パルデンの会

チベット独立と支那共産党に物言う人々の声です 転載はご自由に  HPは http://palden.org

チベットの現状と今後の運動展開 その2

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宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成29年(2017)3月23日(木曜日)弐
        通算第5233号
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   ♪より転載
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チベットの現状と今後の運動展開」

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アジア自由民主連帯協議会 会長 



1970年代に米中国交ができ、世界全体ももはやゲリラ活動を支援するような社会ではなかった。唯一あったのがインドです。インドは当時、東と西に東パキスタン、西パキスタンがあり、アメリカは当時パキスタンを応援していました。中国もパキスタンと友達になりました。

 後ろからはチベット経由で中国、そして下からは共産主義者、そして横からはアメリカのCIAを中心として、当時のインディラ・ガンジーの、彼らが言う独裁政治に反対するインテリグループ、こういう敵対勢力に包囲されているような状態の中で、インディラ・ガンジーは思い切ってバングラデシュの独立を支援しました。
  バングラデシュは、最初の独立運動のときにインドに来て訓練を受けさせたのは7名しかいなかった。ちょうど僕の親が住んでいた家の大家さんがインドの将軍で、彼が私たちのチベットの軍隊の軍事顧問であり、同じ人がバングラデシュの人たちも訓練しました。
  そのとき、インディラ・ガンジーは私たちにチャンスをくれました。

チベット人がたくさんバングラデシュの独立のために戦い、そしてダッカまでは私たちのほうが本当は先に行ったのです。当時の新聞を見れば、正体不明の部隊となっています。
正体不明の部隊はわれわれです。そのころのチベット青年会議の組織を見ると、中央委員会とか、非常に共産主義的な組織です。あのころになりデリー大学でやっと、年齢的に言うと私たちが難民になり、大学を卒業する人たちが出ました。そのときにチベットはまだ独立ということを言っていたから、青年会議の提案で高校を卒業したらいったんは必ず入る。
彼らも入っているけど、私は日本にいたからサボってしまった。

  当時はみんな進んで入りました。なぜかというと目標が明確でしたから。しかし、アメリカが北京と仲良くし、1979年、ソ連アフガニスタンに入った。ソ連はそれまで私たちのことを、北京政府と同じだったのですが反革命分子と。当時、共産主義は世界各国にあった。日本の中の学生運動もそうです。世界を共産主義化しよう、社会主義化しようという理想を持っていた。
そういう時代の中において、チベット青年会議は独立することを目標にした。チベット本来の、1963年にインドへ来てからみんなが誓い合った三つのチベットの州が全部入ったのが今のチベットの地図で、チベット青年会議のマークになっています。それがチベット人の目指すチベットでした。
  北京政府も1980年代まではそれを認めていました。いま言った1979年、アフガニスタンソ連が侵入し、当時はまだソ連でしたが、ソ連のラジオ放送で、それまではわれわれのことを反革命分子と言っていたのが、いきなり民族自決のために戦っているチベットになったのです。それから、ダライ・ラマ法王のソ連訪問を歓迎しました。赤いじゅうたんを敷きました。

 『毛語録』しかなかった文革の時代

  北京は1966年からいわゆる文化大革命に入り、1976年、ほとんど国はもう貧乏でした。そして、お互いに信用もできない。ちゃんとした学校へ行っている人もいない。
みんな『毛沢東語録』さえ持っていればよかった。結婚式のお祝いも『毛沢東語録』をあげなければならない。だから『毛沢東語録』は156冊持っていたけれど、それ以外の教育をちゃんとしていないような状況だった。
  そのときに?小平は、もちろん世界に対し柔軟な姿勢を見せなければならない。だから、1979年にダライ・ラマ法王のお兄さんと会った。そのときに法王のお兄さんに対し?小平自ら、独立という言葉以外だったら何でも話し合う用意がある。それも独立は駄目だと言ってないのです。独立という言葉がいけない。また、オーストラリア、ニュージーランドなどからも、あなたたちを応援するけれども神聖政権は応援できない。デモクラシー、あなたたちが民主化をやるのだったら応援しよう。似たようなことをヨーロッパの国々も言い始めました。

