またこの日が来た。
数千人を殺した国が 我が国だけではなく世界中を自由勝手に動き回る。
国民は 嘘を平気でつき それと付き合う日本人は 一切天安門の虐殺は言わない、
国連において 日本が「ナチスの虐殺」と同様なことをしたと喧伝する。
彼らが行った 天安門の虐殺を 隠すために行っているのであろうが、
この国に実体はこういう国なのだから 日本国民はよくその実態を見てほしい。
いま 労働不足という掛け声で 多くの支那人が 日本に短期労働者として働きに来る予定である、
こんな国からの 労働者を受け入れる 自民党から まず腐ったリンゴを追い出さなければならない。
反日左翼以上に 保守党の親中議員ほどろくでもない連中である。
とにかく 支那関係のことは
『疑ってかかれ』を合言葉にしたい。
勝谷 誠彦氏の有料ブログより転載
2018年6月4日号。<大掃除 やろうとおもうて まけたるを またゴミでたる アホはいつまで>。
3時起床。尼崎市の自宅。
保守なので、昨日までの悪くない日々がそのまま明日に繋がっていくことを願っている。そうではない、貧しかったり不幸だったりという人々が、銃をとって革命を起こそうというのは当然だ。カネの問題だけではなく「このクソが」と思えばクーデターを起こすのだが、私は文藝春秋というところで政府軍に破れて亡命、いや、亡命ですらないな。無国籍になってこうやってふらふらしている。
戦争について書く、まあ今の時代では比較的、詳しいのであろうから、ときどきその腕を買ってくれるところがあった。それで食いつないでいたが、今はそれもない。そもそも、メディアでホットな前線がなくなってしまった。つまらない世の中になったものである。とはいえ、保守というのは、基本的に静かな人生が好きなのだ。私の理想は、イタリアの小さな街。決まったバルに行って一杯呑む。フィリピンの街がいいな、とはずっと思っていた。けれども、ブッソウなのと、顔が知られてしまったので、まず殺されてカネを奪われそうなので。
理想の擬似的なものを、私はいまいるタワーマンションに作ってきた。仕事は持ち込むが資料は持ち込まない。とにかくモノを増やさない。ゴミバコは東京の家で充分であり、最終処理場は軽井沢の家でいい。その環境を維持するために、素晴らしいハウスキーパーにお願いしてきた。彼女がいるのが当たり前でと思っていた。こういう予定調和が壊されると、私はまた鬱病になりそうなのだ。
当たり前だと思った。拙宅を美しく維持してくれているひとも、やはり歳はとられる。そもそも住人の私が「よっこらしょ」と「ああ、今になってバリアフリーの家のありがたみがわかるなあ」だ。そのひとから「そろそろ引退を」との声が、弟を通じてあった。もともと弟の医院で働いてくださっていたひとなのだ。だから信用して鍵をあずけることができる。だが、呆然としざるをえない。
こういうことは軽井沢の家でもまもなく起きるだろう。ずっと面倒を見てくださっている、本業は農家の御夫婦もかなりな歳だ。ただし、軽井沢には、日本で唯一といっていい「執事文化」がある。「今年はどうなっているのかしら」「あら、あなたはどなた?」と米倉涼子姫が言うと似合いそうな空気がホントにあるのだ。だから、何かしら後継者がいると信じるのだが。
尼崎ではなあ。どうしようかと絶望的な気持ちになって、昨日は局がとってくれたホテルから戻ってくるだけだったので、すぐに掃除をまずしてみようと思った。もちろんすでに完璧にしてくださっているのだが、今後のために少し練習をしてみようかと。ご存じのようにカタチから入るので、いろいろとある。ルンバではないがバッタもののそういうのもある。玄関に落ちて死んでいたとは、以前に書いた。スティック掃除機も買った。東京の家ではダイソンを入れたが、こっちはバッタもんだ。あまりかわらないのに値段が何倍も違うのにはやや驚いた。
どうしようか。やはり誰かにお願いするしかないか。みなさん、どうしていますか。鍵を預けてすべてを信頼して「きれいにしておいてね」というひと。海外では当たり前であって、私はそういう生活に慣れている。けれどもこの国ではまだ、なかなか。ひとを信用しないわけではないのだ。
