パルデンの会

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硫黄島の英霊に感謝とともに、 沖縄南部の豪にもまだたくさんの英霊や沖縄県民のご遺体がそのままになっていることを忘れないでください、

地下壕の壁面に日本兵の骨片がびっしり…2万人超が玉砕した「悲劇の島・硫黄島」の驚きの光景

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プレジデントオンライン

太平洋戦争で日米両軍の激戦地となった硫黄島(東京都小笠原村)には、現在も1万人の遺骨が残されている。民間人の上陸は原則禁止だが、北海道新聞記者・酒井聡平さんは4度上陸し、徹底した取材を重ねた。著書の『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』(講談社)より、一部を紹介する――。 【写真】硫黄島の航空写真 ■致死率95%に達した「硫黄島の戦い」  「硫黄島の戦い」とは一般に、米軍が上陸した太平洋戦争末期の1945年2月19日から、日本側守備隊が最後の総攻撃を行った3月26日までの36日間の地上戦を指す。1日も早く硫黄島の飛行場を占領して日本本土爆撃を進めたい米軍と、1日でも長く飛行場を死守して本土侵攻を阻止したい守備隊が激突した。  組織的戦闘が終わっても、守備隊側の生存兵の多くは投降せずに地下壕(ごう)に籠もった。川のない渇水の島で、死よりもつらい喉の渇きにもがきながら、次々と絶命した。結果、守備隊2万3000人のうち2万2000人が死亡した。  僕の祖父である酒井潤治(じゅんじ)が大戦末期、小笠原諸島の父島や母島にいた事実を祖母から教えられたのは、1987年の夏休みのことだった。僕は小学5年生だった。今、僕の記憶の中にいる当時の僕には、笑顔がない。祖母も同じだ。夏休みに入る1カ月前の6月11日、47歳だった僕の父、暲忠(あきただ)が職場で倒れ、急逝したためだ。

■祖父は小笠原諸島の防衛を担う兵士だった

 母允子(のぶこ)は悲しみに暮れた。父なき遺児となった僕は夏休みの一時期、父方の祖母トラノの家で過ごした。僕は「おばあちゃんっ子」だった。少しでも悲しみが癒やされれば、という母の配慮があったのだと思う。  そんな祖母宅でのある日、僕は仏間に招かれた。祖母は祖父の仏壇の中から、今にもばらばらになりそうな、朽ちたつづら折りの書類を出した。  祖父が軍隊時代に携帯した履歴書だと教えられた。濡れた跡があり、にじんで読めない文字があった。祖父は戦時中、沈みゆく軍艦から生還したことがあったという。なんとか読める文字の中に「父島」と「母島」があった。硫黄島近隣の島々だ。履歴書がかろうじて伝えた事実。それは、硫黄島守備隊の兵士と共に小笠原諸島の防衛を担う部隊に祖父が所属していた、ということだった。

■93歳で他界した祖母が遺した願い  祖父は終戦後「別人のように痩せて帰ってきた」と教えてくれたのも祖母だった。隣の硫黄島の兵士たちは玉砕したのだから、祖父は幸運だったと言えるのだろう。だが、戦争で消耗した体は以前のようには回復せず、1965年に56歳で病死した。  そしてその長男である、僕の父も1987年に47歳で急逝した。祖父の足跡や人柄などを聞く前に、父は天国の祖父の元に旅立ってしまった。だから、現在46歳になった僕が知る祖父の情報は「硫黄島の隣の島から衰弱して生還した元兵士」ということだけだ。  祖母は、僕に履歴書を見せたとき、こんな話をした。  「お父さんはもういないから、聡ちゃんが大きくなったら大切に預かってね」  父ができなくなったことは、自分が果たさなくてはならない。そんな使命感のような思いがこの時、幼い心に刻まれた。そして、その履歴書は、2008年に93歳で他界した祖母の願い通り、今、僕の手元にある。

■遺児の僕、硫黄島戦没者遺児と出会う  

祖父の履歴書を見て以来、僕は硫黄島への関心を持ち続けた。関心が一段と大きくなったのは大学卒業後、北海道苫小牧市の地域紙の記者になってからだ。2006年、クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』が公開された。人気アイドルグループ「嵐」二宮和也さんが主要キャストを務めたこともあり、若い世代も関心を寄せた。  二宮さんが演じたのは、待望の第一子の誕生を目前に控えながらも、召集令状によって硫黄島に送り込まれたパン屋の店主だった。彼の視点を通じ、玉砕に至る激戦の経過が概ね史実に即して描かれた。  一方、映画では描かれなかった事実がある。それは、本土の防波堤となるべく散った硫黄島兵士たちの戦後だ。玉砕した2万人超のうち1万人の遺骨が今なお島内に残されている。  僕はこの事実を、映画鑑賞後の運命的な出会いによって知ることになった。  その出会いの相手とは、当時74歳だった三浦孝治さん。札幌のベッドタウン恵庭市に住んでいた。定年退職後の第二の人生を、父が散った硫黄島での遺骨収集に捧げた戦没者遺児だった。地域の行事で出会った際、本人からそんな半生を打ち明けられた。

