊碑「みたま」の前で、
ハーモニカを吹いた。若くして帰れなかった戦友らを思い、南洋での海軍兵らの郷愁を歌った「ラバウル小唄」を選んだ。「1万の英霊たちが喜ぶ姿が、はっきりと見える」。戦友を追悼された両陛下のお姿に、土田さんはつぶやいた。>
 きっと、そうだ。

 土田さん、
このお歳でハーモニカが吹ける心肺機能というのはすばらしい。だから長生きされているんですね。天皇皇后両陛下のだ体調が、いつもよりも更に気になったというのは、眠り続けている老父のことがやはり頭にあったからかも知れない。まことに、まことに不敬を承知で言えば、老父は相貌が天皇陛下に似ているとよく言われていた。これまた不敬を承知で言えば、日本人はすべてさかのぼっていけば皇室に繋がるのであって、それが80歳を超えれば、たいがい似させていただくのではないかと思う。父は大和生まれだし(笑)。勝谷医院の大(おお)先生がそう言われるのが、私には誇りであった。
 両陛下のパラオ訪問を冷淡に報じる朝日新聞はいつものどうでもい
い内面の記事ばかりは豊富で、記者を飼っておくのも大変だなあと同情していた。すると、ちょっと目についた記事が。こういう状況なので、見出しでもう、読んでしまう。
 <「心肺停止」ってどんな状態?>
 http://www.asahi.com/articles/DA3S11695379.html
 <「心肺停止」は呼吸と心拍が止まった状態を言います。
蘇生の可能性が残されており、死とは違います。2013年に全国で救急隊が病院に運んだ心肺停止の人は約12万4千人で、このうち約6%(1カ月後の生存率)が助かりました。
 父が倒れてからちょうど1カ月が過ぎた。
まだ生きているので記事の期間をクリアしたことになる。おおっ、ということは6%に入っているわけで、これはある意味で奇跡的というほかはない。常に「何パーセントかになれ。私はその何パーセントだった」という教育を両親から受けていながら灘校で「下から1パーセント以下」になった私だが、父は倒れてもその何パーセントの中にいる(笑・というところではないが、こういう場合は笑っていないとなかなか)。しかも父の場合は心臓が止まってからおそらく20分ほどは動き出すまでかかっている。先日、ある医師と話していて「それはご高齢で代謝が低いからですよ」と言われた。なるほどなあ。
 実家、そして父が入っている病院の近くまで帰ってきながら、
見舞いもしない私である。期日前投票には行く。今日はこのあと講演、そして東京に戻って深夜まで収録。なすべきことを先にやろう。何度も繰り返すが、まことに、まことに畏れ多いことながら「公務が優先」なのである。

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勝谷誠彦の有料ブログより転載