おね~ちゃんがいちばんいいのだが。ここに住んでもらってね。私は、それができないのです。ある種の潔癖症なのだろうか。よほど選ばれたひとでないと、私と一緒にいることはない。
フィリピン人は、男女を問わずに「世界いちのメイド」と言われていて、いまここにいてくれるといいなあ、からの連想だ。
マニラでは日本語を勉強している子もいた。UP(日本の東大みたいなところ)の学生だったり。「本を読ませていただいていいですか?」というので(これは英語)「好きにやっていい。ついでに、冷蔵庫の中のものもすべて飲んでいい。酒もいいよ」と最後はジョークで言うと、しっかりと本を読んでいた。ある地位を持つひとの家で働くというのはこういうことで、それで多くの人材が育って行くのである。私はある地位ではないが、まあマニラだったから許して。
9割は留守にしている家なのだ。軽井沢もそれに近いけれども。あちらは、普通のひとには使えないが、尼崎の家は、駅まで2分、乗って10分足らずで大阪である。勉強をしたい留学生でもいれば、貸してあげたいほどである。そのかわり、いつもピカピカにしておけよ、と。空き部屋もあるので、女性でも、鍵をかければいい。えっ?美少年の方が危ないって?わはははは。
天安門事件から今日で29年か。「あの朝日」でもこいうサイドストリーでしか書けないか。あれは、ホロコーストに匹敵する人類史上の犯罪なのだが。支那が大きくなったから、言いにくいのか。
< 中国の民主化を求め北京の天安門広場に集まっていた若者が弾圧された天安門事件から4日で29年。共産党政権は今も事件を語ることを許さず、真相解明を求める動きを封じており、事件を知らない若者が増えている。そんな現状に危機感を抱いた中国人男性がドキュメンタリー映画を亡命先の米国で制作した。>
何が<弾圧>だ。朝日もこういう言い換えをするようになったか。あれは虐殺だ。
この日にこれについてだけは書こうと、毎年、考えてている。左巻ききらいであり、支那を嫌悪する私がおかしいと、疑っていただくのは当然だ。
あの時。文藝春秋の社員であった私は国際情報を担当していて、衝撃を受けた。いま現場に行かずして、何の記者かと決意したが、結局は行けず。行かなくてよかったと今では思う。かかる独裁国家に行ったとして、どういう取材ができたか。朝日新聞のような、あちらに媚びているメディアでも、ろくな報道はできなかった。今になって、介護老人のションベンのような(いくらなんでもひどいことを書くなあ)「あのころ実は、自分はこうしたかった」という記事ばかり垂れ流している。
ひとりぐらい死ぬか、と私は見ていた。私が死ねばいいと。戦後、死ぬ機会がなくなっていた。だから三島由紀夫先生は、ご自身で機会を作られた。
自由主義陣営でありながら、支那に入っていけるのは日本の記者たちであった。けれどもそれは、支那に媚びまくっていた大マスコミのみなさんであって、文藝春秋が入ろうとしても、難しかった。文春と支那との関係は、悪くはなかったのに。いかに支那が、あのことを隠蔽したかったか。いつもながら前置きが長くなった。こうなると、記事を引くとそのあとの紙幅が減って、いったい何のためにみなさんに書いているのかわからなくなるのである。
天安門事件だ。事件という表現が嫌いで私はずっと「天安門の虐殺」と書いている。今なら自分で飛び出して行ったろう。けれども当時はまだ社員だったので、そうはできない。せいぜい、流れてくる情報をどう整理して読んでもらうかだった。あれから29年か。歳をとるはずだ。
こいつら、屑だな、と直感した。支那の独裁政権である。ところが「あの」文藝春秋ですら、周囲はピンときていないのである。ましてや日本の大マスコミは。無腰の学生たちにたいして軍人が発砲するなどということは、まずありえない。なぜ国際世論がもっと沸騰しないのかと激怒したが、いまおもえば、やはりあれだけの人口がいる国のカネへの遠慮があったのか。
