パルデンの会

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高名な巌窟修行僧を訪ね、聖山カン・リンポチェを詣でた後、ラサに向かった、と伝える。この「外人ラマ」とは何者か。

 

yoshi-osada.hatenablog.com

 

「どこを通って行ったかがわからない」ヒマラヤを探訪した最初の日本人の偉業にナゾが…12年かけて辿り着いた“新たな証拠”

 

著者は語る 『求道の越境者・河口慧海』(根深誠 著)

 
 『求道の越境者・河口慧海 チベット潜入ルートを探る三十年の旅』(根深誠 著)中央公論新社
 『求道の越境者・河口慧海 チベット潜入ルートを探る三十年の旅』(根深誠 著)中央公論新社

〈昔、国境の向こう側のトルボ地方から、一人の外人ラマ(高僧)が峠を越えてパヤン地方にやって来た〉

 高名な巌窟修行僧を訪ね、聖山カン・リンポチェを詣でた後、ラサに向かった、と伝える。この「外人ラマ」とは何者か。チベットのパヤン村で伝承を聞いた根深さんは直感する。

「その人は慧海(えかい)に違いないと思いました。その旅程は慧海の『チベット旅行記』(以下、『旅行記』)と一致します。ヒマラヤの山を挟んで反対側のネパールの村でも、チベットへ向かう怪しい僧のことを聞きました」

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 それから足かけ30年。このほど慧海の足取りを追った冒険記、『求道の越境者・河口慧海』を上梓した。

 河口慧海黄檗宗の僧で、仏教の原典を求めて、インド、ネパール、チベットなどを行脚、仏道の修行と啓蒙に生涯を捧げた。1900年当時、鎖国状態のチベットに身分を偽って潜入。ヒマラヤを探訪した最初の日本人となったが、その偉業には、ある謎があった。

「慧海がネパールからチベットへどこを通って行ったかがわからないのです。『旅行記』では『桃源郷』と記されたトルボ地方の旅が、なぜか省略されている。手掛りといえば、峠を越えると、形の異なる池が3つある、という記述だけでした」

 行けばわかる。明治大学山岳部出身で山登りの経験は十分、体力にも自信があった。踏査の結果を前著にまとめたが……。

「当時は地図もなく、『旅行記』の記述のみが頼りで、結果、峠の比定を間違えてしまった。それは正さないといけない。慧海の踏査行を続けることにしました」

 ヒマラヤ未踏峰六座に初登頂したほか、雪男の捜索や、現地の村に橋を架けるなど、ヒマラヤには関わり続けたが、慧海の峠の解明に進展はなかった。そして12年。ようやく新たな証拠に辿り着く。

「慧海の姪・宮田恵美さんに、慧海の日記を見せてもらうことができたのです。峠は3カ所まで候補を絞りましたが、どの峠の向こうにも似たような池があって(笑)。日記に望みを託していたのですが、峠の記述はやはり墨で塗りつぶされていました。それでも、峠越えの前に立ち寄ったお寺は分かったので……」

根深誠さん
根深誠さん

 かの寺を訪れた根深さんを待っていたものは――。

 記憶を繋ぐ村の人、トルボブッダ(聖者の〈化身〉)として崇められる僧、中国から亡命した老人……様々な人々の声を聴いた。長い旅を終えていま思う。〈視覚化された地図からは、その土地の実態、すなわち生活や文化、人情の機微にかかわる情報は汲みとれない〉。

「私の旅は、慧海の時代と変わりません。現地の人と語らい、家に泊めてもらう。次の村へは手紙を送ってもらうから、トラブルも起きない。とくに、国境を跨いで活動する商業民族タカリー族の信を得たので、その交易圏内を歩くことができました。慧海も、私も」

 橋を架けたことが知れ渡り、「スマホで連絡がまわり、出迎えが来て、私は白い馬に乗せられる。至れり尽くせり」と困り顔だ。

「ただ、荷物を背にしたヤクが通れる幅の橋を架けましたが、いまはオートバイが往来している。橋が彼らの生活や郷愁を変えてしまったのではと一抹の不安があります。各地に学校が立ち、英語が話されるように。電柱も道路も整備されて、キャン(チベットノロバ)の群れも見なくなりました。30年間、図らずもこの地域の変わり様を見てきたのかもしれません」

 慧海の伝承を聞いたパヤン村はすでにない。消えゆく「桃源郷」を根深さんは見つめている。

ねぶかまこと/1947年青森県弘前市生まれ。明治大学山岳部OB。日本山岳会会員。73年以来、ヒマラヤの旅と登山を続ける。『遥かなるチベット』『ヒマラヤにかける橋』『ブナの息吹、森の記憶』『白神山地マタギ伝』『カミサマをたずねて』『渓流釣り礼讃』など著書多数。