■遺骨収集体験を伝える記事を連載することに  

三浦さん宅は、僕の職場兼住居だった恵庭支局から徒歩5分の住宅地にあった。何度、話を聞きに行ったことか。何度、遺骨収集の写真を見に行ったことか。三浦さんは背が高くてがっちりした体格のお年寄りだった。筋肉質なのは、父亡き後の家族を支えるためにがむしゃらに働いたためだと思われる。「おかげでこの歳になっても遺骨収集に行けるんですよ」。  いつも明るい声。いつも笑顔だった印象だ。電話での第一声は決まって「さかいさーん」と弾んだ声。僕は今でも硫黄島に関する何かをしているとき、その声を思い出す。生前、そうだったように、今も変わらず三浦さんと二人三脚で硫黄島のことに取り組んでいる気持ちでいる。  地域紙の記者は全国的、あるいは世界的な世相を地域社会に反映させて報道するのが職務だ。映画の公開で硫黄島への社会的関心が高まったことを受け、僕は三浦さんの遺骨収集体験を伝える記事を連載しようと考えた。初めて会った時点ですでに15回、遺骨収集団に参加していた三浦さんの話は壮絶だった。

■骨片の一つひとつを集める高齢の遺児たち  

「ある壕に入ると、壁面に骨片がびっしり刺さっていた。砲爆撃を浴びたのか、手榴弾で自決したのか。そんな壕は一つや二つではなかった……」。  国の命令で絶望の戦場に送られ、体が四散どころか粉々になったまま放置された兵士は大変不憫だが、それを自分の父と重ねて骨片の一つひとつを壁面から抜いて集める高齢の遺児たちもまた不憫だと思った。  三浦さんの遺骨収集体験を綴った連載「矢弾尽き果て 悲劇の島・硫黄島」の反響は、それまでの記者人生で最大だった。映画が描いたのは日米の激戦であり、散った兵士の遺児の戦後は伝えられなかったことも大きな要因になったと思う。硫黄島のその後について知りたがっている人たちは、確かに存在している。そんな思いを強くした。  僕が硫黄島報道に執念を燃やす理由。その一つは、僕が遺児だからだ。もちろん、戦没者遺児ではない。僕の父は、僕が10歳のときに勤務中に突然死した。別れの挨拶もできぬまま死別した悲しみは、46歳になった今でも癒えない。だからこそ突然、家族を失った人に対して、強烈なシンパシーを僕は抱く。

■「終戦」の後、孫世代まで続く「戦禍」  

硫黄島戦は、遺児の悲劇を多く生み出した。兵士の多くが、全国各地から集められた30代、40代の再応召兵だったからだ。すでに一度、応召を果たしているため、もう戦地に行くことはないだろうと考え、家庭を築いた人は多かったとされている。  そして戦争の悲劇は代を超える。遺児は父の愛情を受けられず、母は経済的な理由で子供を養子に出さないですむように懸命に働かなくてはならないため、遺児は母と過ごす時間も十分に得られない。「片親」で育った人は当時、就職面などで差別されることが多かった。挫折を味わったり、生活が困窮したりした。さらに、孫たちは祖父の思い出を何一つ持てずに生きることになる。  「終戦」とは戦闘の終了に過ぎない。「戦禍」には終わりがないのだ。硫黄島はそんな教訓が刻まれた島なのだ。  戦没者遺児の三浦さんとの交流は連載終了後も続いた。三浦さんが遺骨収集から帰るたびに僕は電話を入れ、島の状況を聞いた。年齢差が40歳以上ある三浦さんと僕は、少年時代に父を失った悲しみを共有する「遺児同士」という絆で結ばれていた。

