パルデンの会

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3/11 東日本大震災に思う






勝谷誠彦氏の有料ブログより

 威儀を正しなおす。今日は、あの私たちの世代では未曾有といっていい国難から2周年という日である。
 昨日も紹介したように、天皇皇后両陛下のご臨席のもとに都心でも追悼式が行われる。地震が発生した時刻を意識して、だ。
 これはまことに大切なことである。日本人は「その瞬間」に対する感覚とこだわりにすぐれていると私はずっと感じてきた。それが四季折々の行事や歳時記につながっているのである。
 ところがこの日記でもしばしば嘆いているように休日を連休にしたいからという下劣な理由で、成人式は正月の15日ではなくなった。この国の劣化はこうしたあたりからも始まったと私は感じている。
 3月11日ということが大事なのだ。にもかかわらず多くの場所で、追悼式は昨日に行われた。日曜日だからだろう。
 私個人としては、阪神淡路大震災を経験している。95年の1月17日のことだ。私の知る範囲では、この震災の追悼式、慰霊式を前後にずらしたことは聞かない。何があっても1月17日、それも午前5時46分を意識した行事が行われる。その「揺るがなさ」が大切なのだ。
 何を私は言いいたいのか。あの国難からわずか2年にもかかわらず、記憶や追悼の念がゆらいでいるように、昨日や今日の様子を見ていて感じるのである。それはあまりにあの出来事が「大きすぎた」ためであるかも知れない。範囲も広すぎたからであるかも知れない。しかしひとつには日本人の意識の変化もあるのではないか。阪神淡路があった95年から今に至る間に、疲弊しきったこの国に蔓延したある種の「いいかげんさ」を感じると言えば、言い過ぎであろうか。
 今朝の『スッキリ!!』がまさに追悼と慰霊の当日なのにもかかわらず、WBCをトップの話題としてとりあげようとしていることにもつながっていく。この欄でよく指摘する「本末転倒」であり「価値観の基準がわからなくなっている」のではないか。
 今日のテレビの番組はいままさにこれを書いているころに始まったばかりだが、それを観ていても思った。キャスターたちが被災地を訪ねているのだが「重み」というものが皆無だ。食べ物の取材と同じトーンにしか私には感じられない。阪神淡路大震災の時に、煙のあがる被災地を温泉地のようだといって叩かれたキャスターがいたが、その方がまだ私には理解できる。被災の当事者であれば、苦笑しただけだろう。
 しかし、渋面を作りながらもキャピキャピとしかいいようがない態度で被災地を歩く女の子を観ていると、あれほどの災厄にもかかわらず、日本人全体としてこの国難を受け止めていないな、と感じざるをえない。
 残酷なことを言えば、いや今日という日だから敢えて書くのだが、阪神淡路という日本国のいってみれば二番目の要衝を直撃されたことと、東北の地であるというこの二つの間にはそれこそ大マスコミがいつももっとも気を使っている「差別」があるのではないのかと、敢えて指摘しておきたい。阪神間は「必要な場所」であった。しかし東北は「なければなくてもいい場所」だということが深層心理にはないのか。
 もちろん「必須の場所」なのである。しかし日本国の中心にいる人々の間には、私はそういう意識があるのではないかと感じる。昨日もお送りした『天国のいちばん底』でも、折に触れてこの「東北という存在」の感触を書いているつもりなのだが。
 日本国は歴史において東北を常に「消費」してきた。黄金の藤原三代を利用し、滅ぼしたのはひとつの例だ。会津藩や、奥羽越列藩同盟を目の敵にしたことも同じ系譜に連なると言えるだろう。強兵を生みながら娘たちを女郎として売らざるを得なかった状況が2.26事件を引き起こした。高度成長期には、人材補給の後背地として「金の卵」たちが上野駅にやってきた。
 まことに率直に言うならば、中央と東北の力関係には明らかに高低差があるのだ。その地が災厄に襲われた時に、中央は「必要度」を考えるだろう。復興の歩みを眺めていると、そこにはこの感覚が明らかに作用している。きれいごとしか並べない大マスコミは気付かないのか(頭の悪さからいって、この可能性は高い)わざとなのか、まったくそうした視点から報じないが。
 今朝の朝いちばんの報道や、追悼式慰霊式の「日曜日にやってしまえ」などを眺めていると、私にはそうしたことが感じられて仕方がないのである。
 これはに阪神淡路大震災の当事者であったという経験が生きているのかも知れない。「大切にされかた」が違うのだ。「大切にされた」方のものが言うのもどうかと思うが、だからこそここに言い置いておきたい。

  これなどひとつの典型ではないか。
 <除染計画の達成、困難/来春完了目標 住民帰還に影響>
 http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201303080679.html
 <環境省は8日、放射線量が高く住民が避難している福島県11市町村で国直轄で行う除染の進捗(しんちょく)状況を初めて公表した。着手した4市町村でも、飯舘村の宅地は2012年度計画分の1%にとどまるなど大幅に遅れている。来年3月の除染完了の目標達成は厳しい状況だ。>
 ちなみに。こういう、全国民が心を痛めてどうしようかと知恵を寄せ合うべきニュースをカネを払わないとあとは読ませないよ、とするなよな。カネはどこかではとっていいですよ。朝日新聞、潰れそうなんだから。だけど記事によってメリハリをつけるくらいのアタマはないのかね。私の周囲では、さまざまな記事でそういう気持ちになって「朝日はやめた」という人々が続出しているよ。あのしょうもない広告を出せば出すほどね。
 ケチ朝日はこのわずかにチョイ見せした記事の中ですら心がこもっていない。まさにさきほど触れた中央の上から目線だ。
 <2012年度計画分の1%にとどまる>って「まったくできていない」ということじゃないの。<1%にとどまる>なんて、官僚でもよほど神経が図太くないと報告文に書けないセリフだ。それを書いた奴がいるんだろうが「何考えているんだ」と指摘するのがメディアの仕事じゃないの。
 ここからわかるのは、行政は本気ではないということだ。「除染なんか出来るわけないじゃん」と、言い合っている役所の中の風景が私には見えるようだ。あるいは津波にさらわれた地域について「あんなところに建てたって、また30年もしないうちにやられるよ」と言い合っている風景も。
 敢えて言えば「その通り」なんですよ。道路の両側何十メートルを除染したって、雨が降れば山から放射性物質が降りてきて元の木阿弥だ。津波にしても、どんな高い堤防を作っても「想定外」のことがおきればおしまいなのは、今回の惨禍が証明した。いずれにしても「住まない」という選択肢しかないのだが、大マスコミとしては情緒論を煽って商売にしたいのである。
 今日という日だから何度目かだが言う。政治家は悪者になりなさい。本当の保守というならば、その役割を担いなさい。会津藩校の校訓ではないが「ならぬものはなりませぬ」なのだ。「無理なものは無理」を誰かがしっかりと言って、しかしその上にこれまでの生活を上回る将来を、被災者の方々に作って差し上げよ。役人にはできない。悪者になれないからだ。しかし政治家にはできる。平成の悪者は、未来の偉人となりうるのである。

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