パルデンの会

チベット独立と支那共産党に物言う人々の声です 転載はご自由に  HPは http://palden.org

ラサの監獄の地獄絵を伝える貴重な証言

チベットNOWルンタ よりの転載

これは 2008年5月19日分の再掲であるが 

2008年のあの時から 現在までも獄につながれ、まだ 裁判を待っている人もいる。チベットNOWルンタ の主幹の中原氏が カンボジアポルポトの矯正キャンプを訪れて 悲惨な虐待の跡を我々に報告してくれたが、今行われているチベットの惨状は 現在 ー2010年の事ー なのである。

中国人にとっては 先のポルポトや、北朝鮮に、国内の矯正キャンプや 労働キャンプと言った共産主義人権の迫害を教えてきた、そして まだチベットではそれを行使している。
中国人は こういう残虐な民族であることの証明なのか、共産主義が中国人をこういう風に換えたのか、わからないが 
人間の成せる技には違いない。


人間であるからには 心には 良き心が残っており、邪悪な心から 迫害、弾圧、拷問、処刑などの
忌まわしい物を引き出すためにも、世界中から
中国共産党、中国人に圧力を加えよう。

チベットからは 「ホロコースト」を 今この時間から消滅させよう。 そのためにも広く知らしめる事が
大切である。

2010年10月12日

ラサの監獄の地獄絵を伝える貴重な証言 

http://livedoor.blogimg.jp/rftibet/imgs/f/7/f76160fa-s.jpg?4ba69681再掲・2008年5月19日分

5月19付でTCHRDが貴重な証言を発表した。
http://www.tchrd.org/press/2008/pr20080519.html

ラサ動乱後、数千人のチベット人が逮捕された。
その人たちの詳しい消息は今まで伝えられることがなかった。
以下、一人の青年が経験することになった、耐えがたい監獄の地獄絵の様を彼の証言からお伝えする。


<ラサの一青年の証言>

TCHRD(チベット人権民主センター)は3月のラサ動乱に後逮捕された一人のチベット青年から貴重な証言を得ることができた。
彼は監獄での非情な拷問の様、監獄の回廊に響く呻き叫び声、常に耳に入る悲惨な仲間の話、それでもいつか外の世界から支援が来ると堅く信じ続ける心、そして監獄から解放された後に感じたことについて話した。
以下の証言は証言者が第3者に緒言したものをTCHRDが編集したものである。
文中(*)の箇所は関係者の安全のために名前等の情報を伏せた部分である。


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3月(*)日約100人の軍人が突然自分の家に押し入った。
5か所にあったドアはすべて打ち砕かれ、中に押し入った大勢の軍人がすべてを手当たり次第に床にぶちまけた。
そこにいたみんなを殴りつけた。

まるで強盗に踏み込まれたようだった。
様々な武器を見せながら我々を本当に乱暴に扱った。
私はその場で逮捕された。
後手に両親指を締め上げられた。
余りに強く絞めつけられたのでその時から2,3か月は指に感覚が無くなっていた。
彼らは「いい機会だぜ!」とお互いに話しながら我々を激しく殴りつけるのだった。
始め私は本気で彼らが私を殺すつもりだと思った。
彼らは頭めがけて殴りつけてきた。頭は他の身体の部分と違って壊れやすいはずだ。

監獄に連れて行かれた。
最初の4日間は何の尋問もなかった、ただただそこにほっておかれた。
一日にティンモ(チベット蒸しパン)半切れが配られる。
それは本当に小さい!
みんなのぞを空している。多くの者が自分の小水を飲んでいた。
受刑者に全く水は与えられないのだ。
服もなく、毛布もなく、床にも敷くものは何もない、裸でセメントの床に寝るのだ、それは死ぬほど寒かった。4日間誰も我々を呼び出すこともなく、ただそのような状態に捨て置かれた。

昼間のラサは静だ。
しかし、夜11時過ぎてから、翌朝の5,6時までに毎夜千人近いチベット人が逮捕されて行った。

私が閉じ込められていた部屋では4,5日後に2個の蒸しパンと共に湯が配られた。

そこで色んな酷い話を聞いた。
多くの者たちが腕や足を骨折したり、銃弾で負傷していたが病院に連れて行かれる者は稀だった。
彼らは私たちと同じように監獄にほっておかれた。
それは本当に恐ろしいことだった。
私は自分が今21世紀に生きていることが信じられなかった。

