パルデンの会

チベット独立と支那共産党に物言う人々の声です 転載はご自由に  HPは http://palden.org

<共産経済の支那が、世界中の資本主義国を集めて会議をやる滑稽をなぜ誰も指摘しないのだろう>。


 2016年9月5日号。

<共産経済の支那が、世界中の資本主義国を集めて会議をやる滑稽をなぜ誰も指摘しないのだろう>。


 4時起床。
 日曜日、私は番組の予習として昨日紹介した『マンガ金正恩入門』
  http://amzn.to/2bNLE2N
 など読んでいた。これが滅法面白い。
ご存じのように私の脳の半分はマンガで出来ていて、ほとんどは少女マンガではあるが、読み込んできた量は半端ではない。だから創作の苦労もまあわかる。編集者と作家がもっとも悩むのが「キャラ立て」だ。これを間違うとずっとボタンが掛け違ったままになり、連載打ち切りの憂き目を見る。ところが金正恩という電話頭野郎は、まるでマンガの主人公になるために生まれてきたような人物なのだ。「実際にあった話」をそのまま書くだけでマンガになる。脇役の人物像も素晴らしい。
 だいたい、
軍の最高幹部のジジイどもがアタマにあんな巨大な帽子を乗せているところで、もうマンガである。実際の作品であんなもの書いたら「ちょっとデフォルメしすぎじゃない?」と編集から注意が入るだろう。この作品アニメになんないかなあ。もちろんテレビ局が流す勇気はないだろうけれども劇場版を作れば、日本のみならず韓国でも大ヒットしますぜ。「製作委員会」クラウドファウンディング方式でやれば…いやいや、これ以上、妙なものにかかわるのはやめよう。
 そんなことをしているうちに15時ごろになる。
中途半端な時刻だし、そもそも番町あたりは日曜日は店はすべて閉まっている。でも、何かあるだろう、と出かけたのがよろしくなかった。開いている店はあったのである。よくここで書いている、このあたりで異常に増殖しているバッタ支那飯屋。あれほど「何を食わせるかわからない」と警戒してきたのに、ふらふらと入ってしまった。そこしかやっていないのだもの。あと「今年の夏は冷し中華を食べていなかったなあ」と考えて。
 まあ、おいしかった。
ただ上に載っているハムとキュウリにいささか嫌な感じがした。生ものだからね。紹興酒など頼みちょっといい気分になって帰宅した。横になった瞬間にそれは襲ってきた。猛烈な嘔吐である。なんだかここのところ朝から下から上からの話で申し訳ないですね。こうも続くと、私も私自身の体調がおかしいのではないかと、ちゃんと警戒しているのでご安心を。もちろんヤバい国で飯を食い続けてきた私は冷静だ。こういう時は吐けるだけ吐くのに限る。身体がそれを求めているのだから。
 あの支那飯が原因だったのかどうなのかはわからない。
しかし君子危うきに近寄らず、という私のカンはやはり正しかったのかも知れない。げっそり。週末のほとんど客の来ない店はそりゃあ在庫一掃だろうと、いわば食い物のプロの私がなぜ考えなかったのか。戦場なら死んでいた(ホント)。ずいぶんとカンもなまったものである。そろそろどこかに出かけた方がいいかな。