■父は手旗信号で息子へのメッセージを残した  

三浦さんが最後に見たという父の姿の話も何度も聞いた。1943年、樺太(現サハリン)。当時10歳だった三浦少年は、出征する父を見送るため、港に行った。港から船が離れゆく中、父は甲板上で突然、三浦少年に向かって「手旗信号」の動作を始めた。三浦少年は小学校で手旗信号の基礎を習っていたが、父の信号の意味は分からなかった。  しかし、戦後、歳を重ねた三浦さんはある日、こう思った。「戦争中は、別れの無念さを口に出せなかった時代だ。『アトハタノム』と父は伝えたかったのではないか」。  ずっと考え抜いて、そうした結論に達したのだ。三浦さんは定年退職で自由な時間を手に入れると、遺骨収集に乗り出した。  80代半ばを過ぎても硫黄島の土を掘り続けた。その背景には、父が最後に発した手旗信号に応えたい、という思いがあったのだろう。  「アトハタノム」。三浦さんから知らされた1943年の手旗信号は、時空を超えて、29歳だった僕の心にも深く刻まれた。  やがて僕は行動に移したのだった。  硫黄島についてただ報じるだけでなく、収集活動に取り組む三浦さんの後に僕も続こう。  そう一念発起した。手旗信号の話を聞いて以来、硫黄島上陸への思いは募るばかりだった。

■最期の言葉は「父島ノ皆サン サヨウナラ」  

その思いが決定的になる本と僕は出会う。硫黄島守備隊の元参謀、堀江芳孝氏が記した『硫黄島 激闘の記録』(恒文社)だ。堀江氏は米軍が硫黄島に上陸した際、父島に渡っていたため、玉砕を免れて生還した人物だった。僕の祖父もいた父島側の視点から硫黄島戦を記していることが興味深かった。  硫黄島は本土から1200キロ離れているため、通信隊が本土に電報する際は、父島の通信隊に中継してもらっていた。約280キロ離れた両島の通信隊員はお互いの顔が見えないながらも、連日連夜の交信任務によって結ばれた強い絆があった。  硫黄島発の最後の電報としては、全滅覚悟で最後の総攻撃に出ることを伝えた栗林忠道中将の「訣別電報」が広く知られている。「国ノ為重キ努ヲ果シ得デ 矢弾尽キ果テ散ルゾ悲シキ」という内容だ。  しかし『激闘の記録』によると、最後の電報の言葉はこんな内容だったという。  「父島ノ皆サン サヨウナラ」  もっと生きたいのに生きられなかった人の言葉だと、僕は感じた。勇ましい響きもある「散ルゾ悲シキ」よりも、よっぽど悲しき電報だと思った。妻子ある庶民が全国各地から集められた硫黄島守備隊らしい、最期の言葉だとも思った。

■収集団に加わるために転職までし、ついに上陸  

この電報を頭の中で反芻するうちに、僕はこう思うようになった。  「自分はこの電報が送られた父島側にいた兵士の孫だ。今なお硫黄島側に残されたままの戦没者は、いわば祖父の仲間たちだ。硫黄島の戦禍の社会的記憶の風化に抗う記者になろう。そして僕自身も遺骨収集団にボランティアとして加わり硫黄島の土を掘ろう。天国の祖父も、お父さんも喜んでくれるはずだ」  収集団参加が実現するまで13年の年月を要した。実現のために、転職もした。一度は志を断念しかけたこともあった。  ともあれ、2019年9月25日午後1時17分。父島兵士の孫を乗せた自衛隊輸送機C130は、硫黄島の滑走路に着陸した。  機体の扉が開くと、南国特有の湿気を含んだ温い空気が入ってきた。秋の乾いた本土の空気とはあまりにも違う。客室乗務員役の男性隊員に促され、僕が降りる順番が回ってきた。  これから踏むことになる滑走路の下には、遺骨が多数眠っているとされている。降り立とうとした僕は、足を1回、引っ込めた。どのように最初の一歩を踏み出せばいいのか、戸惑ったからだ。そのとき、思い出したのは最後の電報だった。そして僕は心の中で“返電”しながら、上陸することにした。  硫黄島ノ皆サン コンニチハ 父島ノ兵士ノ孫ガ 迎エニ来マシタヨ サア一緒ニ本土ニ帰リマショウ」

 

---------- 酒井 聡平(さかい・そうへい) 北海道新聞記者 1976年生まれ、北海道出身。2023年2月まで5年間、東京支社編集局報道センターに所属し、戦没者遺骨収集事業を所管する厚生労働省東京五輪、皇室報道などを担当した。硫黄島には計4回渡り、このうち3回は政府派遣の硫黄島戦没者遺骨収集団のボランティアとして渡島した。土曜・日曜は、戦争などの歴史を取材、発信する自称「旧聞記者」として活動する。取材成果はTwitter(@Iwojima2020)などでも発信している。北海道ノンフィクション集団会員。北海道岩内郡岩内町在住。初の著書に『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』(講談社)。 ----------

北海道新聞記者 酒井 聡平

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