事件の多くは米兵立会いのもとで起き、米軍も承認していた
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建国と同時に自国民を粛清

韓国人や韓国政府は「日本の戦争犯罪で100万人が犠牲になった」という話をとても好みます。

ちょっとした事でも「犠牲者数十万人から数百万人」を連呼するのは理由があり、自分がやったある出来事を隠すためです。

韓国建国と同時に、日本帝国の押さえが無くなった朝鮮人は、南北で戦争を始めただけでなく、互いに自国民を粛清した。

北朝鮮金日成が自国民を弾圧したのは知られているが、南朝鮮北朝鮮以上に自国民を弾圧しました。

弾圧を始めたのは38度戦以南を占領した在韓米軍で、北朝鮮を支持したり半島統一を主張する者が対象でした。

最初の弾圧は韓国建国前からで、1945年9月7日に連合軍がソウルを占領し、軍政実施を宣言するとすぐ反対運動が起きた。


1945年8月15日に天皇が停戦命令を発し、9月2日に降伏文書調印、9月6日に朝鮮総督府は「朝鮮民主共和国」独立を宣言しました。

日本軍は朝鮮を独立させることで影響力を残し、本土引き上げを円滑にすると共に、戦後も半島で権益を保持しようとした。

そうはさせまいとアメリカ軍はなんと建国翌日にこれを取り消し、朝鮮人たちは「新しい侵略者」を自分たちの敵と認識した。


日本時代には分断されていなかったのに、米軍とソ連軍が勝手に侵略し分割したとして、統一運動が起こりました。

半島統一運動=反米運動であり、1946年には物価高騰やコレラなど疫病蔓延、軍政への反発によって南朝鮮全土で反米暴動が起きました。

1946年10月1日には230万人が参加する反米暴動があり、占領軍は市民に発砲して百数十人がなくなりました。


済州島四・三事件から保導連盟事件


朝鮮半島は戦時中の爆撃もほとんどなく、徴兵も徴用もされず食糧不足も無く、第二次大戦とは無縁でした。

空襲から逃れて朝鮮に避難するのが流行になったほどで、第二次大戦にはまったく関係ありませんでした。

そこに米軍がドヤドヤ乗り込んで来て軍事統制と弾圧をやり始め、経済は滅茶苦茶になり、疫病まで蔓延させました。


こうした反発から反米運動が南朝鮮に蔓延し、米軍は警察や軍隊、ヤクザやならず者まで動員して、反対派を襲撃させました。

事態が急激に悪化したのは1948年4月3日で、済州島の統一運動家らをアメリカ陸軍司令部が、ヤクザを使って襲撃させました。

続いて警察や治安部隊、軍隊も動員し、1957年までに島民30万人のうち8万人がなくなったと推測されています。


手に負えなくなったアメリカは南朝鮮を独立させる事にし、1948年8月13日に大韓民国を独立させ、親米運動家の李承晩を任命した。

李承晩は済州島での弾圧を米軍から引き継いで、島民が10分の1に減少するまで続けました。

だがこの済州島での弾圧ですら、その後韓国全土で行われる大弾圧の、最初の始まりに過ぎませんでした。


韓国を独立させるとアメリカは朝鮮半島への興味をすっかり失い、さっさと占領軍を引揚げてしまいました。

1950年6月25日に金日成北朝鮮軍が38度戦を突破すると、韓国軍はあっという間に釜山まで追い詰められました。

韓国軍が撤退する最中に起こしたのが保導連盟事件で、住民を手当たり次第「スパイ」として粛清しました。



韓国軍は住民を捕まえてはスパイとして粛清した
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引用:http://3.bp.blogspot.com/-HmeKhJ1Eudk/UVpZRGBdTkI/AAAAAAAAG2k/2zHK_P1nDHM/s1600/396.jpg