そこでつけあがらせてしまったことがいまにつながっているのだ。支那はなんとなく国際社会で「地位」を得てしまった。あの虐殺が、アフリカのくろんぼ国家だったらどうか。国連除名、経済制裁がもっとシビアに行われたのではないか。天安門事件は、もっと論じられていい。え?左巻きみたい?だから言っているじゃん。私は日本人の生気を発揮したいだけなのだと。
解散は惜しいのではない。日本国の司法やメディアに与えた影響はあまりに大きい。その前の時代に、バッタもんの事件記者をしていただけによくわかる。ずっと導いてきてくださった方がお辞めになる。お歳を考えるといたしかたないが、私たちはこの方に最大限の感謝を捧げるべきだ。あまり大きなニュースにはなっていないから、私が、ささやかながら大きく書く。どういう矛盾したことかと言われそうだが、気持ちの問題だ。
<「犯罪被害者の会」解散/支援制度整備で成果>
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO3131334003062018CR8000/
<犯罪被害者や遺族らでつくる全国犯罪被害者の会(あすの会)が3日、東京都内で最終大会を開き、結成から18年の歴史に幕を下ろした。犯罪被害者支援制度の整備に取り組んだ元代表幹事、岡村勲弁護士(89)は「会はなくなるが、被害者の課題がなくなるわけではない。これからは国民や国が解消に向けて取り組んでほしい」と活動を締めくくった。大会には支援者や弁護士ら200人以上が参加。冒頭、松村恒夫代表幹事(76)が「18年間日本中の皆さんからご支援や応援をいただき、お礼を申し上げる」と深く頭を下げ、会場は拍手に包まれた。>
政府はね、安倍晋三さんはね、とんだりはねたりしているスポーツ業界のヒトたちだけではなく、この89歳の老弁護士にこそ、国民栄誉賞を差し上げるべきではないのか。そういう視点から見ているメディアがないので、おせっかいながら私が書く。「国の宝」とはこういうひとである。解散はあまりに惜しいが、私の価値観からいうとわからなくもない。「運度と思われたくない」ひとたちなのだろうかと。
「運動」は左巻きのひとたちの行動で、いつも動いていてそれがカネやメディアへの露出につながる。けれども、この志の高いひとたちはある到達点に来たので、あとは国民の良識に任せようと思われたのではないか。私たちは、任されたのである。このことを自覚したい。何がどうあっても、卑劣な被害にあったひとびとを、私たちは支えていかなくてはいけないと、託されたのだ。覚悟すべきである。
こっちにいるからローカルニュースに接することができる。私がここでわあわあ言って「全国ニュース」にしたい。ひどい話だ。
<神戸・中3自殺/「事務処理が煩雑になる」市教委が聴取メモ隠蔽を指示>
https://kobe-np.co.jp/news/sougou/201806/0011321181.shtml
記事を引く紙幅がないので、詳細はリンク先を見て下さい。いつもの負け犬の遠吼え。私を知事にしていると、今ごろとんでもなく面白かっただろう。こういう隠蔽がいちばん嫌いで、まずかかることをあぶりだしてやろうと考えていた。上司に酌して信実を隠蔽してのし上がってきた役人の方々に信実を語っていただくのである。処分とまでは言っていなかった。票を失うからね。老後まで全部奪う権限が私にはあるはずだった。
ガマンしたのに~。そういう「粛清」に対する反発を油断していたな。「正義は勝つ」は甘かった。利権談合共産主義という言葉を日本国にデビューさせながら。いま引いたの、いい記事でしょ。だから私は必要がないと言われたのだ。でも、みんなありがとね。
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勝谷 誠彦 [KATSUYA Masahiko]
Email:VZR04050@nifty.com
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3時起床。尼崎市の自宅。