  法王自身は即位してすぐチベットの改革に入ったのですが、最初は中国の邪魔が入り、国内では思うようにできなかった。まだ法王は若かった。法王に対しこういう言葉は失礼ですが、本当にかわいそうなぐらいで、まだ17歳になるかならないかですべての責任を負わなければならなくなったのです。チベットの悪いところは、きょうはチベット人の前で、もしほかのことを聞いたら怒られるかもしれませんが、私たちは人間が努力をして神様に頼むのはいいけれども、人間が努力しないで神様のせいにする。だから神様にいろいろ聞いたりお祈りをしました。チベット全土で、平和のために各お寺でお祈りをしていました。しかし、法王の国内における改革はできなかった。

  中央チベットには小作人制度がありました。これはたぶん、中国政府のうその中にも本当が少しあります。だいたいのうそには、みんな、少しは本当があるのですが、その小作人が地主から土地を借りたり、あるいは年貢を納めるときに納められなかった分に関して誓約書を書いたりした。それをチベットで法王が即位してからは全部破った。東チベットにはそういう制度がなかったけれども、西チベット、中央チベットではそれを全部破り、そして人々に対し、あなたたちが地主だ。そういうことをした。法王は、唯一それだけができたのです。

  しかしインドへ来て、1963年に初めて暫定憲法というか、将来の憲法をつくりました。憲法をつくったときも、僕の父親の年代のチベットの人たちは、とんでもない。やはり法王があくまでも法律もつくるし、法王の言葉が法律だ。そんな法律など要らない、憲法など要らない。
ましてや、あの憲法の中に、法王の地位に対しても書いてあるのですが、もし法王がふさわしくないときは議会によって弾劾できることになっている。それを見て、先輩たちは怒りました。法王の権限、法王をそのように縛るのはよくないと言った。
  しかし、最終的には法王が説得した。
みんなが納得というか理解して、何をしたか。たぶん、半分以上の人は新しい憲法を読んでないです。神棚に置いているだけで、法王からいただいた民主主義。残念ながら、チベットにはそれまでも民主化の運動はなかったわけではありません。しかし、民主化運動をやろうという人はきちがいだと言われ、刑務所に入ったりしたのです。
亡命先において私たちは法王から、少なくとも1960年代にもう民主主義の方向性を示す憲法ができました。

議会成立の背景、その時代的雰囲気

最初の憲法の議員たちはみんな元豪族、元貴族、あるいは各宗派の偉いお坊さんたち、みんなそうそうたる方々でした。英語の読み書きはできませんでした。ドイツと日本がどこにあるかもよくわからないような人だったと思います。
  しかし、彼らにはオーラがありました。
例えばいま、僕のために死んでくれと言ったら、死んでくれるチベット人は一人もいないと思います。
しかしその当時の法王やラマとか、そういう人たちが言ったら、死んでくれる人はたくさんいました。そういう人たちにより、議会をつくりました。

さらにそれを進め、1970年代になり法王は、中国共産党のもとではなく海外で直接国民が選挙する議員制度をつくりました。
最初は大臣たちを法王が任命して議会が承認する。やがて議会が指名して法王が任命する。段階的に民主主義をきちんとやってこられた。
2004
年あたりから法王が政教分離をして法王自身の宗教的な地位から下りた。
初めて私たちは直接選挙で総理大臣を選んだ。そのときはまだ元首の形で法王がいらしたのです。
このときに法王は完全に自分は退くとおっしゃっていて、私たちは、直接選んだ総理大臣が少なくとも政府の代表としてトップになることになりました。

一方、ヨーロッパの国々は中国との対話、そしてチベットの過激的な活動は支援しない。また、チベットの人たちもだんだんと大学を出て、頭がよくなったのです。世間に対し何を言ったら支持してくれるかが分かるようになりました。

  確かに、そういうことで、いま私たちは世界中にチベットのことを知ってもらう意味では、1961年、1963年、1965年、3回、国連でチベット問題を取り上げたとき、パレスチナと私たちの立場はよく比較されました。

しかし、あのときは私たちのほうがはるかに政治的には国連で3回も決議が採決されるということで、少なくとも政治的な問題としては重要視されました。おかげさまで79年から90年ごろまで、北京政府とジワリジワリ対話をしてきました。
その間にチベット問題についても、ヨーロッパの国々をはじめ、特に人権という側面から支援者が増えました。
  チベットの環境問題について最初にやってくれたのが、ドイツの緑の党のペトラ・ケリーです。
チベットにおいて核の廃棄物とか、そういうものがあることと、ドイツのシュミットさんと?小平の間に、チベットに核の廃棄物を捨てる場所を提供する交渉があることなどを告発してくれました。

