パルデンの会

チベット独立と支那共産党に物言う人々の声です 転載はご自由に  HPは http://palden.org

沖縄・那覇>昭和天皇が皇太子の時にお渡りになった由緒ある『御成橋』に龍柱?!



この地は70年にわたる戦後の左翼偏向教育によって、支那との結びつきが強調され、
県民はそれを受け入れているというか、知らないうちに 埋め込まれている現実がある。
県民がアッと驚いた時には 周りが 支那人朝鮮人ばかりという事もありうる。
県外からの移住が NO.1 という実体もよく調べてみなければならない。
現在 マイカード の書類送付に対して 
 マイナンバー発送62万通→
 受け取られず返送11万通という現実があり、 沖縄で 基地問題の裏で 何が起こっているのか 国民が、県民が、 注意する必要がある。


龍柱反対署名提出 2015年11月20日
総合計 29,045筆

翁長雄志沖縄県知事は、那覇市長時代に、中国皇帝のシンボル龍の柱建設事業を、海の玄関の那覇市若狭に、極秘に進めていた‎龍の柱にヒビが入っています!!


2016年01月07日

昭和天皇が皇太子の時にお渡りになった由緒ある『御成橋』に龍柱?!



27年前、昭和64年 1月7日 午前6時33分
昭和天皇崩御されました。享年87才

昭和天皇は、日本の第124代天皇。 諱は裕仁。幼少時の称号は迪宮、お印は若竹。

崩御の2年前、62年に念願の沖縄訪問を御予定されたが、開腹手術で御断念

思わざる 病となりぬ 沖縄を たずねて 果さむ つとめありしを 

昭和天皇のこの御製(天皇陛下が詠まれる和歌のことを御製といいます)の碑が那覇市若狭1丁目の『波上宮』に設置されています。
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 米国施政下のため、全国巡幸は47都道府県で唯一沖縄に訪問できず、
 その後もついに訪れることができなかった沖縄への強い思いもうかがえる。

 「訪米前に自分が沖縄に行くことができないかとお尋ねになった旨が伝えられる」。

 昭和50年4月16日、上京した西銘淳治沖縄県知事は、天皇陛下に62年の沖縄国体へのご臨席をお願いすると、天皇陛下沖縄戦で祖国の御楯となった英霊と遺族を労りたいとのお気持ちから、沖縄行幸への強い意思を表明された。

 西銘知事を引見された時、天皇陛下は「沖縄といえばすぐ漢那を思い出す。漢那のお陰で大正10年に沖縄に行くことが出来た」と発言されている。
漢那が皇太子を先導した光景は、沖縄の人々に日本国民としての自覚を与えただけでなく、若き皇太子の御心にも沖縄への強い愛情を植え付けたのである。



 いわゆる、22年に、昭和天皇陛下が、GHQ側に沖縄の長期占領を望んでいることが伝えられたと記載されている「シーボルト文書」についても『天皇実録』で触れているが、
 天皇沖縄への訪問希望を何度も述べた事実の記述もある。

 皇太子(今上天皇)に沖縄訪問の名代を託し、「健康が回復したら、できるだけ早い機会に訪問したい」と決意を記したお言葉全文も、実録に掲載された。




さて、昭和天皇、最期の御枕元にあったといわれる一冊の本がある。
著者は沖縄県出身の恵隆之介 氏です。
天皇の艦長ー沖縄出身提督漢那憲和の生涯』

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大正十年、皇太子であられた昭和天皇が、皇室史上初めて欧州をお訪ねになった。御召艦「香取」艦長としてその大役を果たしたのは、沖縄出身提督、漢那憲和。
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大正10(1921)年
3月6日午前9時10分、『香取』『鹿島』が沖縄島東南部の中城湾(なかぐすわん)に進入し、5海里沖合に投錨した。両艦艦首の菊の御紋が朝日にさんぜんと照り輝いていた。

 沖縄史上初の御召艦の入港、しかも艦長が地元出身とあって、県民はこの歴史的出来事を一目見ようと黒山の人だかりだった。各所で「万歳」の合唱が起こった。皇太子殿下は、小艇で上陸された。当時の様子は、次のように記録されている。

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 沿道の民衆は道路が狭いので御顔を咫尺(しせき、至近)に拝することができた。中には手を合わせて拝むものもあった。厳めしい警戒も目立った歓迎の装飾もなかったけれど恭謙な国民は嘉悦の色を輝かして厳粛にお迎え申し上げた。[1,p114]
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 そこから殿下は漢那の先導で、列車にて那覇に向かわれた。那覇駅には、県会・町村会議員、在郷軍人、中学校生徒らが出迎えた。その中には母オトもいた。皆、お若い殿下と漢那大佐の勇姿に感涙していた。

 そこから人力車で、県庁に向かった。数万の県民が沿道で出迎え、殿下のご一行はその中を縫うように走った、と伝えられている。ほとんどの県民は感涙していた。

 日清戦争の頃まで日本派と清国派が乱闘までした沖縄でも、地元出身の御召艦艦長・漢那憲和大佐が皇太子を先導するという光景を目の当たりにして、自分たちも等しく皇室を戴き、近代日本を支える日本国民である、という自覚と誇りを抱いた事だろう。

このご来沖時に、建設されたばかりの橋を通られました。その橋を皇太子殿下の御成りになった橋として『御成橋』と名付けられ、皇太子の御行幸沖縄県民の想い出を残す大切な名所となっております。

現在の『御成橋』の写真
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県庁前駅と御成橋
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御成橋欄干
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御成橋アイゼンハワー来沖警備
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昭和天皇終戦時の御製「爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも」
ヒロシマナガサキの市民への無差別な原爆投下は国際法違反であり、被ばくの後遺症を残す人類史上初の原子爆弾投下です。
国民と国の弥栄を祈り続けている天皇陛下にとって、身を切られるよりも苦しく悲しい事だったと思います。

昭和天皇陛下が、全国巡幸で成し遂げられなかった沖縄への思いを、
この那覇市久茂地の『御成橋』という名で偲び続けるのが、
全国でも皇室崇敬の念の高い沖縄県民願いだと思います。
【動画】昭和天皇と平和への願い



やはり、那覇市に『明治橋』という歴史ある橋があります。
初代明治橋は近代国家の始まり『明治時代』に建てられた記念の命名です。
しかし、県民が気づかない内に、勝手に龍柱が乗せられた橋になっています。

昔の明治橋
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現在の明治橋
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