大場正明 映画の境界線 NEWSWEEK japan
政治とは関わりなく、チベットの人々の生き方が描かれる
彼の頭のなかには、おおよそのストーリーと、老人、妊婦、リーダー格の男、家畜の解体を生業とする男、十代の若者、女の子など、巡礼チームを構成する人物たちのイメージができあがっていた。そして、ロケハンの際に、それに当てはまる人物を異なるいくつかの村から集めるつもりだった。
ところが、ある幸運な出会いをきっかけに、ひとつの村だけで彼が求めていたキャストがすべて揃うことになった。その結果、本物の家族や隣人がそれぞれに自分を演じるこの映画では、放牧や食事といった日常から、個々の巡礼への思い、手板などの五体投地のための準備、そして長い巡礼の旅まで、ドキュメンタリーに近い視点で細部が積み重ねられていく。妊婦の女性は実際に巡礼の途中で出産し、赤ん坊は巡礼のなかで成長していく。
たとえば、巡礼の旅の前半で、主人公たちが、物資や重機などを積んだトラックが頻繁に通る道を進む場面だ。トラックがすぐ脇を通るような道は、普通に歩いていても危険を感じるものだが、彼らはそこを五体投地で進んでいく。夜になり、彼らが道路脇に設営したテントで眠りについた後も、通りすぎる車の音が響いている。
「チベットへのハイウェイの入口であるゴルムドでは運送業が栄えている。建築資材、衣類、穀物、塩化ビニール管から中華鍋に至るまでの中国の工業製品が、果てしなく列をなすトラックの荷台に危なっかしく積み上げられ、ロープをかけられる。そして、ディーゼル燃料の黒煙を吐き出しながら、チベットを目指して山岳地帯へと走り出していく。戻ってくるときには空荷か、あるいは鉱物やネパールの製品を積んでいるのが普通である。チベット自治区というのは、津波のように物が入ってくるけれども、持ち出すべきものがあまりない」
さらに、主人公たちのテントや食料を運ぶためのトラクターが、乗用車に追突される事故の場面も印象に残る。乗用車を運転していたのはガイドで、乗せていた観光客が高山病で呼吸困難になり、ラサに急ごうとして対向車を避けきれず、事故を起こした。主人公たちは、トラクターを壊されたにもかかわらず、事情を知ってガイドを赦す。そこには慈悲と利他の心が表れているが、同時にこの国道が観光ルートとしても注目を集めていることを思い出させる。
なぜ急ぐのかという疑問が映画全体に響いている
この映画には、巡礼を描きながらも、それを取り巻く状況を想像させるような瞬間がある。では、旅の目的地として重要な位置を占めるラサは、どのように描かれるのか。ラサは確実に変化しているが、巡礼の背景として浮かび上がってくるのは変わっていない部分だ。しかしそれでも、変化を想像させる瞬間がある。ラサで巡礼のための資金が尽きてしまった一行は、もうひとつの目的地である聖山カイラスに向かう資金を調達するために、車の窓拭きをし、郊外の資材置き場で働く。それらの場面は非常に短く、背景も曖昧だが、変化を垣間見ることができる。
「ラサはさながら中国人旅行者向けのテーマパークになってしまった。ラサでの結婚式まで売り込まれている。鉄道の完成によって変化は加速した。建設業者が受け皿を整えたところに旅行客が流れ込み、漢族の軍隊、役人、店舗経営者がどんどん増えて、チベットのうえに中国の印をしっかり刻み込んでいく」
チャン・ヤンはこの映画で、フィクションとドキュメンタリーを織り交ぜることによって、単に巡礼者を追いかけるだけではなく、彼らの死生観や通過儀礼を描き出している。しかし一方で、巡礼を取り巻く状況を想像してみることにも意味があるのではないか。主人公たちが旅の途上で出会う老人は、今の若者がなぜ急ごうとするのかという疑問を口にする。筆者には、五体投地の視座から状況を見渡したとき、なぜ急ぐのかという疑問が映画全体に響いているように思えてくる。
《参照/引用文献》
『チベット侵略鉄道 中国の野望とチベットの悲劇』アブラム・ラストガーテン 戸田裕之訳(集英社、2008年)
『チベットの祈り、中国の揺らぎ 世界が直面する「人道」と「経済」の衝突』ティム・ジョンソン 辻仁子訳(英治出版、2011年)
監督・脚本:チャン・ヤン
公開:7月23日(土)、シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開