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陛下の前で涙を流した彼らは何者か~放置され続けたフィリピン「無国籍邦人」という問題


そして まだ」たくさんの遺骨も現地に残されているのだ
  戦後70年

陛下の前で涙を流した彼らは何者か~放置され続けたフィリピン「無国籍邦人」という問題

現代ビジネス 1月31日(日)11時1分配信

日本に見放されてきた慟哭の歴史

 1月28日、国交正常化60周年を記念してフィリピンを御訪問中の天皇、皇后両陛下が、フィリピンに在留している邦人と御接見された。その中に、両陛下を前に万感胸に迫る人々がいた。「フィリピン残留日本人」と称されている日系人連合会の関係者である。ある者は思わず、両陛下の姿を見て号泣したという。

 その涙の背景に、戦後70年間も日本に見放されて来た慟哭の歴史があることをご存知だろうか。「フィリピン残留日本人」とは、戦前にフィリピンに移民として渡った日本人や旧日本軍の関係者がフィリピンで現地の女性と結婚してもうけた子供たち(2世)だ。

 日本人の移民は、アジアだけでなく、ブラジルやペルーといった南米も含めて世界中にいると言っても過言ではないし、旧日本軍関係者の残した子供たちは、フィリピンに限らず中国やインドネシア等、アジア各地に存在する。しかし、フィリピンが他の地域と異なる点が一つだけある。それは、「無国籍」の状態で放置されている日系2世が多数いるということだ。その数は今なお約1200人にも及ぶと言われている。

 ではなぜ、現代のフィリピンに、日本人の血を引く「無国籍」の人々がこれだけ多くいるのか。他国の「残留日本人」に比べて、あまりに知られていない「彼ら彼女ら」の歴史をたどってみたい。

 もともとフィリピンは日本人にとって、最大の移民先の一つであった。1903年(明治36年)、当時フィリピンを植民地としていたアメリカによってルソン島北部にあるバギオが避暑地として開発されることになり、そこに至る「ベンゲット道路」(ケノンロード)の開発に従事するために、2000人以上にものぼる日本人が労働者として移住したのがその先駆けである。

 道路完成後、彼らの多くは、マニラ麻(アバカ)の産地であるミンダナオ島ダバオをはじめとするフィリピン各地に分散、定住するようになる。1930年代後半には、日本移民は2万4000人にも達していたとされている。つまり、戦前の東南アジアで最大の日本人社会が、フィリピンにあったのだ。

 当時のフィリピンには、外国人による土地所有の規制があったので、定住し土地を開墾しようという日本人はむしろ積極的に現地の女性と結婚し、フィリピン国籍の取得が進んだと言われている。

 しかし、そうした在フィリピン日系人社会は、戦争の惨禍に巻き込まれていく。

 1942年1月の日本軍フィリピン占領後、日本人移民の多くは徴兵されたり、軍属として採用されたりして、日本軍による統治に協力するようになる。抗日ゲリラ摘発等の「先兵」とならざるを得なかった日系人らに対する、現地社会からの敵視と憤怒の念が生まれたのは、その時である。



「捨てられた」日本国籍

 111万人という途方もない数の犠牲者を出したフィリピンでの戦争が日本の敗北で終わった後、日系人を待ち受けていた運命は過酷という他ない。

 壊滅的な被害を被った日本軍は遁走し、武装解除され財産を没収された軍関係者は、米軍によって日本へ強制送還された。移民の多くも引き揚げ船に乗り日本に向かった。

 こうした混乱の中で、フィリピン人の妻や子供達の多くは、現地に残る結果になった。夫、または父である日本人に同行して日本に「帰国」した者もいたが、戦火の中で生き別れになり途方に暮れる家族も多かった。

 戦争によって甚大な被害を受けたフィリピンでは反日感情が渦巻いていた。煮沸する反日感情を前にして、彼女らは、報復を避けるためにジャングルに逃げ込んだり、名前をフィリピン式に変えて身元を隠したりした。そして、日本人との婚姻を証明する文書も焼き捨てた。生き延びるためである。