保守なので、昨日までの悪くない日々がそのまま明日に繋がっていくことを願っている。そうではない、貧しかったり不幸だったりという人々が、銃をとって革命を起こそうというのは当然だ。カネの問題だけではなく「このクソが」と思えばクーデターを起こすのだが、私は文藝春秋というところで政府軍に破れて亡命、いや、亡命ですらないな。無国籍になってこうやってふらふらしている。
戦争について書く、まあ今の時代では比較的、詳しいのであろうから、ときどきその腕を買ってくれるところがあった。それで食いつないでいたが、今はそれもない。そもそも、メディアでホットな前線がなくなってしまった。つまらない世の中になったものである。とはいえ、保守というのは、基本的に静かな人生が好きなのだ。私の理想は、イタリアの小さな街。決まったバルに行って一杯呑む。フィリピンの街がいいな、とはずっと思っていた。けれども、ブッソウなのと、顔が知られてしまったので、まず殺されてカネを奪われそうなので。
理想の擬似的なものを、私はいまいるタワーマンションに作ってきた。仕事は持ち込むが資料は持ち込まない。とにかくモノを増やさない。ゴミバコは東京の家で充分であり、最終処理場は軽井沢の家でいい。その環境を維持するために、素晴らしいハウスキーパーにお願いしてきた。彼女がいるのが当たり前でと思っていた。こういう予定調和が壊されると、私はまた鬱病になりそうなのだ。
当たり前だと思った。拙宅を美しく維持してくれているひとも、やはり歳はとられる。そもそも住人の私が「よっこらしょ」と「ああ、今になってバリアフリーの家のありがたみがわかるなあ」だ。そのひとから「そろそろ引退を」との声が、弟を通じてあった。もともと弟の医院で働いてくださっていたひとなのだ。だから信用して鍵をあずけることができる。だが、呆然としざるをえない。
こういうことは軽井沢の家でもまもなく起きるだろう。ずっと面倒を見てくださっている、本業は農家の御夫婦もかなりな歳だ。ただし、軽井沢には、日本で唯一といっていい「執事文化」がある。「今年はどうなっているのかしら」「あら、あなたはどなた?」と米倉涼子姫が言うと似合いそうな空気がホントにあるのだ。だから、何かしら後継者がいると信じるのだが。
尼崎ではなあ。どうしようかと絶望的な気持ちになって、昨日は局がとってくれたホテルから戻ってくるだけだったので、すぐに掃除をまずしてみようと思った。もちろんすでに完璧にしてくださっているのだが、今後のために少し練習をしてみようかと。ご存じのようにカタチから入るので、いろいろとある。ルンバではないがバッタもののそういうのもある。玄関に落ちて死んでいたとは、以前に書いた。スティック掃除機も買った。東京の家ではダイソンを入れたが、こっちはバッタもんだ。あまりかわらないのに値段が何倍も違うのにはやや驚いた。
どうしようか。やはり誰かにお願いするしかないか。みなさん、どうしていますか。鍵を預けてすべてを信頼して「きれいにしておいてね」というひと。海外では当たり前であって、私はそういう生活に慣れている。けれどもこの国ではまだ、なかなか。ひとを信用しないわけではないのだ。
おね~ちゃんがいちばんいいのだが。ここに住んでもらってね。私は、それができないのです。ある種の潔癖症なのだろうか。よほど選ばれたひとでないと、私と一緒にいることはない。
フィリピン人は、男女を問わずに「世界いちのメイド」と言われていて、いまここにいてくれるといいなあ、からの連想だ。
マニラでは日本語を勉強している子もいた。UP(日本の東大みたいなところ)の学生だったり。「本を読ませていただいていいですか?」というので(これは英語)「好きにやっていい。ついでに、冷蔵庫の中のものもすべて飲んでいい。酒もいいよ」と最後はジョークで言うと、しっかりと本を読んでいた。ある地位を持つひとの家で働くというのはこういうことで、それで多くの人材が育って行くのである。私はある地位ではないが、まあマニラだったから許して。
