平野 聡 (ひらの・さとし)
しかし、半ば狼狽しながら抵抗した胡錦濤氏の老い切った表情といい、習近平氏のにやけた表情といい、立たされる胡錦濤氏を支えようとする動作をした栗戦書氏の左隣に座る王滬寧氏が「止めとけ」と言わんばかりに栗氏の背広を引っ張った(または叩いた)ことといい、これは公開宮廷クーデターのようなものである。
聖人君子の統治の偉大な復活
今回の党大会はそもそも、以下のことを中国の内外に示すためにあった。
(1) 過去10年(あるいはそれ以上、ことによると百数十年)かけて中国が願ってきた、外部の助けを借りず、外部の圧迫なく、真に中国自身の力と知恵のみによって国家建設と「富強」を実現する条件が整ったという宣言。
(2) 中国が多極化した世界の中で、西側の影響を受けずに排他的な影響力を行使し、ゆくゆくは中国の恩恵こそが真に世界を導き豊かさをもたらすという「中国の夢」が完全に実現する見込みが立ったという宣言。
習近平中国は、今や西側が主導するグローバリズムは米欧の没落によって終焉しつつあると宣伝しており、「乱」にまみれた既存の西側主導の世界に代わって、「穏」な世界を提供するという。そのような役目を担いうるのは、伝統的な「中国の知恵」を現代に復興させて最先端の科学技術と結びつけ、中国の「正能量(プラスのエネルギー)」を飛躍的に高めた中共であり、その中共の指導を絶対的な正しさの高みまで推し上げたのは習近平氏である、と言わんとしているのである。
このような発想は、天地万物の法則を完璧に理解した聖人君子が、「天下」(=グローバル社会)全体と万民を正しい方向に導くことができ、そのために「経世済民」の感覚を発揮して最先端の事物にも柔軟に対応することを良しとする、かつて19世紀以後の日本や清朝で見られた改革派儒学者の議論に連なる。
「中華民族の偉大な復興」とは、かつて一度も完全には実現せず、しかも西洋や日本によってくじかれた「天下」支配を今度こそ確実なものにしようとするものであり、「真正の中華帝国」を夢に描くものである。
分派と多様性は正しい支配の敵
このような聖人君子の支配において、思想の源泉・権威の所在はただ一つだけあれば良い。
福澤諭吉は、文明の進歩による個人と国家の独立は、思想と権威が分散され、人々が束縛なく多様に考え競うことによってはじめて実現すると説き、聖人君子が権力と権威を独占する皇帝専制を「支那の神政府」と糾弾し、その思想的な基礎にある儒学思想と訣別した(『文明論之概略』)。この裏を返すと、全力で正しい聖人君子の支配を掲げる側からみれば、分派や多様性こそ甚だ都合が悪い。
今回の中共中央人事は、この発想の現代における再現である。
毛沢東時代においてすら、中共党内にはさまざまな思想があり、集団化のユートピアを描く毛沢東と、現実主義的な経済建設を考える劉少奇・鄧小平らの溝は、凄惨な奪権闘争である文化大革命を引き起こし、中国全体を混乱の極みに陥れた。
その反省から中共は、改革開放時代において集団指導体制をとり、個人崇拝を打破して「実事求是」の精神を尊んだ。結果中国では、「国家の分裂」「中共体制の否定」「日本軍国主義・帝国主義の肯定」「社会の安定への危害」に及ばない限り、基本的に何を言ってもお構いなしという時代が続いた。勿論、1989年には民主化運動を六四天安門事件が起きたし、その後も曖昧な基準による恣意的な弾圧も起きたものの、党内にも社会にも多様性と活力がみなぎり、中国は高度成長した。
しかし習近平氏と、彼のブレーンである王滬寧氏はこの事実を履き違え、単に十数億人の多様な営みの果実を習近平氏の正しい指導の功績に収斂させようとしただけでなく、分派の可能性を敵視・警戒している。そこで今回矢面に立たされたのが、革命元老世代の血縁的な後ろ盾を持たず、自身の努力によって立身出世を果たした共産主義青年団(共青団。党員予備軍のエリート青年組織)系の人々である。彼らは今回、李克強首相以下ことごとく党中央常務委員会の7人から外され、次世代のリーダーとして嘱望されてきた胡春華氏に至っては政治局員入りすら果たせなかった。