 こうして、彼女たちの日本国籍は「捨てられた」。かといってフィリピン国籍を改めて取得するのでもなく、結果としてどの国籍を保持しているのかが「曖昧」になるという状況が出現したのだ(当時のフィリピン法は父系優先血統主義をとっていたので、日本国籍を確認しないとそのまま無国籍状態になった)。

 その後、フィリピン残留日系人は、「ハポン」と罵られたり、就職でも差別されたりするといった仕打ちを受ける中で、貧困に喘ぎながらも、静かに生きていく家庭が多かったという。

 つまり、フィリピンの残留日系人は、生き延びる為に「無国籍」の道を選んだ、いや、選ばざるを得なかったのである。これが、フィリピンの残留日本人「無国籍」問題の発端である。

 確かに、旧日本軍の他の支配地域でも、同じように敗戦時の混乱に起因する「無国籍」問題が生じた。しかし、フィリンピン以外の地域で現在に至るまで、無国籍問題が放置されている例は知られていない。

 例えばインドネシアでは、敗戦後も現地に残り独立闘争に身を投じた旧日本軍軍人に一時的な「無国籍」状態(日本国籍を離脱した状態)が生じたが、その後彼らは「栄典」としてインドネシア政府によって「インドネシア国籍」が与えられ、現地に「適応」することになった。

 また、中国でもいわゆる「残留孤児」の問題が生じたが、日中国交回復後、国を挙げての帰国支援事業が展開された。日中両政府の協力で「孤児名簿」が作成され、身元不明者に対する就籍手続(日本国籍を回復して、戸籍を作ること)が進んだ。ミャンマー(ビルマ)、タイ、マレーシア等でも、日系人の「無国籍」は特段問題となっていない。

 フィリピンだけで「無国籍問題」が放置されてしまったのだ。それはなぜだろうか。


立ちはだかった壁

 1972年、マルコス大統領が戒厳令を布告し、フィリピン経済再建のために親日政策を採用するようになってから、フィリピン残留日本人に光が射すようになった。それまで息を潜めるようにしていた日系人がフィリピン各地で日系人会を作り、日本人の子孫としての声を挙げ始めた。

 その声は日本にも達し、フィリピン日系人日本国籍回復を求める機運が高まった。1985年には外務省が国際協力事業団との合同調査に乗り出し、1988年の厚生省(当時)合同調査とあわせて、約2000人の日系人の存在が確認された。

 さらに、1995年以降、外務省はフィリピン日系人連合会およびフィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)に調査を委託し、合計で3545人の日系2世のデータが把握されるに至った。

 こうして蓄積されたデータを基に、「無国籍」状態のフィリピン残留日本人に、日本の国籍が回復されるはずであった。というのも、敗戦当時の日本の国籍法(1899年施行)は、父系優先血統主義を採用しており、父親が日本国民であれば、その子は無条件で日本国籍を取得できた。したがって、残留2世が本来の日本国籍を回復するのは、いわば理の当然といえたからだ。

 ところが、そのようなフィリピン残留日本人の前に「立ちふさがった」のが、裁判所の手続の壁であった。

 国籍回復の具体的な手段として新たに戸籍を作る(就籍)には、家庭裁判所の審判が必要であるが、その前提として、申し立てた者が日本国籍保有していることを明らかにしなければならない。

 しかし、フィリピン残留日本人の多くにとって、それは酷な要求だった。敗戦後の混乱の中で生きる為にあえて日本人であることの証拠を捨て去ったのである。今さら「父母の婚姻証明書」や「本人の出生証明書」といった、身元を証明する物証を提出するのは難しい。

 にもかかわらず、フィリピン残留日本人だけを「特別扱い」する訳にはいかないという理由で、一般的な就籍の要件を充たすことが求められたのだ。


救済はなされていない

 そのため、これまでの調査で存在が確認された3545名の残留日本人リストの中で、日本国籍を取得するに至らなかった者は実に2483名にのぼる。そして、外務省によれば、残留日本人の高齢化が進む今日、そのうち生存している者は1199名とされている。

