チベット仏教復活は夢ではない 文化人類学者、静岡大学教授・楊海英
今年はチベットの指導者、ダライ・ラマ法王が人民とともに蜂起し、中国に武力鎮圧されてから60周年に当たる。言い換えれば、法王がインドに亡命して60年の歳月が過ぎたことになる。法王が1989年にノーベル平和賞を受賞して30周年。同じ時期に中国共産党は天安門広場で民主化を求める学生と市民を虐殺したので、北京にとっては不名誉な年でもあった。
≪大清帝国を支えた「屋台骨」≫
チベットは「世界の屋根」にある、独立国家だった。高原の住民は自国をチュシ・ガンドゥク、即(すなわ)ち「4つの河、6つの山脈」と呼ぶ。広大なチベットにさまざまな方言集団が分布するが、どのグループもチュシ・ガンドゥクという言葉を聞いただけで涙を流し、胸を躍らせて、深い愛情を覚える。その地を平和に統治してきたのが、ダライ・ラマである。
ソナム・ギャツォは遡(さかのぼ)って同派の師匠らを1世と2世として追認し、自らを3代目と位置づけた。もっともこの時に3世ダライ・ラマはアルタン・ハーンに転輪聖王の称号を授けて、元朝のフビライ・ハーンとその国師サキャ・パクパとの檀家(だんか)・施主の関係を再度、実現させた。それほどチベットとモンゴルは深く結ばれていた。
満洲人が大清帝国を建立してからも、チベットに多大な敬意を払っていた。満洲人の歴世の支配者たちはモンゴルなど内陸アジアの遊牧民の前では「大ハーン」として、チベット政権に対しては敬虔(けいけん)な檀家として、中国人にとっては皇帝として施政し、中国史上稀(まれ)に見る長期政権を運営してきた。
清朝時代にダライ・ラマをはじめとする宗教指導者たちの精神的感化がすっかり定着し、漢人の信者も増えた。チベットから青海、甘粛、そして満洲平野を通ってシベリア南部に至るまで広大な「チベット仏教世界」が形成された。この平穏な「チベット仏教世界」の安定こそが、大清帝国の長期政権を支える「屋台骨」であった。
≪民族を殲滅した中国の侵略≫
様子が一変したのは、中華人民共和国の成立後だ。1950年10月、毛沢東の指令を受けた人民解放軍が東チベットを占領、翌年には首都ラサに進駐し、中国への帰属と「平和的民主改革」を強制した。中国がいう「平和的な民主改革」とは、遊牧民を「搾取階級の地主」として認定し、その放牧地を「土地」として略奪して外来の漢民族に分け与え、寺院を破壊して僧侶を還俗させることだった。
法王を追放しようとして、中国はチベット各地で大規模なジェノサイド(虐殺)を進めた。政府のデータによると、「殲滅(せんめつ)した反乱分子は34万7千人」に達する。そのうち、甘粛省のチベット人は実に3分の1に当たる8万人が「消滅」した。このような殺戮(さつりく)を周恩来は「チベット人をヨーロッパの中世よりも暗黒な農奴制度から解放した」と宣言していたのに対し、もう一人のチベット人指導者のパンチェン・ラマは「七万言の書」を書き上げて反論した。「政府は仏教の経典を破り捨てて馬に食わせ、仏塔と寺院を破壊した」と例示していた。
≪モンゴルからダライ・ラマを≫