例えば一人の男の子は、銃弾を4回浴びた。
一つは左背中から胸の前心臓近くに向けて貫通した。
一つは左肘の内側から手首にかけて、
一つは右肩口から下に向けて貫通したと。

(拷問により)ある人はろっ骨を折られた。
ある人は右目を強く殴られ、蒼黒くはれ上がっていた。
歯を折られた者は多い。
これらはほんの数例だ。
その他沢山のおぞましいことが行われていた。

何よりの苦しみは飢餓だった。みんな飢えていた。
弱った人はただ倒れる。
同室の男の子が便器の上に倒れた拍子に顎から頬にかけひどく切る怪我をした。

また多くの囚人が精神異常に見舞われる。
そうなったものは倒れやすい。
ツェタン出身の一人の男の子は精神異常を起こし心臓が弱っているようだった。
毎日2,3回は倒れる状態だった。しかし、もちろん監獄側はそんなことは気にも掛けなかった。

ラサには19箇所に監獄がある。最大のものはダプチでチュシュルにも一つある。最悪なことは、この場所はゴンザだがここは普段監獄ではないところだということだ。
中国当局は訪問者に空の監獄を見せ、ほら誰も政治犯などいない、というつもりなのだ。
普段鉄道の駅には監獄はない。
しかし当局はそこの大きな建物を監獄として使っている。
ドュロン デチェンとこのゴンザにもチベット人が収監されている。

夜になると大型バスが大勢の軍人と共にやってくる。
毎日そうやって100人から150人の人がドュロンに連れて行かれた。
彼らは「さあ出発だ。お前らは何も悪いことはしてない。今から家に帰れるんだ」
そう言って彼らは他の二か所に送られて行くのだ」
とにかくむちゃくちゃに者のようにトラックに積み上げられ運ばれるのだ。

以下のことは自分が見たことでなく友人から聞いた話だが。
ある日ドゥロンから僧侶たい数名が積み上げられどこかに連れて行かれた。
その後彼らは二度と帰って来なかった。
皆は彼らが処刑されたらしいと思った。

監獄で私は65歳という老人に会った。
彼の両脚は砕かれ、立つことができなかった。
彼は実際死にかけていた。
そこで監獄側は彼を人民病院に連れて行った。
そこでは毎日拷問の末にひとり二人と死んでいく。
そこに連れて行かれる者は、銃弾を浴びたか暴行を受けたもので、そこに行った者たちはまず帰ることはない。そこで死ぬ。

病院に(*)出身のある弟と妹が寝ていた。
突然そこに軍人たちが入ってきて二人を高い階の窓から外に投げ落した。
弟はその場で死んだ。
姉の方は死ぬことはなかったが、横たわることができなくなり座った姿勢しか保てなくなったという。
このことを外の者にしゃべったら容赦しないと脅されているという。
これらはほんの数例だ。
こんな話は幾らでもある。

何もしていないチベット人に対してもいろんな尋問がなされる。
彼らにはただ、我々がチベット人であること自体が罪なのだ。

他の場所から大量の軍隊がラサに集められた。
一方囚人たちは目立つラサから遠くのどこかい運ばれて行った。
(*)僧院の僧侶たち、多くの友人、親戚が行方不明のままだ。

ラサには軍隊は居ないなどと彼らは言う。しかし大勢の私服警官が常にチベット人の身分証明書をチェックしている。

"監獄には多くのソウトの高校生がいた。その中に17歳の男の子がいたが、彼は3月14日のデモには参加していなかった。
彼は全裸にされ両腕を縛られ、失神するまで引き回された。
実に様々な拷問の方法があった。
遂に彼はすべての自分に対する濡れ衣を認めさせられた。
こんなことが沢山の人に対して行われ、全くしてもないことを認めるよう拷問されるのだ。

私自身は監獄で死人を見たことはない。
しかし、毎日のように監房からは<誰それが死んだ!>と監囚人に知らせる叫び声が聞こえてきた。

ゴンゼには9棟の獄舎があった。一棟に11部屋づつ、一部屋に20人から30人の囚人がいた。
逮捕され行方も知れないデブン、セラ、ラモチェ、ジョカンの僧侶達を除いて、おそらくそのころ1万人ほどのチベット人がラサで逮捕されていたであろう。

http://livedoor.blogimg.jp/rftibet/imgs/5/e/5ede8629-s.jpg?2920ddc1私は4月(*)日に釈放された。

続く