求道の越境者・河口慧海-チベット潜入ルートを探る三十年の旅 (単行本)

求道の越境者・河口慧海-チベット潜入ルートを探る三十年の旅 (単行本)

根深 誠

中央公論新社

2024年2月21日 発売

 

 

「どこを通って行ったかがわからない」ヒマラヤを探訪した最初の日本人の偉業にナゾが…12年かけて辿り着いた“新たな証拠”

配信

文春オンライン

〈昔、国境の向こう側のトルボ地方から、一人の外人ラマ(高僧)が峠を越えてパヤン地方にやって来た〉 【写真】この記事の写真を見る(2枚)  高名な巌窟修行僧を訪ね、聖山カン・リンポチェを詣でた後、ラサに向かった、と伝える。この「外人ラマ」とは何者か。チベットのパヤン村で伝承を聞いた根深さんは直感する。 「その人は慧海(えかい)に違いないと思いました。その旅程は慧海の『チベット旅行記』(以下、『旅行記』)と一致します。ヒマラヤの山を挟んで反対側のネパールの村でも、チベットへ向かう怪しい僧のことを聞きました」  それから足かけ30年。このほど慧海の足取りを追った冒険記、『求道の越境者・河口慧海』を上梓した。  河口慧海黄檗宗の僧で、仏教の原典を求めて、インド、ネパール、チベットなどを行脚、仏道の修行と啓蒙に生涯を捧げた。1900年当時、鎖国状態のチベットに身分を偽って潜入。ヒマラヤを探訪した最初の日本人となったが、その偉業には、ある謎があった。 「慧海がネパールからチベットへどこを通って行ったかがわからないのです。『旅行記』では『桃源郷』と記されたトルボ地方の旅が、なぜか省略されている。手掛りといえば、峠を越えると、形の異なる池が3つある、という記述だけでした」  行けばわかる。明治大学山岳部出身で山登りの経験は十分、体力にも自信があった。踏査の結果を前著にまとめたが……。 「当時は地図もなく、『旅行記』の記述のみが頼りで、結果、峠の比定を間違えてしまった。それは正さないといけない。慧海の踏査行を続けることにしました」  ヒマラヤ未踏峰六座に初登頂したほか、雪男の捜索や、現地の村に橋を架けるなど、ヒマラヤには関わり続けたが、慧海の峠の解明に進展はなかった。そして12年。ようやく新たな証拠に辿り着く。 「慧海の姪・宮田恵美さんに、慧海の日記を見せてもらうことができたのです。峠は3カ所まで候補を絞りましたが、どの峠の向こうにも似たような池があって(笑)。日記に望みを託していたのですが、峠の記述はやはり墨で塗りつぶされていました。それでも、峠越えの前に立ち寄ったお寺は分かったので……」  かの寺を訪れた根深さんを待っていたものは――。  記憶を繋ぐ村の人、トルボブッダ(聖者の〈化身〉)として崇められる僧、中国から亡命した老人……様々な人々の声を聴いた。長い旅を終えていま思う。〈視覚化された地図からは、その土地の実態、すなわち生活や文化、人情の機微にかかわる情報は汲みとれない〉。 「私の旅は、慧海の時代と変わりません。現地の人と語らい、家に泊めてもらう。次の村へは手紙を送ってもらうから、トラブルも起きない。とくに、国境を跨いで活動する商業民族タカリー族の信を得たので、その交易圏内を歩くことができました。慧海も、私も」  橋を架けたことが知れ渡り、「スマホで連絡がまわり、出迎えが来て、私は白い馬に乗せられる。至れり尽くせり」と困り顔だ。 「ただ、荷物を背にしたヤクが通れる幅の橋を架けましたが、いまはオートバイが往来している。橋が彼らの生活や郷愁を変えてしまったのではと一抹の不安があります。各地に学校が立ち、英語が話されるように。電柱も道路も整備されて、キャン(チベットノロバ)の群れも見なくなりました。30年間、図らずもこの地域の変わり様を見てきたのかもしれません」  慧海の伝承を聞いたパヤン村はすでにない。消えゆく「桃源郷」を根深さんは見つめている。 ねぶかまこと/1947年青森県弘前市生まれ。明治大学山岳部OB。日本山岳会会員。73年以来、ヒマラヤの旅と登山を続ける。『遥かなるチベット』『ヒマラヤにかける橋』『ブナの息吹、森の記憶』『白神山地マタギ伝』『カミサマをたずねて』『渓流釣り礼讃』など著書多数。

週刊文春」編集部/週刊文春 2024年4月4日号