 「成果」と「立場」について多くのメールを頂戴した。
私なんぞと違って、読者の方々はなるほど日々、組織の中で生きておられるのだと改めて感じた。そしてこれまた私なんぞと違って、そういうところではこうした問題はもっと頻発しているのだと。ストレスがおありだとおもう。私なりにお察しする。「成果」が「立場」を作ることはまあ、あるが「立場」が「成果」を横取りすることの方が多いと私は感じる。弱肉強食とはそういうことだ。そういうことを知ってから私は「成果」を自分で言うことをやめた。
 どうでもいいことなのと「成果」で「立場」
を誇示したい卑しい人種と同じ場所に立ちたくなかったからだ。いただいたメールの中にはこの機微に触れたものもいくつかあった会社なり学校なりの中で生きていく上ではまことに難しいことのひとつなのだろうと私は感じた。国際政治や戦争で「私が」というものはそれはたくさんある。多くの「国際ジャーナリスト」の方は何かひとつの「手柄」だけでずっと食っておられる。「国際」と「ジャーナリスト」は私がもっとも蛇蝎のごとく嫌っている呼称であって、だから敢えて私は「国際風俗ジャーナリスト」と名乗るのだが、大マスコミはどこも使ってくれない。
 「成果」なら、食べものの店については、
書いたものをもう数えきれぬほどパクられてきた。テレビの三流放送作家が前の週に私が書いた記事をただちにパクるのなどもう日常であった。店主たちが笑って教えてくれるのである。だがもっと笑ったのは「グルメ作家」が私の書いたものを読んでその店に行くのはいいが「自分が見つけたことにして下さい」と頼んでいたことだった。私と店主たちは取材対象以前に、友人になっている。だから「こんなん来ました」とすぐに電話をくれる。「こんなんでもあんなんでも、取材に応じてあげてね。ああいうヒトたちはそれだけで食っているんだから」「わかってます」。
 私の場合は「どうでもいい」と考えている。
しかし会社などの組織でステップをのぼっていく場合は、そうはいかないのかなあと思う。でもね、天知る地知るひと知る、なのだ。その時はどうであっても、長い目で見ると必ず「成果」の種をまいた人は歴史の中で知られて行く。それでいいのではないかな、と私は考える。サトリすぎ?(笑)。

 バッタ支那飯にやられる前でよかった。
NHKのニュースを観ていた私は、漫然とそれに続く番組に目がいっていた。すぐに引き込まれ、切ることができなくなった。
 『一人ひとりの「生きた証」を忘れない/岩手県大槌町
 http://www.nhk.or.jp/ashita/bangumi/
 <
東日本大震災で亡くなった人行方不明の人が1200人をこえた岩手県大槌町。震災から5年半たった町で、亡くなった町民の「生きた証」を集め続ける人がいる。寺の住職・高橋英悟さん。犠牲になった人は、どんな人柄でどんな人生を歩んできたのか、一人一人の記憶を刻むことが、町の未来につながると信じ、遺族の元に通う。
  高橋さんと町の人々とのやりとりを通じて、
震災5年半を迎える被災者の心をみつめる。>
 仏教のみならず、宗教のあるべき姿だと感銘を受けた。
ひとは二度死ぬ、と言われる。肉体の死と、記憶から消される死と。「葬式仏教」と言われるものは、肉体の死をもって「チャンチャン」とけじめをつける道具となっていた。その先は寺にとってはあまり商売にならないからだ。このお坊さんは違う。そこから先が出番だとわかっておられる。幸い、再放送があるので機会を得ることができれば観て下さい。
 <再放送/2016年9月9日(金)午後2時05分~
2時53分>
 こういうドキュメンタリーを作らせるとさすがにNHKはうまい。
教養が基礎にあるのである。ちなみに、ひとびとの記憶を記録するのは本来はメディアの仕事だ。NHKはそれを間接的な形でやってくれたわけだが、活字は何をしているのかと思わざるを得ない。もちろん地元の媒体や、個人に力でコツコツとしておられる人々はいるのだろうが。

