http://rpr.c.yimg.jp/im_sigg5aXiOY5ILKusiP2aZ7Vfdw---x800-n1/amd/20160313-00055368-roupeiro-001-14-view.jpg童謡とんぼのめがねの舞台になった広野町上浅見川箒平地区
「汽車」「とんぼのめがね」といった、誰もが一度はふるさとの原風景を思い浮かべる童謡の舞台ともなった町です。
全町避難が最初に解除になったのは広野町
http://rpr.c.yimg.jp/im_siggfeZp1i2JJJtQWBRGrF0Vyw---x800-n1/amd/20160313-00055368-roupeiro-002-14-view.jpg昨年9月に楢葉町が避難解除になるまで最前線の町だった広野町昨年9月5日に広野町の北に隣接する楢葉町が、初の全町避難解除の町として大きく報道されました。これはある意味では正しい報道です。なぜならば国が定めた避難指示区域による解除は楢葉町が初だからです。ですが5年前、その楢葉町の南に隣接する広野町は第一原発から20km~30km圏内だったため、町の判断によって全町避難指示が出ました。
広野町が帰町宣言をし、町の復興が始まったのは2012年4月からです。国の指示によるかではなく、全町避難が解除されたのは広野町となるわけです。現在も仮設住宅に避難されている町民の方がいることも忘れてはなりません。
http://rpr.c.yimg.jp/im_sigg2ixMEyAjvfshmf9rL6h8Zw---x800-n1/amd/20160313-00055368-roupeiro-004-14-view.jpg3月5日にオープンした商業施設 5年ぶりの大型商店に多くの町民の方が訪れました
廃炉を支え続ける町
広野町は作業員の町と形容されるほど、復興関連(除染事業・廃炉事業)に関わる方が暮らす町です。元来町民の方を上回る約3000人に及ぶ方が暮らしています。それは原発事故が起きた2011年にさかのぼれば、いち早く民宿などを経営してくださった方がいたからです。
http://rpr.c.yimg.jp/im_siggL6CUrxSCFZUkjsVuC20Akw---x800-n1/amd/20160313-00055368-roupeiro-003-14-view.jpg二つ沼総合公園グランドオープンの模様 かつて同じ場所には廃炉関連企業の事務所が
町内にある二つ沼総合公園は、原発関連企業に貸し出され、1年半ほど前までは事務所や宿舎が公園内にありました。筆者も東電社員時代、この公園からバスに乗り換え発電所に向かっていました。また、楢葉町と広野町に跨るサッカーナショナルトレーニングセンターJヴィレッジは廃炉の最前線の拠点となりました。世界中が見守る事故収束の時代、ここで作業員の方々が防護服に着替え福島第一原発に向かっていたのです。
今年、3月11日は5年という月日上の節目を迎えました。各方面で東日本大震災及び原発事故に関わるニュースが報じられました。起きた悲しみ、続く悲しみは癒えることはありません。しかし今こうして生きていることが出来ている背景には、最前線となって廃炉を支え続けた町がありました。その社会的貢献は言い返れば、広野町が日本を救ったとも言えます。
被災地域で暮らし、今年も報道の在り方を見てきましたが、広野町がそうした視点で語られることはありませんでした。これから続く旧避難区域が原発事故からの復興という厳しさと共に、廃炉を支えていく事実を社会が無視してしまい、原発事故並びに廃炉と向き合うことを、地域の課題程度にしてしまう未来を指しているような恐ろしさを感じています。