9割は留守にしている家なのだ。軽井沢もそれに近いけれども。あちらは、普通のひとには使えないが、尼崎の家は、駅まで2分、乗って10分足らずで大阪である。勉強をしたい留学生でもいれば、貸してあげたいほどである。そのかわり、いつもピカピカにしておけよ、と。空き部屋もあるので、女性でも、鍵をかければいい。えっ?美少年の方が危ないって?わはははは。
天安門事件から今日で29年か。「あの朝日」でもこいうサイドストリーでしか書けないか。あれは、ホロコーストに匹敵する人類史上の犯罪なのだが。支那が大きくなったから、言いにくいのか。
<天安門事件きょう29年、風化させぬため撮る 中国から亡命、米で映画制作毎年>
https://digital.asahi.com/articles/DA3S13524981.html?iref=pc_ss_date< 中国の民主化を求め北京の天安門広場に集まっていた若者が弾圧された天安門事件から4日で29年。共産党政権は今も事件を語ることを許さず、真相解明を求める動きを封じており、事件を知らない若者が増えている。そんな現状に危機感を抱いた中国人男性がドキュメンタリー映画を亡命先の米国で制作した。>
何が<弾圧>だ。朝日もこういう言い換えをするようになったか。あれは虐殺だ。
この日にこれについてだけは書こうと、毎年、考えてている。左巻ききらいであり、支那を嫌悪する私がおかしいと、疑っていただくのは当然だ。
あの時。文藝春秋の社員であった私は国際情報を担当していて、衝撃を受けた。いま現場に行かずして、何の記者かと決意したが、結局は行けず。行かなくてよかったと今では思う。かかる独裁国家に行ったとして、どういう取材ができたか。朝日新聞のような、あちらに媚びているメディアでも、ろくな報道はできなかった。今になって、介護老人のションベンのような(いくらなんでもひどいことを書くなあ)「あのころ実は、自分はこうしたかった」という記事ばかり垂れ流している。
ひとりぐらい死ぬか、と私は見ていた。私が死ねばいいと。戦後、死ぬ機会がなくなっていた。だから三島由紀夫先生は、ご自身で機会を作られた。
自由主義陣営でありながら、支那に入っていけるのは日本の記者たちであった。けれどもそれは、支那に媚びまくっていた大マスコミのみなさんであって、文藝春秋が入ろうとしても、難しかった。文春と支那との関係は、悪くはなかったのに。いかに支那が、あのことを隠蔽したかったか。いつもながら前置きが長くなった。こうなると、記事を引くとそのあとの紙幅が減って、いったい何のためにみなさんに書いているのかわからなくなるのである。
天安門事件だ。事件という表現が嫌いで私はずっと「天安門の虐殺」と書いている。今なら自分で飛び出して行ったろう。けれども当時はまだ社員だったので、そうはできない。せいぜい、流れてくる情報をどう整理して読んでもらうかだった。あれから29年か。歳をとるはずだ。
こいつら、屑だな、と直感した。支那の独裁政権である。ところが「あの」文藝春秋ですら、周囲はピンときていないのである。ましてや日本の大マスコミは。無腰の学生たちにたいして軍人が発砲するなどということは、まずありえない。なぜ国際世論がもっと沸騰しないのかと激怒したが、いまおもえば、やはりあれだけの人口がいる国のカネへの遠慮があったのか。
そこでつけあがらせてしまったことがいまにつながっているのだ。支那はなんとなく国際社会で「地位」を得てしまった。あの虐殺が、アフリカのくろんぼ国家だったらどうか。国連除名、経済制裁がもっとシビアに行われたのではないか。天安門事件は、もっと論じられていい。え?左巻きみたい?だから言っているじゃん。私は日本人の生気を発揮したいだけなのだと。
解散は惜しいのではない。日本国の司法やメディアに与えた影響はあまりに大きい。その前の時代に、バッタもんの事件記者をしていただけによくわかる。ずっと導いてきてくださった方がお辞めになる。お歳を考えるといたしかたないが、私たちはこの方に最大限の感謝を捧げるべきだ。あまり大きなニュースにはなっていないから、私が、ささやかながら大きく書く。どういう矛盾したことかと言われそうだが、気持ちの問題だ。
