パルデンの会

チベット独立と支那共産党に物言う人々の声です 転載はご自由に  HPは http://palden.org

河口慧海氏と 多田等観氏の関係の 情報


白雪姫と七人の小坊主達http://templates.blog.fc2.com/template/kotobuki/kotobuki.gif

なまあたたかいフリチベ日記     より転載


DATE: 2012/02/20(月)   CATEGORY: 未分類
近刊の慧海・等観本(書評)
 19世紀末から20世紀初頭にかけて、チベットは外国人に対して固く国を閉ざしており、欧米人にとってチベットは地理学上の空白地帯で、神王ダライラマの君臨する憧れの地であった。そのため各国探検隊はあの手この手でチベットに潜入しラサをめざしたが、多くは途中で見破られ地方官に追い返され、荷を運ぶ家畜を飢えと寒さで失い一部の者は命まで落とした。
http://blog-imgs-44-origin.fc2.com/s/h/i/shirayuki/ekai.jpg

 このラサ到達レースは1904年に英国のヤングハズバンド隊のチベット侵攻で一応幕を下ろす。しかし、その三年前の1901年、黄檗宗の僧、河口慧海(1866-1945)が仏典を求めてチベットに潜入し、ラサに到達していた。他国に先駆けてのチベット入りは評判を博し、その探検記Three Years in Tibet(チベットの三年) は世界的に知られ、日本においても欧米人の鼻を明かしたと快哉をもって受け入れられた。

 というわけで、慧海といえば日本人のチベット密入国者第一号と知られるが、高山龍三先生の近著『河口慧海への旅 釈迦生誕地に巡礼した人びと』によると、彼は日本人初のネパール密入国でもあるらしい。

 慧海はチベットに潜入する直前に下準備としてチベット僧としてのマナーを身につけ言葉を覚えるために、シッキムやネパールに滞在しており、チベット滞在の後正体がばれて国外に脱出した後もやはりネパールやシッキムにもどっている。本書はこの間の主にヒマラヤ南斜面での慧海の足取りをおったものである。

 著者高山龍三チベット文化研究会の会長先生で、もともとヒマラヤ南斜面側のチベット文化圏(中国の支配下に入ったヒマラヤ北側は長期間フィールド調査ができなかった 笑)をフィールドとする人類学者さん。河口慧海に関する評伝や資料をこれまでも数々出版されており、本書は、河口慧海研究の現在を知るにも良い一書である。

 また、二月の初めに高本康子著『チベット学問僧として生きた日本人: 多田等観の生涯』がでた。中国が支配する前にチベットに入った日本人は、有名な人だけ挙げても十人はくだらない。中でも多田等観は正式なルートでチベットに入り、ゲルク派の僧として八年間チベットの僧院で修行しており、チベットにもっとも濃く関わった日本人と言える。
http://blog-imgs-44-origin.fc2.com/s/h/i/shirayuki/toukan.jpg

 本書は著者が一昨年に発表した専門書『近代日本におけるチベット像の形成と展開』の知見も随所にもりこまれているため、日本におけるチベット・イメージの変遷を簡単に知ることもできる。著者によると、チベット文化を曇りのない目で理解・評価した日本人は少数いたものの、報道・新聞記事などによって醸成される一般人のチベット認識は、チベットを珍奇なもの、未開のなものと蔑む傾向、つまり、アジアの一等国の奢りむきだしのものであった。

 これは現在中国共産党チベットを語る時の上から目線とよく似通っている。アジアでいちはやく明治維新の後に近代化をとげた日本から、中国がさまざまな概念を学び、その語彙を取り入れたことはよく知られている。チベット・イメージに関しても、中国は近代日本のある時点のチベット評価をそのまま受け継いで、ついでに言えばそこで止まって変質・肥大化したことが分かる。同時代の欧米人がチベット文化の本質を理解し、その高度な精神性を高く評価していたことに比して、開化直後の日本の知的レベルはやはり前近代であったことが分かる。

 河口慧海、多田等観以外のチベットに入った人々についても、数多くの著作集、評伝、史料集などが出されており、一大ジャンルを形成している。これらの研究は共通して「日本人の目を通してみたチベット」「日本人がチベットに向かう動機」に焦点を結んでおり、彼らを受け入れた一方の、ダライラマ13世、ダライラマ14世の宮廷、チベットの貴族社会・僧院社会、五台山・北京のチベット仏教界などの実情・思惑などについてほとんど注意を払うことはない。

 しかし、多田等観は八年もの間、チベットに滞在し、おそらくはチベットとの間に他の誰よりも強い絆を築いていた人と思われる。そこで、高本康子氏の引用した多田等観の著作より、チベット側が彼に託していた思いを探ると、このような記事が見いだせる。

 多田等観がゲルク派の本山ガンデン大僧院に巡礼し、ガンデン大座主の座を仰いだ時、「座主である旧師に、自分がチベット仏教を日本によく伝えることができるように、この高座の上で祈ってください」と真剣に頼んだという。この当時、彼(多田等観)はチベット仏教僧として日本人の自分が何をしていくべきなのか、しきりと考えていたという(『チベット滞在記』p.82)。