 こうした状況に対して、民間レベルでの懸命の支援活動は続いている。フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)は、日本財団の支援を得て、就籍手続に必要な面接を実施するための「集団一時帰国事業」を実施している。

 外務省も、「無国籍者」でありフィリピン政府からフィリピン国民としての旅券を発給してもらえない残留日本人に対して、「短期滞在査証(ビザ)を貼付した渡航証明書」を特例として手数料免除で発行したり、在フィリピン大使館が保管している約2100件の「ファミリーファイル」(残留日本人の家系図)を家裁での審判に提供したりする等の支援を行っている。

 しかし、家庭裁判所における審判の運用は相変わらず厳格だ。支援事業の結果として就籍を実現できた者は、現在までに、僅か168名に過ぎない。

 これはあまりにも少ない数ではないだろうか。1200名近いフィリピン残留2世は、当時の国籍法に照らせば、「日本人」そのものであり、その「日本人」を救済することは、国にとって極めて重要な課題のはずだ。しかし、厳格な事実認定を要求する裁判所の手続を前にして、救済がなされているとはいえないのが現実だ。

 このまま、現在のような「杓子定規な対応」が続くとしたら、高齢化した日系2世全員を救済することは不可能のように思える。それで本当にいいのだろうか。

 実はこの問題はこれまでも、たびたび国会で議論され、日本・フィリピン友好議員連盟も特別委員会を立ち上げて取り組んでいる。しかし、国民世論の関心が高いとまでは言えないこともあり、残念ながら就籍手続の壁は依然として厚いままだ。

 2015年7月、フィリンピン残留日本人の代表者が来日し、安倍晋三首相に対して「孤児名簿の作成、公開調査の実施、日本フィリピン両政府の協議を実施してもらいたい」とする旨の要望書を手渡した。

 安倍総理は「皆様が70年間の困難な道のりを歩んできたことに想いをいたしつつ、日本国としてもご苦労に報いていきたい」と述べ、残留日本人を感動させたと伝えられている。

 11月に開かれた参議院予算委員会でも、安倍総理は、フィリピン残留2世が「日本人としての誇り」を持ち続けていることに敬意を表し、「今後は実態調査を拡充するとともに、家庭裁判所において、日本国民として認定される可能性を高めるように、政府職員を調査に立ち会わせることで当該調査の信頼性を一層高めていく」と答弁している。



戦後置き去りにされた問題のひとつ

 実態調査の拡充はもちろん大切なことであるが、思い切った政治判断によって特別法を制定し、日本フィリピン両政府が協力して名簿を整備した上で、国籍回復における事実認定の基準を緩和したり、あるいは国籍回復に匹敵する何らかの名誉回復手段を実現したりするといった、実効性のある現実的な政策が必要ではないだろうか。

 「戦争中は皆さんずいぶん苦労も多かったと思いますが、それぞれの社会において良い市民として活躍して今日に至っていることを大変うれしく、誇らしく思っています」

 1月28日、ホテル「ソフィテル・フィリピン・プラザ・マニラ」のロビーで、天皇陛下は、86人のフィリピン残留日系2世に対して、お言葉を述べられた。

 戦後70年が経った今でも、あの大戦で生じた問題が未解決のままで推移している。その中でも最大の問題の一つが、このフィリピン残留日系2世の「無国籍」問題だ。

 実は約20年前、筆者はフィリピンの或る小島を訪れた際、旧日本軍人を祖父にもつフィリピン人から「無国籍の問題」や残留日系人の辛酸を舐めた生活を初めて教えてもらい、衝撃を受けた。

 今回の天皇、皇后両陛下のフィリピンご訪問を一つの契機として、この問題が広く関心を持たれることを望む。

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北島純 一般社団法人経営倫理実践研究センター(BERC)主任研究員。東京大学法学部卒業。内閣官房長官自民党経理局長等の秘書を経て、2013年からBERCで「外国公務員贈賄罪研究会」を担当。著作に『解説 外国公務員贈賄罪』、「中国における贈収賄罪の構造と日本企業のリスク対策」(中央経済社)など
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北島純