鑑真にも認められていた 聖徳太子の前世は慧思禅師か?
千年前はインターネットがなく、日本と中国の間で簡単な情報を一つ伝達するためにも、風と波に乗って広大な海を越えなければなりませんでした。 しかし、日中両国は中国の六朝末の慧思禅師に対して、驚くほど一致している記録を残しています。
『唐大和上東征伝』は、唐僧、鑑真の渡日伝記を研究する際に、最も詳細で原始的な歴史資料であり、揚州の大明寺で鑑真の話の一部も記録されています。鑑真は、「昔、南岳の慧思禅師が遷化した後、仏法を興すために日本の王子に生まれ変わった」と言いました。この日本の王子が聖徳太子だという。
聖徳太子は顔立ちがりりしく、慈愛に満ち、国を統治する能力も優れていました。彼は仏法を研究し、儒学の古典もたくさん学びました。604年、聖徳太子は中原文化における仏と道、および儒学から道徳的な教えを取り入れ、『憲法十七条』を定めました。この憲法の内容は、現在の日本文化の礎として知られています。
607年夏、聖徳太子は36歳になった時、「私の前世、中原で修行していた時、よく唱えていた一冊の仏典は、今まだ衡山に置いてある。中原に使者を派遣し、誤りを修正する見本として取り戻してほしい」と請願しました。これを聞いて大王(おおきみ)は非常に驚いて、使者の任務に適任なものは誰か聖徳太子に尋ねました。聖徳太子は何百人の者の顔占いして、「小野妹子が最適だ」と勅答しました。
同年7月、小野妹子らは遣隋使として大唐(当時の隋、581~618)に派遣されました。
聖徳太子は「隋朝の江南道には衡州があり、衡州には衡山があり、南岳とも呼ばれる。衡山には般若台があり、南渓に沿って3、4キロ歩くと、谷口の隣に扉がある。 当時、一緒に修行していた僧侶はすでに遷化したが、他の3人はあそこにいる。 この僧服を持って、私の名義で彼らに渡してほしい。 昔、私が恒山で修行していた時、よく唱えていた一冊の仏典がまだそこに残っているので、取り戻してほしい」と小野妹子に言いました。
小野妹子たちは隋に渡り、聖徳太子から指示された経路を辿ると、確かに谷口の隣に扉がありました。小野妹子が日本語の方言で「慧思禅師の使いが来た」と大声を上げると、中庭にいた三人の老僧が迎えてきました。妹子は僧侶たちに対して、何度も拝みました。
話す言葉は通じていませんでしたが、幸いに書き言葉は同じ漢字でした。双方は、地上で字を書きながらコミュニケーションを取ることができました。
三人の老僧はようやく小野妹子らの意図を理解し、聖徳太子から贈られた衣服を喜んで受け入れました。そして、慧思禅師が生前に読んでいた仏典や仏舎利(ぶっしゃり)、名香、手紙などを小野妹子たちに渡しました。彼らはこれらの宝物を日本に持ち帰りました。
この記述は、日本の古代史である『聖徳太子伝記』から引用したものです。聖徳太子は摂政になってから、政治と仏学に精を出し、中国に行ったことは一度もありませんでした。
しかし、使者である小野妹子らは太子の指示に従い、仏典を探し出すことができました。そのため、後世の人は陳朝時代の慧思禅師が遷化した後、仏法を興すために日本の皇子に生まれ変わったと考えています。この言葉は、後に日本に訪れた唐の高僧、鑑真にも認められていました。
ではこの聖徳太子の前世の姿だと言われた慧思禅師は日本と中国の僧侶から尊敬されていましたが、どのような人物だったのでしょうか。
慧思禅師は俗姓が「李」です。若い頃は寛容な性格で知られていました。15歳の時、夢の中で見たインドの僧から出家を勧められ、両親を離れて仏門に入り、慧文禅師のもとで瞑想を学んでいました。
ある日、彼は瞑想中に体が急に重い病になったかのようで、どうしようもないほどの痛みに襲われ、手足の力が抜けて弱々しくなりました。慧思は自己反省し、これは彼自身が過去に様々な悪業を造った結果だと悟りました。
慧思は身体の苦痛を無視し、両手で自分の意識をしっかりと握り、一心不乱に瞑想に入りました。 その後、慧思は自分の体が空に浮かぶ白い雲のように軽くて、とても純粋であることを感じました。
善と悪が共存するこの世では、誰もが修行僧のことを認めているわけではありません。ある日、僧が嫌いな村人は、慧思が住んでいる小屋を燃やしました。しかしその後、その村人は重病になり、どんな治療を受けても効果がありませんでした。
重病になった村人は慧思のところに行って、心から懺悔し、新しい茅葺き屋根を建てました。新しい小屋の中で、慧敏はいつものようにお経を唱えたり、仏様に祈りを捧げたりしていました。その後、この村人の病気は自然に治りました。
慧思は、夢の中でよくインドの僧から悟りと教えを受けたり、弥勒菩薩と弥陀(みだ)から仏法の説法を受けました。慧思は「末世に仏陀から教示をいただけることは、誠にこの上なく幸いだ」といつも感銘を受けていました。
昔から今に至るまで、嫉妬によって理性を失い、正法を修行する人に危害を加える実例は少なくありません。慧思は才能と徳行を兼ねており、仏法に対する理解もかなり良かったのですが、彼の知性や才能を嫉妬して、慧思のご飯に毒を盛る者もいましたが、結局は邪悪な企みは達せられませんでした。
これらの害をなそうとする者に対して、慧思は全然気にしませんでした。「昔、聖人が生きていたとき、悪質な流言蜚語に害されることもあった。私は徳が高い者ではなく、これらの迫害は逃げられるわけもない。自分の前世で悪業を造った始末だから。私のことを加害しようとしている人が来たら、自分の罪を全部償うために、率直に受け入れるようと思う」と慧思はそう言っていたようです。
(翻訳編集・啓凡)