共青団出身者の象徴である胡錦濤氏の退場は、「思想の解放・多様な議論によって特徴づけられる改革開放の時代は終わった」「習近平こそが史上かつてない完全な指導者として君臨し、習近平新時代が始まった」ことを満天下に示し、共青団系の人々の面子を潰す狙いがあったはずである。それを考案したのは恐らく、胡錦濤氏をかばう栗戦書氏の背広の裾を叩くなり引くなりした王滬寧氏ではないか。
あるいは、人事や方針をめぐって習近平と共青団系のあいだに最後の最後までわだかまりが残り、最後に「従わない者の運命として胡錦濤を見せしめにする」ということになったのかも知れない。胡錦濤から肩を叩かれた共青団系の弟分にあたる李克強氏ほか、壇上の誰も胡錦濤氏を労って後ろを振り向かなかったことも、その可能性を匂わせる。
胡錦濤氏も同罪……「中国化」少数民族政策の過酷
しかし、そこで退場させられた胡錦濤氏を悲劇の老人とみるべきではない。何故なら、胡錦濤氏こそ、今日の中国の局面をつくることに加担した張本人であり、同情に値しないからである。
胡錦濤氏はもともと、甘粛省・黄河上流部にある劉家峡ダム建設現場での技師時代を皮切りに、たたき上げの実務家として評価を獲得していた。1980年代後半、チベット・ラサで独立運動が起こると、鄧小平氏は胡氏をチベット自治区書記に引き上げ、胡氏は戒厳令による鎮圧の功によって党中央入りを果たした。
胡錦濤氏がチベットで振るった、独立などの異論を「分裂主義」として厳しく弾圧する手法、ならびに「社会の安定」により経済発展が実現すればさまざまな格差が解消・緩和されて民族問題が解決され、「中華民族」の大団結が図られるという論理は、その後の少数民族政策の中で一貫して繰り返されてきた。2008年のチベット独立運動、そして09年の新疆における騒乱を、一切の異論も許さず鎮圧したのも胡錦濤政権に他ならない。
習近平氏が過酷極まりない新疆政策を立ち上げたのも、鄧小平・江沢民・胡錦濤といった人々によって敷かれてきた、少数民族との対話を拒んだ愛国主義と「社会の安定」のレールに沿っている。
そして今回の党大会政治報告では、これまでの少数民族統治の基本枠組みである「民族区域自治」への言及が消えた。
もちろん、中国は共産党が指導する事実上の一党独裁国家であり、日本など自由な民主主義国における地方自治と「民族区域自治」は全くの別物である。しかし毛沢東時代、党の指導が個別の少数民族地域の実情と乖離していたことこそ民族問題悪化の原因となったことから、改革開放が始まると、80年代前半の胡耀邦総書記のもと、少数民族の社会・経済・文化への配慮や、少数民族幹部の登用による政治参加を促進することを柱とした民族区域自治法が制定され、党・国家と少数民族の関係が束の間改善されたのは確かである。
しかし胡錦濤時代以降強まった少数民族への締め付けは、やがて少数民族のアイデンティティの根幹にある言語や宗教にも及んだ。習近平政権は、単に新疆で過酷な政治をするだけでなく、そもそも民族区域自治を少数民族の独自性の根源とみなして冷淡になり、その代わりに「中華民族意識の鋳牢(読んで字の如し、溶かして叩き丈夫にすること)」を以て少数民族政策の根幹とするようになった。
第20回党大会の結果、少数民族に残されているのは、自らの宗教や文化を共産党の指導や中国の主流社会と適合的な方向に「中国化」させる選択しかない。それが如何に、多様性を重んじながら統合を図ろうとする世界の潮流と背反していても、習近平政権は全く意に介さない。
ゼロコロナ問題と新疆問題の教訓