保導連盟事件で100万人以上が犠牲


朝鮮戦争では韓国側の民間人被害が67万人だが、保導連盟事件犠牲者は100万人以上と言われています。

スパイ狩りにはまたしても米軍が関わっていて、多くのスパイ粛清を米軍は知っており、見て見ぬふりどころか立ち会っていました。

現存する写真の多くをアメリカ兵が撮影したが、つまり米兵は現場にいて事件に加担していた事になる。


朝鮮戦争の原因のひとつが、反米運動と米軍による弾圧、李承晩による済州島弾圧で韓国国民の反発が大きかったからでした。

北朝鮮軍が「解放者」として南に進軍すれば、南朝鮮の人達は一斉に蜂起すると、金日成は考えていたようです。

北朝鮮軍は6月25日に38度戦を突破し、9月始めには釜山周辺と済州島を除く全土を占領し、戦勝は確実と思われました。


僅かに残った釜山と済州島在日米軍が守り、日本からの支援によってかろうじて防衛されていました。

李承晩による韓国本土でのスパイ狩りは、北朝鮮軍が侵攻した6月25日に開始され、手当たり次第住民を捕まえては、北のスパイとして粛清しました。

統一運動に参加したものや李承晩に反対したもの、反米運動に加わった者、親日家など誰でも対象にされました。


韓国政府は今日に至るまで事件を認めず、公式な統計もないが、100万人以上というのが定説になっています。

韓国政府は隠すだけではなく、犯行は北朝鮮軍によって行われたとか、日本の占領時代に行われたなどの創作も行いました。

韓国政府が事在るごとに「100万人の韓国人が日本の犠牲に成った」と言いたがるのは、自分が犠牲にした韓国人が100万人以上だからです。



日本を憎ませて目くらまし

済州島の8万人粛清を隠すのにも日本軍が利用され、日本軍が「慰安婦狩り」をした事にして事件を隠そうとしました。

朝鮮半島全土でも日本軍は100万人の慰安婦狩りをした事になっているが、むろんそうした方が保導連盟事件を隠すのに好都合だからでした。

北朝鮮軍と李承晩から逃げ出した韓国人は日本に密航し、朝鮮戦争前後に20万人前後が渡航し、「在日韓国人」になりました。


アメリカ軍側には、米軍立会いの下で「スパイ」の刑執行が行われた記録が数多くあり、米韓は共謀して行っていました。

韓国政府とアメリカ政府はこの事件を追及されたくないために、この後半島における「日本軍の戦争犯罪」追求に執着する事になります。

韓国国民の目を韓国政府の犯罪からそらすためには、どうしても日本軍に罪をかぶってもらい、憎悪を一身に浴びて貰いたかったのです。


こうして日本時代には発展し戦争とも無縁に暮らしていた朝鮮人は、アメリカ軍とアメリカが決めた無能な指導者のために、数年で全てを失い流民になった。

国民全員が無一文のホームレスになった韓国を助けたのが、またしても日本だったのだが、1952年に李承晩は竹島を侵略して自分の手柄にしました。

この時まだ自衛隊警察予備隊はなく、米軍占領下だったので「侵略しても日本は反撃できない」と見越しての行動でした。


竹島占領後も日本は韓国への援助を続け、1960年代には日本の援助が国家予算の半分も占めていました。

李承晩は1960年で退陣するが、この後の韓国は100万人粛清を国民から隠すために、全ての罪を日本になすりつけ始めました。

国内で済州島事件や保導連盟事件が追求され始めると、韓国政府と韓国マスコミは一斉に「従軍慰安婦」で騒ぐというカラクリになっています。


その度に韓国人の関心は日本の戦争犯罪に向けられ、ありもしない従軍慰安婦を次々に創作しました。

済州島四・三事件とほぼ同時代にして、李承晩政権によって行われた韓国人による韓国人の大量虐殺事件。

その他にも、「聞慶虐殺事件」「麗水・順天事件」「居昌事件」といった韓国政府による数十人から数千人規模の韓国人の虐殺事件が度々起こっている。

こちらも日韓間での大きな認識の相違がない事から、Wikipediaの転載とさせて頂く。

保導連盟事件

保導連盟事件(ほどうれんめいじけん)とは、1950年6月25日の朝鮮戦争勃発を受けて、李承晩大統領の命令によって韓国軍や韓国警察が共産主義からの転向者やその家族を再教育するための統制組織「国民保導連盟」の加盟者や収監中の政治犯や民間人など、少なくとも20万人あまりを大量虐殺した事件。