チベットの文化、環境問題で、新段階へ

チベットの人たちも、いわゆる環境問題で中国がどんどんチベットの環境を破壊してきているようなことで環境問題に用いました。
  1979年から80年の間によかったことは、それまでチベットの外にいる人たちと中にいる人たちが会うことができなかったけれども、この間に北京政府は、家族は会ってもいいということで、私たちのいる本土というか、国内からも、インドに来る人が増えました。一時、私たちはチベットのお寺にお坊さんが足りないから、ネパール人とか、ブータン人とか、ラダック人とか、要するにチベット文化圏の人たちをたくさん入れましたが、1970年代後半ぐらいになるとチベット国内からたくさん入ってきて、みんなお坊さんになりたがる。

もちろん、お坊さんにならない人もいたけれども、だいたいお坊さんになり、お坊さんも増えました。そういうことで、チベット文化の維持、チベットの環境問題を世界に認知してもらう意味では、大変成功したと思います。
  しかし一方、何のためにチベット人はデモをやっているか。何を目指しているのか。これから先、チベットが何を目標にしているかということになると、非常に抽象的なことになってしまいました。

高度な自治もそうです。もちろん、法王の立場からするとそれしか選択はないと思います。なぜならば、いま消えつつある文化を保つことが必要です。
しかし、私は一個人のチベット人としては、みんなが法王のように偉くないと思います。みんなが法王のように慈悲に満ちた人ではないと思います。みんなが自分の親戚や家族の人たちが殺されているのを許せるような、そんな寛大な気持ちは持っていないと思います。

  何よりも中国のほうの政策が変わらない。
むしろ中国はこの約20年間、対話を利用して、着実にチベット国内において道路をつくり、高校をつくり、電車を引っ張ってきて、彼らの支配をより確実なもの、より充実したものにした。
そして、東パキスタン、あるいはモンゴルのように、中国人の移民がどんどん減ってきている。北京政府の話では、20161年間の観光客は2000万人を超えたという。日本がそのぐらいで喜んでいる。
チベット自治区でもし2000万人いたら、一般の人たちはもっと金持ちになってもいいと思います。しかし入っていくのはほとんど中国人です。

チベット観光といっても、殆どが中国人だ

 観光客も中国人。外国人はあまり入れない。それもすべて彼らの、いわゆる?Assimilation同化政策の一環としてやっている。
  一方2007年、つまり2008年のオリンピックの前の年になると、例えばダライ・ラマ法王の代表との対話を、私たちは、できれば第三の国でやりたいと最初から申し込んでいるのですが、北京政府はそれをしません。なぜかというと、彼らからすると、これは国際的な問題ではなく国内の問題であるという前提です。ですから、ほとんど北京とかへこちらから出向いた。

  例えば僕自身、19855月から8月まで3カ月行ったとき、私たちの任務はチベットの国境を明確にすることですと話し合うための、まず国境を明確にする。話し合いのための話をする。
 私たちは今の雲南省昆明まで行きました。つまり、雲南省にも三つのチベットの県があります。それから、もちろん四川省、さらにはアムド、青海省甘粛省。そのとき、中国政府は僕たちと同じ概念でしゃべったのです。もちろん、彼らの心の中は違う。しかし、一応チベットとしてしゃべっていました。

私たちはせめて香港ではどうですかとか。日本も候補に挙がっていたことがあります。残念ながら私たちは、日本はあまり。むしろ中国のほうが日本に対してはちょっと好意的でした。なぜかというと、私たちは日本政府、あるいは日本のメディアが必ずしも私たちに味方するとは限らなかった。

 北京五輪のために話し合いのジェスチャー

  2007年になり突然、北京政府はスイスでやろうと言い、スイスでできた。そのときは、北京政府も少し頭が軟らかくなったと喜んだのです。
大使館の人も来て参加しました。写真をみんなにばらまいた。法王の代表と中国の民族委員会副主席、副大臣級です。しかし、本当はオリンピックをやるために、あるいはオリンピック招致のために、世論をつくるために中国が利用した。
これは後になって気が付きましたが、後になって気が付いても遅いです。

  その3に続く