<「犯罪被害者の会」解散/支援制度整備で成果>
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO3131334003062018CR8000/
<犯罪被害者や遺族らでつくる全国犯罪被害者の会(あすの会)が3日、東京都内で最終大会を開き、結成から18年の歴史に幕を下ろした。犯罪被害者支援制度の整備に取り組んだ元代表幹事、岡村勲弁護士(89)は「会はなくなるが、被害者の課題がなくなるわけではない。これからは国民や国が解消に向けて取り組んでほしい」と活動を締めくくった。大会には支援者や弁護士ら200人以上が参加。冒頭、松村恒夫代表幹事(76)が「18年間日本中の皆さんからご支援や応援をいただき、お礼を申し上げる」と深く頭を下げ、会場は拍手に包まれた。>
政府はね、安倍晋三さんはね、とんだりはねたりしているスポーツ業界のヒトたちだけではなく、この89歳の老弁護士にこそ、国民栄誉賞を差し上げるべきではないのか。そういう視点から見ているメディアがないので、おせっかいながら私が書く。「国の宝」とはこういうひとである。解散はあまりに惜しいが、私の価値観からいうとわからなくもない。「運度と思われたくない」ひとたちなのだろうかと。
「運動」は左巻きのひとたちの行動で、いつも動いていてそれがカネやメディアへの露出につながる。けれども、この志の高いひとたちはある到達点に来たので、あとは国民の良識に任せようと思われたのではないか。私たちは、任されたのである。このことを自覚したい。何がどうあっても、卑劣な被害にあったひとびとを、私たちは支えていかなくてはいけないと、託されたのだ。覚悟すべきである。
こっちにいるからローカルニュースに接することができる。私がここでわあわあ言って「全国ニュース」にしたい。ひどい話だ。
<神戸・中3自殺/「事務処理が煩雑になる」市教委が聴取メモ隠蔽を指示>
https://kobe-np.co.jp/news/sougou/201806/0011321181.shtml
記事を引く紙幅がないので、詳細はリンク先を見て下さい。いつもの負け犬の遠吼え。私を知事にしていると、今ごろとんでもなく面白かっただろう。こういう隠蔽がいちばん嫌いで、まずかかることをあぶりだしてやろうと考えていた。上司に酌して信実を隠蔽してのし上がってきた役人の方々に信実を語っていただくのである。処分とまでは言っていなかった。票を失うからね。老後まで全部奪う権限が私にはあるはずだった。
ガマンしたのに~。そういう「粛清」に対する反発を油断していたな。「正義は勝つ」は甘かった。利権談合共産主義という言葉を日本国にデビューさせながら。いま引いたの、いい記事でしょ。だから私は必要がないと言われたのだ。でも、みんなありがとね。
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勝谷 誠彦 [KATSUYA Masahiko]
Email:VZR04050@nifty.com
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天安門事件きょう29年 中国で強まる人権弾圧
【北京=西見由章】中国で民主化を求める学生や労働者が武力弾圧された1989年の天安門事件から、4日で29年となる。中国共産党は現在も学生らの民主化運動を「政治風波(騒ぎ)」と位置づけ、事件に関する情報発信を厳重に規制している。人権派弁護士の相次ぐ拘束や海外亡命者の監視など、中国の人権状況は深刻さを増す一方だ。
北京出身の芸術家、楊偉東さん(52)は89年6月3日夜から翌未明にかけて北京の天安門広場にいた。当時、大学2年生。戒厳部隊の銃声が鳴りやまないなか、労働者とみられる男性が三輪自転車で搬送されていた。負傷したふくらはぎからは骨がのぞき、男性は「共産党にやられた」とうめいた。
楊さんは未明に知人の宿舎に逃れ無事だったが、同年9月に大学で始まった、人民日報の感想文提出などの「再教育」を拒否し、退学処分になった。