 そして、ダライラマ13世も多田等観に「おまえは大切な人間だ、日本に帰ってから仏教を拡(ひろ)める役がある」(ibid. p.77)

 とあることからも、ダライラマ13世が多田等観をチベットの僧院に受け入れ学ばせた理由は、いずれ日本において彼にチベット仏教を布教させるためであり、多田等観もその任務についてはよく自覚していたことが分かる。

 まず、王侯貴族に法を説き、配下のものから出家者を出させ、そのものを中央チベットゲルク派の大僧院で教育し、学なりて後には本国に戻してその王侯の支援の下に僧院を建立させ、そこでゲルク派の哲学と実践を行う場をつくる、というのは実はゲルク派の伝統的な行動様式である。

 西本願寺派法主大谷光瑞の後ろ盾によってチベットの僧院に入った多田等観の場合、ダライラマ13世の目からみれば、日本の王侯にあたるものが大谷光瑞で、多田等観がそこから受け入れた外国留学生ということになる。ダライラマ5世がジェブツンダムパ一世に目を掛け、モンゴルに返した後、モンゴル仏教の象徴的な僧となるようにバックアップしたように、ダライラマ13世は日本におけるチベット仏教布教の中核人物とするために多田等観を教育していた可能性は高い。

 そして多田等観もチベットでの八年の僧院生活を通じて、チベット仏教を高く評価していたことは以下の言葉より明らかである。

 日本の仏教は布教に重点をおき、外へと教えを拡張することを尊ぶ。しかしチベット仏教はそうではない。「布教するということは余程の力があり、従って余程腹ができていなければ出来ないものと思っている。もし布教出来るような偉い人が布教した場合には、十人が十人聴いたものがことごとく従って来るような布教でなければならない。それよりも自分の教を完全に把握してそれを守っていくことに努力する。従って外に出すということより、内で守ることが目的である。」(『多田等観』p.353)

 しかし、多田等観は帰国後、チベット仏教を広めるどころではない現実に直面する。まず大谷光瑞が〔探検で散財しすぎて〕失脚して宗派内で力を失っていた。さらに、日本には戒律を護る僧が勉学や修行に励む場=僧院がない。彼がチベットで学んできた哲学は僧院生活の中で継承されるものであり、僧院のない日本においてはその教えを伝える術もなかったのである。

 帰国後四年たった1926年、等観は結婚をする。彼の属する浄土真宗は日本仏教の中でも妻帯を公式に認めている宗派であるから、真宗的には別に不思議ではない。しかし、戒律をまもるゲルク派の僧侶としては、等観は結婚した時点で破戒したことになる。そのため、結婚に際しては等観にも何らかの葛藤があったと思われるが、その裏をとる気力はない(笑)。

 その後の多田等観は仏教者というよりは、学者としての活躍が目立ち始める。東京大学東北大学、モンゴル、スタンフォード大学東洋文庫などで教鞭をとり、チベット仏教を教え、後進を育て、彼の持ち帰った経典類は河口慧海の将来文献とともに、日本のチベット学の発展に裨益した。多田等観の学者への転身は、1959年以後、ゲルク派の還俗僧の多くが、チベット学のインフォーマントとして活躍した事実を思い起こさせてくれる。

 「布教をすれば十人聴けば十人従う人でなければ布教はできない」、とゲルク派の学問仏教の威力を知り尽くし多田等観であったからこそ、等観は帰国後、あえて多言を弄することなく、還俗し東洋学者となったのかもしれない。

 多田等観がチベット学に多くの利益をもたらしたことは言うまでもない。かくいう私も東大に収蔵されていた多田等観のチベット聖典にはよくお世話になった。彼の持ち帰った聖典は紙質がよく、印刷もはっきりしていて非常に読みやすい。河口慧海将来のテクストは同じものでも、向こう側が透けて見えるようなボロ版本が多かったから。
 
 多田等観は東洋文庫チベット人の研究員を呼ぼうという時、インドに自ら出向いてダライラマ14世と対面して「自分はゲルク派はよく知っているから、サキャ派ニンマ派の人」を要望して、そして来日されたのが、サキャ派はソナムギャムツォ先生、ニンマ派からはケツンサンポ師であった(多田等観先生の最後の弟子北村甫先生談)。等観なきあと、東洋文庫の外国人研究員となったゲルク派のゲシェ・テンパゲルツェン師は、うちのダンナにチベットの論理学を教えてくださるなど、チベットを学ぶ多くの日本人学者に影響を与えた。
 
 北村甫先生(言語学)はその後、東洋文庫長をつとめられ、チベット研究室を支えてくださったが、その北村先生もなくなって久しい。今や、ダンナもわたしも「読者が2-3人しかいない」などといいつつ、歴史や論理学の研究をほそぼそとやる今日この頃。多田等観の遺志を果たして我々が継いでいるのかは永遠の謎である。

 というわけで、未来に限りない不安を覚えることもないこともないが、チベット文化は内容が確かなのだから、研究され続けるし、支えてくれる人も現れ続けるだろうと思う。そう思わないとやっとられんわ。