 何が面白いって「中華帝国の面子」だ。
今回のG20の最大のみものは、いろいろと決まるということより支那の面子踊りである。
 <G20サミット開幕/中国、大国誇示に躍起>
 http://mainichi.jp/articles/20160905/ddm/003/030/062000c
 <4日開幕した主要20カ国・地域(G20)首脳会議(
サミット)では、議長国を務める中国がさまざまな場面で世界第2位の経済大国としての存在感を誇示することに躍起になっている。しかし、国内では景気減速に苦しんでおり、構造改革などの課題も山積している。世界的な経済停滞を巡っては、議長国として各国の協調を演出するものの、G20各国の足並みの乱れも目立つ。>
 そもそも共産主義経済の支那自由主義経済の国々を招いてG20
をやるのがおかしい。政治的にも独裁国家でしょう。なぜ日本国の大マスコミはこの「そもそも論」を書かないのだろうか。経済面で体制が違う支那がイニシアティヴをとれるわけがないのである。では何が争点になるか。ここは日本国の出番なのだ。領土問題である。
 <強気の外交でも課題が山積する。
中国はサミット本体で南シナ海問題が議題とならないよう「南シナ海問題は当事国間で話し合い解決する」「G20の主要議題は経済」などとクギを刺してきた。だが、3日の米中首脳会談でオバマ米大統領は中国の権益主張を退けた仲裁裁判所(オランダ・ハーグ)の判決受け入れを習氏に直接促した。「既存の国際メカニズムを効果的に補完することを中国は提唱しており、その目標は共同発展の実現だ」。3日の講演で習氏は「中国脅威論」の懸念も否定してみせる必要があった。>
 わが国は切り札を二つもっている。尖閣諸島北方領土だ。
参加国のもうひとつの「異なる体制」なのがロシアなのは言うまでもない。尖閣北方領土を少なくともテーブルの上に乗せる努力を日本国はするべきだ。あとは放っておけばいいのである。追い詰められていくのはあちらなのだから。繰り返すが、共産主義経済国家が世界経済をどうこう言うのはおかしいでしょう
 <こうした状況を打開する処方箋としてG20が打ち出すのが、
財政政策、金融政策、構造改革などの「政策の総動員」だ。中国の習近平国家主席は4日の会合で、各国が新たな成長エンジンを見いだし、貿易や投資の自由化を進めるほか、成長促進策で協調を強めるよう訴えた。>
 <政策の総動員>たって計画主義経済と「神の手」
にゆだねている自由主義経済とは哲学が違うのだから共通の政策などできるわけがないと私は考えるのだが。なぜそういう「根本的な疑問」に大マスコミも政治家も踏み込まないのかといえば「支那はまだカネになる」からにほかならない。市場としてのあの人口は無視できないのだ。将来、歴史的な目で見た時にこの判断は「きわめて歪んでいる」と叙述されるのではないかと、私などは考えているのだが。

 これは「鉄ちゃん」たちも声をあげた方がいい。
JRグループの傲慢のひとつの象徴だからだ。
 <うなぎパイ名古屋駅から消える/春華堂も「
販売再開を望んでいる」>
 http://www.huffingtonpost.jp/2016/09/03/unagi-pai_n_11852390.html
 <浜松名物として知られる菓子「うなぎパイ」が、
JR名古屋駅構内の売店で2016年4月から販売されていないことがわかった。菓子を製造する春華堂が9月2日、コメントを発表した。売店を運営する企業との「諸事情により」というのが休止の理由。春華堂側は「販売再開を望んでいる状況」だという。
 朝日新聞デジタルによると、販売を停止しているのは、
JR東海の子会社、東海キヨスク名古屋駅構内で運営する23の売店2015年2月から順次販売を取りやめていた。東海キヨスクの担当者は「他の地域の土産品もあり、バランスを考えて販売している。うなぎパイだけ特別扱いはできない」と、通常の商品入れ替えの一環だと説明している。>
 私も「何かヘンだなあ」と名古屋を通るたびに思っていたのだが、
今朝の朝日新聞に教えてもらった。最近、JRではこういう動きが多い気がする。そもそも「弁当屋が消えてコンビニばかりになったでしょう。それぞれの個性ある弁当屋が自分の店を出しているのが旅の楽しみだったのに、今では街中のコンビニと商品が変わらない。JRグループが「旅情」というものをどう考えているのか、鉄の方々はもっと声をあげていい。列車だけが鉄の精神ではないはずだ。
 JRはばっくれているが、
過去に取材した連中の所業からすれば当然、利権の問題がからんでいると私は考える。小さな売店の「棚」はきわめて限られているからね。

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