パルデンの会

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中国、韓国、米国の反発など気にしなくて良い。基軸は日本の精神である

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宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成25(2013)年12月27日(金曜日)貳
通巻第4101号
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 安倍首相、ようやく靖国神社を参拝。「魂がそこにあるから」
中国、韓国、米国の反発など気にしなくて良い。基軸は日本の精神である


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靖国神社に参拝できなかったことを「痛恨の極み」と安倍首相は発言していたのである。このメッセージは、じつは早くから発せられていた。気がつかないのは左翼か、感性が少し鈍くなったか、外国の発想を基軸とする無国籍人間だけだろう。

大きな潮の変化を見せたのは四月からである。
安倍晋三首相は新藤総務相、丸川参議院議員公明党の山口代表らを伴って4月14日、硫黄島を訪れた。異例のことである。
大東亜戦争の激戦地・硫黄島へは自衛隊機で到着し、戦没者追悼式に参列した。安倍首相は、「この島で生じた悲痛な歴史を若い世代に伝えていかなくてはならない」と述べ合掌した。同道した新藤大臣は硫黄島切腹した栗林忠道中将の孫にあたる。

硫黄島戦没者の遺骨収集作業を視察したほか、滑走路の下に眠る英霊に合掌し、滑走路移転工事を決断した。この硫黄島の滑走路の下に、まだ一万余の遺骨がそのまま眠っており、米軍はその上に無神経にコンクリートをながして飛行場を建設したのだ。
滑走路の移転工事は予算の兼ね合いで数年にわたるプロジェクトとなるが、戦後68年にして、ようやく英霊が報われる。
ともかく移転工事の決断にいたるまで、これほどの長い歳月を必要とした。

硫黄島から帰京後、サンフランシスコ条約発効により、戦後、真の独立となった4月28日に政府主催で「主権回復の日」記念式典を開催した。その直前、靖国神社の春の例大祭に供物をおくった。
主権回復記念日こそ国民こぞって参画するイベントである。これまでは民間有志があつまって開催してきた。春の憂国忌とも呼ばれた。主権を尊重するということは政治日程にいずれかならず憲法改正を上程する決意でもある。

そして8月13日、おりから郷里山口県で休暇中だった安倍首相は、萩市松陰神社を参拝した。
筆者は、この報に接したとき、「15日の靖国参拝はできないが、国民の皆さん、悟って欲しい」というメッセージだろうと考えた。松陰は誰もが一致して思う、日本の愛国者の代表格。革命家、維新の先駆者として広く尊敬を集め、萩でひらいた松下村塾に集った木戸、高杉、伊藤らが明治維新の主人公となって、日本の変革を導いた。
終戦記念日の直前に靖国神社ではなく、安倍首相が松陰神社を訪れた意味は、深い国民へのメッセージだった。


▼諸外国の情勢をぶんせきしたうえで

中国と韓国は図に乗って日本批判をやめず、どれだけ説明しても、無意味であることを悟った。終戦記念日靖国参拝が出来なかった背景の一つは米国からのシグナルで、オバマは「現状維持を変えるな」というヴィジョンにかける臆病者だが、政権の周りには反日家が多い。
その優柔不断ぶりは多くのアメリカ人を失望させてきた。

まして中国が突如「防空識別圏」を設定し、アセアン諸国ばかりか、これには欧米も批判的となった。安倍首相は靖国参拝のタイミングは近いと読んだ。
韓国では朴権惠大統領の支持率が50%を割り込み、中国では指導力に疑いがある習近平毛沢東礼賛で国民を糾合しようとしたが、天安門で車炎上、山西省共産党ビルは爆弾テロにやられ、社会擾乱はますまる加速している。
絶好のタイミングが来た。

12月13日、東京迎賓館にアセアン首脳十ヶ国をあつめての日本アセアン特別首脳会議で、安倍首相は「空の安全ルール」を共同声明に盛り込んだが、中国の代理人といわれたカンボジアからも反対がなかった。
アセアンは強い日本を希望していた。

安倍首相は予算案の閣議決定をまった。
また同時に宗教対立という解釈を避けるためにクリスマスが終わるのをまった。そのうえで、毛沢東の120年祭記念日に政治的な的(まと)を絞った。おりしも韓国は日本が南スーダンで韓国軍に弾薬を供与したことに、「感謝」しなかったばかりか、「政治宣伝に利用した」と日本を指弾した。

12月26日、中国では毛沢東生誕を祝う行事が共産党の肝いりで行われたが、まことの精彩を欠いた。タイミングとして絶妙の選択である。

同日午前11時32分、首相はモーニング姿で単身、靖国へ詣でた。閣僚を伴わず、僅かにSPだけが随行した。
中国、韓国、米国が反発し、安倍首相を批判したが、これらは通常よりも弱々しく、抗日デモさえなく、いかに一部のカルト的反日組織だけの仕業であるかが分かる。中国では劉延東が日本の政治家との会談をドタキャンしたくらいである。

とくに米国の「失望した」などとする声明は在日大使館が用意したものであり、本国国務相の見解でもなければオバマ大統領のコメントもなく、おそらく在日アメリカ大使館に巣くう民主党左翼リベラルたちの蠢動の結果であろう。


▼個人的なコメント

さて同日の朝、筆者には霊感があったかのように、ふと松陰先生のことを思って世田谷の松陰神社参拝しようと閃きがあった。
九時頃に家を出た。ポケットには再読中だった吉田松陰の「留魂録」「幽囚禄」「回顧録」を入れて電車の中で重要箇所を読んだ。
三件茶屋でのりかえ、東急電車で松陰神社前、境内は静けさに囲まれ、随所が掃き清められ、新年の初詣準備に余念がなかった。神社の右奥には松下村塾のレプリカ、左奥には松陰先生の公募が控える。

なぜ参詣を思い立ったかと言えば、明平成26年秋までに、懸案の拙著『吉田松陰三島由紀夫』を完成させたいという望みがある一方で墓園に報告も兼ねた。

松陰は『回顧録』にこう書いた。
「余二人士気たのまず、且つ自ら曰く。吾れあに人の差引をうけて大事をなす者ならんや」
また『急務四条』ではこう述べている箇所がある。
「御講学の儀、老師宿儒御親しみ遊ばされ候段肝要の儀に候へども只今然るべき物とてもこれなく、(某某は)時勢に諂い候祖俗儒にて、国家の大計勤王の大義等へは毫も心付き申さず候徒(ともがら)につき、有損無益」(奈良本辰也編著『吉田松陰著作選』(講談社学術文庫版より)
なるほど安倍首相は周囲に図らず独断で靖国参拝を決行した。

さて世田谷の松陰神社をでた私は、半蔵門線に乗り換えて九段下で東西線に、茅場町日比谷線に乗り継いで小伝馬町へ向かった。伝馬町牢獄跡地に参拝するため、この場所で松陰先生は斬首された。
その記念の石碑があり、「身はたとへ武蔵野の野辺に朽ちぬとも、留め置かまし大和魂」の大きな歌碑がある。

さらに地下鉄をのりついで南千住に向かった。
いうまでもなく、この地に小塚原回向院があり、最初に松陰の遺体が埋葬された。木戸らが駆けつけ、遺骸を掘り返して、あらためて埋葬した場所である。この回向院の右奥にも吉田松陰の墓がある。折しも11時半をすぎた頃だった。ちょうど、安倍総理靖国神社参拝の時間だった。