朝鮮戦争前後民間人虐殺真相糾明と名誉回復のための汎国民委員会」の研究では60万人から120万人が虐殺されたとしている。李承晩大統領が失脚した1960年の四月革命直後に、全国血虐殺者遺族会が、遺族たちの申告をもとに報告書を作成したが、その報告書は虐殺された人数を114万人としている。韓国政府の「真実・和解のための過去史整理委員会(ko)」は朝鮮戦争の初期に韓国政府によって子供を含む少なくとも10万人以上の人々を殺害し、排水溝や炭鉱や海に遺棄したことを確認している。公開されたアメリカ軍の機密書類にはアメリカ軍将校の立会いと虐殺の承認などの詳細が記録されている。イギリス人やオーストラリア人の目撃もあり、アメリカ軍少佐はワシントンに虐殺の写真を報告しているが半世紀の間隠蔽され続けてきた。また、アメリカ軍司令官のダグラス・マッカーサーにも報告されていたが止めようとした形跡は見つかっていない。

韓国では近年まで事件に触れることもタブー視されており、「虐殺は共産主義者によっておこなわれた」としていた。

Wikipedia 保導連盟事件より


アメリカ軍の記録より
保導連盟事件
保導連盟事件
保導連盟事件
保導連盟事件
保導連盟事件
保導連盟事件
保導連盟事件

発掘される遺体

100万人処刑? "韓国史最大タブー"の教訓2017.7.30

数年前からマンションの建設ラッシュに湧くソウル。東京の2~3倍という価格にもかかわらず、資産形成を夢見るソウル市民の間では売れ行き好調だという。だが今から67年前、ソウルとその近郊は、北朝鮮軍の怒涛の進撃に飲み込まれた。阿鼻叫喚の混乱のなか、李承晩・韓国大統領(当時)は自らの失策の責任を反対派の国民に押し付けた……。
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荒廃したソウル市内で、がれきの中に座りこむ年配の女性(1950年11月1日、写真=ROGER_VIOLLET)
首都ソウルの地政学的リスク
ソウルでは数年前からマンションの建設ラッシュが起きています。販売価格は東京のマンションの2~3倍。そんな高額物件が次々と売れるというのですから驚きです。
ソウルは北朝鮮に近接しており、地政学的に極めて危険な都市です。北緯38度線の南北軍事境界線付近には、北朝鮮軍の長距離砲など300門以上がソウルを標的にしており、これらが一斉に火を吹けば、ソウル市民100万人に死傷者が出るといわれています。
それでも、ソウル市民は市内に高額なマンションを買い、そこに資産を形成します。ちなみに、保険会社は戦争で家屋が損傷を受けても保険金を支払いません。どの国でも、戦争は保険金支払いの免責事由となっています。
戦闘が始まれば、朝鮮戦争の時のように、漢江の橋を落とし、漢江を防衛線にする戦略をとることが想定されます。そうなれば、また、ソウル市民はどこへも逃げることができません。
韓国では、首都を南に移すことも検討されました。朴槿恵前大統領の父の朴正煕大統領は1970年代、首都移転構想を打ち出します。これは実現しませんでしたが、その後、盧武鉉大統領がソウルの南東120キロの地に「世宗市」を建設し、ここを新しい首都にしようとしました。しかし、保守派の反対や2004年に出された憲法裁判所の首都移転違憲判決により、遷都計画は頓挫しました。
朝鮮戦争の時代、韓国は追い詰められて、水原、大田、大邱、釜山と政府の拠点を移しました。それ以降、ソウルに首都を置き、北朝鮮を押し戻すということが政府の使命とされ、ソウルから遷都することは「後退」であると、否定的に捉えられたのです。
スケープゴート探しの果てに
1950年6月25日、朝鮮戦争の開始から1週間で、韓国は政府を釜山へ移します。李承晩大統領ら政府は国民を見捨てて、ひたすら逃げるのみでした。無為無策の韓国政府に対し、国民の批判と怒りが沸き起こります。
