いつからこの国は 年収1000万近くある サラリーマン記者の
金をもらって報道するような社会になったのか?
東電からもらっていた『餌』がそれほど うれしいのか????
本来なら 其れは其れ としていた社会があったはずである。
現在の マスコミや公務員に見る たくさんのある特定の宗教の
影を見たような気がする。
大手新聞どう反論するのか? しないだろ!
放射能は飛んでいないと 子供たちに放射能を浴びせた大手、マスコミだから。
鉢呂前経産相の「放射能つけちゃうぞ」発言は虚報だった!
鉢呂前経産相
「放射能と言った記憶がない」
「放射能と言った記憶がないのです。確かに相槌を打ったような気もしますが、それもはっきりせず、自分で言ったような記憶はない。私も長年政治家をやってきていますから、自分で言った言葉については大抵覚えております。でも、放射能という言葉自体、あまり使ったことがありませんし、放射性物質などということはありましたが、なにしろ記憶にないのです。でも、優秀な記者さんたちがみんなそう報じるので、どうしてなのかなと思っておりました」
結論からいえば、鉢呂氏は「放射能」も「つけちゃうぞ」も発言していない。発言のあったとされる当日、東京電力福島第一原発所の視察から戻った鉢呂大臣(当時)が、赤坂宿舎に集まった4、5人の記者たちと懇談したのは事実だ。だが、防護服を着用したままの鉢呂氏に「放射能」という言葉を使って、水を向けたのは記者たちのほうであり、それに対して、鉢呂氏は何気なく相槌を打っただけというのが真相なのだ。
ジャーナリズム以前、
人間としての良心すらないのか
午後8時半には自社のウェブサイトにも掲載。この後、他のメディアも報じ始め、共同通信は午後9時過ぎ、「放射能」発言を加盟社向けに速報し、約30分後に記事を配信。TBSは午後11時半からのニュースで報じ、NHKも午後11時59分に「経産相『放射性物質うつった』発言」というニュースをネット配信。朝日新聞など新聞各社も10日付の朝刊で発言を大きく扱った。
一方、発言内容や自社の記者が現場にいたのかどうかの表現は、社によってばらついた。毎日新聞は「毎日新聞記者に近寄り、防災服をすりつけるしぐさをしながら『放射能をつけたぞ』という趣旨の発言をした」と報道。9日に報じなかった理由は「経緯についてはお話ししかねる」(社長室広報担当)という。
同様に自社の記者が現場にいたことを明らかにしている共同通信は「鉢呂氏が突然、記者の一人にすり寄り、『放射能をうつしてやる』という趣旨の発言をした」と報道。同時に、経済部長名で「『死の町』発言で、原発事故対策を担う閣僚としての資質に疑義が生じたことで、前夜の囲み取材での言動についても報道するべきだと判断した」というコメントも配信した。
他のメディアでは、産経新聞、東京新聞、テレビ東京、時事通信が「囲み取材には参加していなかった」としており、東京新聞は紙面で共同通信の配信であることを明らかにした。日本テレビ、TBS、テレビ朝日などは取材に対し、取材の過程については答えられない旨を回答。フジテレビは「取材の結果、報道する必要があると判断した」とし、記者が現場にいたかは明らかにしていない。
朝日新聞の渡辺勉・政治エディターは「8日夜の議員宿舎での発言の後、鉢呂氏は9日午前の記者会見で『死のまち』とも発言。閣僚の資質に関わる重大な問題と判断して10日付朝刊(最終版)で掲載した」と話す。辞任会見で鉢呂氏が、議員宿舎での取材を「非公式の懇談」と語ったことについては「議員宿舎の玄関付近での取材は自由であり、扱いについて特段のルールはない」としている。〉
http://digital.asahi.com/articles/TKY201109120533.html?id1=2&id2=cabbajbd
虚報による政治家の社会的抹殺
マスコミの罪はテロ行為にも等しい
それもそうだろう。鉢呂氏は、大臣就任前から一国会議員として福島県に通い、放射線量の測定や、小学校や保育園の除染の徹底、そして暫定基準値の20ミリシーベルトから1ミリシーベルトへの引き下げを訴え、菅首相(当時)に直訴していた数少ない政治家の一人だったからだ。
それが、なぜか、マスコミのフィルターにかかると、福島県内で非難の声が多数あがったということになる。だが、そのほとんどが匿名だ。一方、鉢呂氏の発言はその通りだとするのはたとえば、南相馬市のエム牧場の吉村農場長や、同じく南相馬の桜井市長など実名での発言となっている。
放送に関してはBPOに訴えるのもよし、あるいは名誉毀損で裁判を起こすのもよし、いずれにせよ、こうした卑怯な振る舞いに対しては断固とした措置を講じるべきなのである。仮に、こんな卑劣なデマ報道が許されるとしたら、それはジャーナリズムのみならず、民主主義の死を意味する。
嘘によって、選良である代議士を葬ることは、代議制民主主義、ひいては国民への裏切りに他ならない