その後、表現の自由を求める芸術家として活動していたが、昨年6月に家族とドイツへ亡命した。しかし国外でありながら、今年5月末から中国人による尾行が目立ち始めたという。「中国の領事館前で行われる追悼行事に私が参加することを警戒しているのだろう」と楊さんはいう。
習近平指導部の下で弾圧は強まっている。昨年7月に事実上獄死したノーベル平和賞受賞者で民主活動家の故劉暁波氏の妻、劉霞さんは法的根拠がないまま当局の軟禁が続く。今年1月、憲法改正に関する書簡を公表した人権派弁護士の余文生氏は、4月に国家政権転覆扇動容疑などで逮捕された。妻の許艶さんによると、これまで弁護士が留置場を約20回訪れたが、接見は一度も認められていない。
事件で子供を亡くした親の会「天安門の母」は今月1日付で習国家主席に宛てた声明を発表し、「悲惨な事件は歴史になったが、災難は終わらず傷口は癒えていない」と強調。「真相と賠償、責任追及」を求め続けると訴えた。
北京出身の芸術家、楊偉東さん(52)は89年6月3日夜から翌未明にかけて北京の天安門広場にいた。当時、大学2年生。戒厳部隊の銃声が鳴りやまないなか、労働者とみられる男性が三輪自転車で搬送されていた。負傷したふくらはぎからは骨がのぞき、男性は「共産党にやられた」とうめいた。
楊さんは未明に知人の宿舎に逃れ無事だったが、同年9月に大学で始まった、人民日報の感想文提出などの「再教育」を拒否し、退学処分になった。
その後、表現の自由を求める芸術家として活動していたが、昨年6月に家族とドイツへ亡命した。しかし国外でありながら、今年5月末から中国人による尾行が目立ち始めたという。「中国の領事館前で行われる追悼行事に私が参加することを警戒しているのだろう」と楊さんはいう。
習近平指導部の下で弾圧は強まっている。昨年7月に事実上獄死したノーベル平和賞受賞者で民主活動家の故劉暁波氏の妻、劉霞さんは法的根拠がないまま当局の軟禁が続く。今年1月、憲法改正に関する書簡を公表した人権派弁護士の余文生氏は、4月に国家政権転覆扇動容疑などで逮捕された。妻の許艶さんによると、これまで弁護士が留置場を約20回訪れたが、接見は一度も認められていない。
事件で子供を亡くした親の会「天安門の母」は今月1日付で習国家主席に宛てた声明を発表し、「悲惨な事件は歴史になったが、災難は終わらず傷口は癒えていない」と強調。「真相と賠償、責任追及」を求め続けると訴えた。
岐阜県本巣市で野菜泥棒を警戒して畑を見回りしていた夫婦を包丁で脅したとして3日、中国籍の女(39)が暴力行為等処罰に関する法律違反の疑いで逮捕されました。
警察によりますと、2日午後8時15分ごろ、本巣市で畑の見回りをしていた50代の夫婦が不審な自転車2台が止まっているのを見つけました。
1人の女は逃げましたが、もう1人の女の自転車にビワがたくさんあったため、夫婦が話しかけたところ、女は包丁を振り回すなどして逃げました。
警察がその後、岐阜市に住む中国籍の技能実習生・肖蘭燕容疑者(39)を見つけ逮捕しましたが、調べに対し容疑を否認しているということです。
被害にあった夫婦によると、この一帯では7~8年前から野菜を盗まれる被害がよくあり警戒していたということです。
警察は肖容疑者の余罪を追及するとともに、逃げた女の行方を追っています。
警察によりますと、2日午後8時15分ごろ、本巣市で畑の見回りをしていた50代の夫婦が不審な自転車2台が止まっているのを見つけました。
1人の女は逃げましたが、もう1人の女の自転車にビワがたくさんあったため、夫婦が話しかけたところ、女は包丁を振り回すなどして逃げました。
警察がその後、岐阜市に住む中国籍の技能実習生・肖蘭燕容疑者(39)を見つけ逮捕しましたが、調べに対し容疑を否認しているということです。
被害にあった夫婦によると、この一帯では7~8年前から野菜を盗まれる被害がよくあり警戒していたということです。
警察は肖容疑者の余罪を追及するとともに、逃げた女の行方を追っています。
中京テレビNEWS