パルデンの会

チベット独立と支那共産党に物言う人々の声です 転載はご自由に  HPは http://palden.org

ソ連によって封印されていた映画 「氷雪の門」

 共産党社民党公明党自民党民主党 その他の党が11日の参議院議員選挙で論戦しています。
戦後65年たっても 吹っ切れないのは我々の戦後を築く礎になった人々を十分に我々の体の中に
取り込めていないことです。 どの政党が 過去を精査して 未来を築いてくれるのか?

礎になった人々に思いをはせて、選挙に臨み、
そして 映画を見ていただきたい。


「誰がこの映画をお蔵にしたのか????」を考えて!



 
イメージ 1
 
イメージ 2
 
イメージ 3
 
◆ 二木てるみ(女優)
あなたは、知っていますか?
かつて北の地で起きた、乙女たちの悲惨な真実を・・・
彼女たちの死を無駄にしないために36年前私たちは心をひとつに しました。
 
◆ 木内みどり(女優)
いちばん覚えているのは爆破シーンです。怖かった!
再出発を願い実現してくださった新城卓さんの情熱に心からの拍手 をおくります!
 
◆ 藤田弓子(女優)
私たちには、 戦争の真実を知りそれを次の世代に伝えてゆくという使命感があり ます。
この映画に出演できたことを心から誇りに思います。
 
◆ 笹幸恵(ジャーナリスト)
男には男の意地と誇りがあるように、女にも「意地」や「誇り」 があります。守られる存在ではなく、 何かを守ろうとした彼女たちの毅然とした姿は、じつに切なく、 美しい。
 
映画「氷雪の門」ホームページ
 

ブログある通信兵のおはなし から
http://ohanashi.okigunnji.com/backnumber/te117.htm



沖縄戦については、戦後、あらゆるメディアによりその悲惨な情況が紹介され、当時のことを知る人は多いです。
しかし樺太については、何故か人々から忘れ去られていました。

最大の悲劇として知られるのが、
「北のひめゆり」と言われた「真岡電話局」(注1)の九人の電話交換手の自決です。

■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■
「おはなし」の集大成Vol.1『著者自薦集全13話』は、でじたる書房にてお求めいただけます。http://www.digbook.jp/product_info.php/products_id/4323
■━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■

ポツダム宣言を受諾して戦争は終結したにも関わらず、ソ連軍は樺太の国境線を越えて南下を続けていました。8月20日には、樺太南端の真岡市に上陸して街を蹂躙しました。

この時、最後まで残った9人の女子決死隊が電話局を死守し、本土との電話回線を確保していましたが、ついに電話局が砲撃を受け、全ての電話線がソ連軍により切断されました。
(注2)
http://okigunnji.com/gazou/hyosetsu/hyosetsunomon.jpg

氷雪の門(稚内観光協会HPより)
回線が切断される直前の悲痛な電話、
「これが最後です。さようなら、さようなら」
を最後に、9人の乙女達は青酸カリを飲んで自決したのです。

最期の通信は、責任者であった可香谷(よしがだに)シゲからの無線でした。
「ワレニンムヲオエリ。サヨウナラ。サヨウナラ。サヨウナ・・ラ」
彼女は服毒後、最後の力を振り絞ってキーを叩いたようです。

(当時、無線は、局相互の中継回線が輻輳した際に、待ち合わせている次の電話番号を送るために使っていました。(速度は分速50字程度)
従って、電話回線で「さようなら」と告げた後に「可香谷主事補」が最期の「サヨウナラ」を無線で通報したそうです。
有線の電話も無線連絡も、受信した電話局は「稚内電話局」です)

この九人の乙女の犠牲によって、真岡市に結集していた日本軍は殆ど無傷で樺太から撤退したといわれています。
殉職された方々は、次の9名ですがいずれも独身であったそうです。

可香谷シゲ 23才(主事補、現在の主任)

高石ミキ 24才    吉田八重子 21才   
渡辺照 17才     高城淑子 19才
松崎みどり 17才   伊藤千枝 22才
沢田きみ 18才    志賀晴代 22才

九人は靖国神社に祭られ、同神社の遊就館には「九人の乙女」の写真などが安置されています。              

沖縄戦の「ひめゆり部隊」は、映画、図書などで戦争の悲惨さを痛切に感じた人は多かったことと想いますが、旧樺太の凄惨な戦い、それも8月16日以後に起きたことは、案外に紹介されることがありませんでした。

「真岡局」での悲劇は、終戦詔勅が放送され、人々が「やっと戦争が終わった」と安堵していた、『8月20日』であることが問題なのです。

ソ連軍の侵略は、「ポツダム宣言」を受諾する旨を天皇が全軍、全国民に対して通告した5日後のことです。

勝者なら何をしてもよいのでしょうか?

それにしても、
人は絶対絶命の境地に立ったとき、自分では考えられないような気力と度胸が湧くことを、これらの方々の行動から察せられます。

http://okigunnji.com/gazou/hyosetsu/otomenohi.jpg
乙女の碑(稚内観光協会HPより)

戦後建てられた稚内市の「乙女の碑」を昭和43年に訪れられた昭和天皇香淳皇后は深く頭を垂れ、冥福を祈られました。
次の御製、お歌が残されています。

樺太に命をすてしをたやめの心を思えばむねせまりくる】

【からふとに露と消えたる乙女らの御霊安かれとただいのるぬる】

なお「真岡局の悲劇」については、
昭和49年(1974)に物語が映画化(「氷雪の門」 主演二木てるみ)されました。

ところが、参戦の事実が明らかになることを恐れた当時のソ連が、日本政府に対して劇場公開を中止するよう圧力をかけ、結果的に配給会社は上映を中止します。当時のマスコミはそのことを問題とはしませんでした。

このことは、
昨年(平成16年)の8月30日放送の「フジテレビ ニュ-スJAPAN)で紹介され、その後、映画の復刻版(DVD)が、ネットの通販で販売されています。
http://www.worldtimes.co.jp/shop/hyousetsu/main.html




(参考図書)NTT出版「電信電話100年史」

(注1)当時、電話は逓信省の管轄にあったので、正確には電話交換業務を扱っていた真岡郵便局のこと。当時、上田豊蔵局長以下、職員は約50名いた。

(注2)
電話回線のケ-ブルは、配線盤(MDF)にケ-ブルを立ち上げるまでに、人が立って歩けるぐらいの大きなマンホ-ル(「洞道(とうどう)」と言います)を通っていました。
参考図書の「電信電話100年」には、この場所が爆破されたと記載されていますので、海底ケ-ブル、中継ケ-ブル、加入者回線ケ-ブルのすべてが断線になったものと思われます。