政府はこれらをかわすため、スケープゴートを探し、とんでもないことを始めました。韓国現代史の最大のタブーとされる保導連盟員の大量処刑(保導連盟事件)です。政府は、韓国軍が北朝鮮軍に簡単に敗退するのは韓国民の中に北朝鮮と内通するスパイがいるからだ、と喧伝しました。
保導連盟とは共産主義からの転向者や政治犯、その家族らを再教育するために加盟させた組織で、いわば政府に批判的な人々をリストアップした集団でした。その中には、配給がスムーズになるという理由で、貧困層や素行不良な一般市民も多く含まれていました。
李承晩は「ブラック・リスト」に載っている彼らをスパイと決め付け、軍や警察に処刑するよう命じました。反対派を恐怖政治によって黙らせ、政府の失態をスパイの責任にしてしまおうという魂胆でした。
このとき、多数の保導連盟員が韓国全土で処刑されました。保導連盟事件の犠牲者数には諸説ありますが、この事件の遺族会にあたる「全国血虐殺者遺族会」は114万人が処刑されたと主張。韓国政府の「真実・和解のための過去史整理委員会」を率いた歴史学者の金東椿氏は少なくとも6万人から11万人、朝鮮戦争研究の第一人者である延世大学の朴明林教授は、1950年だけで20万人が処刑された可能性があるとみています。
いずれにせよ、朝鮮戦争で犠牲になった韓国の民間人の相当部分が、北朝鮮軍によって殺されたのではなく、自国の政府によって殺されたことを忘れてはならないでしょう。(金東椿氏は、北朝鮮軍がのちに国連軍によって北へと押し戻される際、同様の規模で「南の協力者」の集団処刑を行ったとも推測しています)
この大量処刑で、政府批判はピタリと静まります。政府にとって、この措置は極めて効果的であったのです。
危機は敵・味方区別なく、あらゆる存在を「脅威」に変えてしまいます。脅威が脅威を呼ぶ負の連鎖の中で冤罪(えんざい)が巻き起こり、必然的に、多くの犠牲者が発生します。
ようやく応援のアメリカ軍が来たが……
韓国政府が釜山へ移った7月2日以降、待ちに待ったアメリカ軍の部隊投入が始まります。「アメリカ軍が来ればもう安心だ」と李承晩は手放しで喜んだといいます。
ところが、アメリカ軍は士気の高かった北朝鮮軍に各地で敗退しました。アメリカ軍では第2次世界大戦の終結時に多くのベテラン軍人が退役しており、急ごしらえの実戦経験のない部隊が編入され、士気も低かったのです。
アメリカ軍は大田(テジョン、韓国中部の都市)で大敗すると、釜山まで撤退します。その際、北朝鮮軍によりアメリカ兵捕虜が虐殺される「303高地の虐殺」が起きています。北朝鮮金日成は、「解放記念日」の8月15日までに釜山を陥落させて朝鮮半島を統一すべし、と声明を発表します。
焦った李承晩は日本の山口県に亡命政府を受け入れてもらうよう、日本と交渉を始めています。大の日本嫌いであったにもかかわらず、日本に助けを求めたのですから、まさに恥も外聞もありません。
しかし、当初は敗退し続けていたアメリカ軍も、釜山近郊でようやく北朝鮮軍を押し返しはじめました。「アメリカに助けてもらう」という李承晩のもくろみは、何とかギリギリのところで達成されたのです。

宇山卓栄(うやま・たくえい)

1975年、大阪生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。個人投資家として新興国の株式・債券に投資し、「自分の目で見て歩く」をモットーに世界各国を旅する。おもな著書に、『世界一おもしろい世界史の授業』(KADOKAWA)、『経済を読み解くための宗教史』(KADOKAWA)、『世界史は99%、経済でつくられる』(育鵬社)、『“しくじり”から学ぶ世界史』(三笠書房) などがある。