したがって今や外界としては、中国で今後何が起こりうるかを、外界の「常識」に基づく期待、あるいは「いくら何でもそのような選択や手法は極端だから採らないだろう」という臆断で語るべきではない。
習近平政権は、外国の影響と異論を敵視し、思想の集中と統一こそが発展と富強のために欠かせないと考え、その通りに行動している。しかもその結果引き起こされる損害に対して責任を取ろうとしないばかりか、西側など外部勢力こそ問題だと切り捨てて憚らない。
この手の問題がいま最も顕著に現れているのが、台湾問題・香港問題といわゆる「動態清零(ダイナミック・ゼロコロナ)」の問題、そして新疆問題である (台湾問題については、拙稿「北京台北高速鉄道という危機 台湾統一に本気で動く中国」を、香港問題については拙稿「周庭氏らに下った実刑判決 日本よ、それでも中国を信じるのか」をご覧頂きたい)。
「動態清零」をめぐって、今回次期首相に抜擢されて党内序列2位となった李強氏は、上海市政のトップとして上海ロックダウンの大惨事を招き、中国の社会と経済の先行きに深刻な懸念をもたらした張本人である。そのような人物が副首相等の中央の要職を経験せずして大躍進的な昇進を遂げた事実は、外界の常識や基準では説明がつかない。
「米国のウイルス」に対する全人民的な闘いを習近平氏が自ら指導して「生命至上・人民至上」を実現したのであり、医療資源が不足する途上国としての中国で死者数を抑えるためには「動態清零」しか有効な手立てがない以上、誰が何と言おうとこの政策を貫徹すべきだ、というのが習近平氏の論理である。李強氏は、その通りに上海ロックダウンを断行し、感染者数を減らしたからこそ評価されたと言える。
党大会を直前に控えた10月11日、『人民日報』には「「動態清零」は持続できるし堅持すべきである」という論説が掲載され、改めて中国の人々の動揺を誘ったが、これは李強氏を党のナンバー2に堂々と据えるという予告であったのかも知れない。
また、今回党内序列5位となった蔡奇氏は、去る6月に「少なくともあと5年は動態清零をやる」と発言して北京市民の不興を買った。しかし習近平氏の価値観から見れば「最もよく動態清零に貢献している忠臣」である。
期待と臆断で中国を語るなかれ
外界の基準では説明がつかない党人事として、主席団常務委員会メンバーに、新疆での人権弾圧の張本人である陳全国氏が名を連ねていたことも見逃せない。陳氏は昨年末、新疆のトップの座を退き、農村工作指導小組副長という「閑職」に転じたことから、日本のメディアでは「極端な政策を進めた責任で左遷された」という憶測が流れた。しかし、「安定」こそが「中国の人権」である「発展権」の充足につながると称してイスラム教徒を弾圧する習近平氏の論理から見れば、陳全国氏こそ最も忠実だという評価になったと言える。
またこのような人事を通じて、中共は改めて「新疆をめぐる西側の批判は全てデマであり、中共の新疆政策こそ科学的で正しく、新疆の発展と安定を真に保証する」というメッセージを発したと言える。
中共は今や、一切西側・外界に妥協せず、堂々と「中国の道」を示すとしている。したがって外界も、それが如何に非合理で極端に見えるものであっても、「好転」の期待と臆断を戒めて、まずはその通りに読み取ったうえで、さまざまな可能性に備えなければならない。
日中国交正常化50年、香港返還25年と、2022年は、中国にとって多くの「節目」が並ぶ。習近平国家主席が中国共産党のトップである総書記に就任してからも10年。秋には異例の3期目入りを狙う。「節目」の今こそ、日本人は「過去」から学び、「現実」を見て、ポスト習近平をも見据え短期・中期・長期の視点から対中戦略を再考すべきだ。。
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