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ブッダは象に乗って来たがイエスは大砲に乗って中国に来たのか

<チャイナインサイトブッダは象に乗って来たがイエスは大砲に乗って中国に来たのか


201702221127
[ⓒ
中央日報/中央日報日本語版]


1920年代に中国・北京大学の総長を務めた張夢麟は「ブッダは白い象に乗って中国にきたが、イエス・キリストは大砲に乗って飛んできた」と話した。キリスト教を西欧の武力威嚇になぞらえて言ったものだ。「大砲の上のイエス」という比喩にはキリスト教が中国の主権を脅かす外来宗教という認識が込められた。しかし歳月に勝てるものはないようだ。最近バチカンと中国の修交が差し迫っているという観測が出ているからだ。北京の空にはどれだけ多くの神々が歩いているのだろうか。
米国際宗教自由委員会(USCIRF)は「2016年度宗教自由報告書」で中国を「特別関心対象国」に指定した。中国はすぐに「宗教問題を悪用し中国内政に干渉することを中断せよ」と反発した。中国が宗教弾圧国に名を上げたのはきのうきょうののことではない。中国が宗教に寛大になれない理由として大きく3種類を挙げられる。
宗教は民衆のアヘン?
最初は宗教に対する中国共産党の否定的認識だ。「宗教は民衆のアヘン」というマルクスの有名な言葉は中国と宗教の不和が必然的であることを暗示する。マルクス主義的観点から見ると宗教とは支配階級の搾取を容易にする道具であるだけだ。
厳しい現実を耐えさせるアヘンとしての宗教、これは現実の苦難が消えれば自然に消滅する存在だ。抑圧が終わる日に宗教は無意味になるためだ。このため社会主義と宗教の妥協は本質的に不可能だ。
無神論政党が統治する中国で有神論の宗教とは果たして容認できるのだろうか。1954年に制定された中国憲法は「中国公民は宗教信仰の自由がある」と明確にした。毛沢東は人々に宗教を信じないよう強制することはできないと考えた。
しかし長期的観点から宗教除去という課題を放棄したものではなかった。封建時代の残滓である迷信を打破するという名分で無神論教育を強化し宗教団体の財産を没収した。57年の反右派闘争と文化大革命極左路線を歩み宗教弾圧を行った。宗教は壊滅の危機にさらされたのに対し、共産主義は最高の信仰として登板し、毛沢東は神格化された。

宗教は外勢の侵略道具?

2番目は宗教が外勢の侵略道具として利用された歴史のトラウマのためだ。中国が外勢の宗教介入を極度に警戒することになったのはアヘン戦争に象徴される西洋帝国主義勢力の侵略に起因する。
西欧列強の艦砲に門戸を開放した中国はキリスト教布教の自由を認めるほかなかった。その後反キリスト教運動である教案が相次いだ。アヘン戦争が起きた1840年から義和団運動が起きた1900年まで実に400件以上の教案が発生した。
反帝国主義愛国運動と規定される義和団運動はまさに天主教・新教を狙った反キリスト教運動だった。中国人にキリスト教の伝播は民族自尊を暴力的に侵害する不当なことだった。張夢麟の「大砲上のイエス」という言葉が出てくることになった背景だ。
このためキリスト教が中国で容認されるには何より「外勢」からの独立が必要だった。中華人民共和国が立てられた後に中国教会が掲げた「三自」の原則もここから導出されたものだ。「三自」とは、教会運営の独立である自治、経済的独立である自養、伝道の独立である自伝を意味する。中国新教と天主教はこの三自の原則に基づきバチカンや海外宣教会に従属しない。
宗教は分離独立運動の震央・
中国と宗教の不和には少数民族の分離独立運動に対する中国当局の懸念が複合的に絡まっていたりもする。チベット自治区の仏教と新疆ウイグル自治区イスラム教はチベット族ウイグル族アイデンティティの根源だ。
このため中国政府はより一層これらの地域の宗教を完全に統制可能な状態に置こうと考える。ダライ・ラマの訪問を認めた国に対する報復、中国の火薬庫と呼ばれる新疆ウイグル自治区に対する反テロ措置などは、中国で宗教とはまさに政治の領域であることを語っている。
改革開放の波で回復した宗教
中国で宗教が起死回生したのは改革開放の風に乗ってからだ。中国が達成しなければならない目標が「階級闘争」から「経済建設」に変わり、宗教に対する抑圧が緩和されたのだ。トウ小平政権は近代化した社会主義強国を建設するためには信徒と非宗教家の連合が重要だと考えた。
また、既存の価値観が崩壊し、混乱と恐怖に捕われた彼らに宗教が食い込む余地が多くなった点が大きく作用した。共産主義のために奮闘するという道徳体系は物質主義と実用主義の前で凄惨に崩れ落ちた。
社会構造の転換期には常に宗教が脚光を浴びるものだ。時代が不安なほど人々は慰安と安定感を切実に必要とする。すると中国共産党は「宗教を積極的に導いて社会主義社会に合致するようにする」という命題を出した。
もちろん中国共産党共産党員が宗教を信じてはならないという原則を守っている。この原則が外れれば党の戦闘力が弱まり党の宗教政策を貫徹させにくいという理由からだ。
習近平中国国家主席もやはり「共産党員はマルクス主義に立脚した無神論者にならなければならず、自身の価値と信念を決して宗教に求めてはならない」と強調したことがある。こうして見ると共産主義は宗教的色彩を帯びた信仰といえる。
神学者パウルティリッヒは「究極的関心に捕まった」状態を宗教と定義した。彼は国家主義社会主義を類似宗教と規定し、類似宗教は有神論的宗教と同じように追従者の忠誠と崇拝を要求すると指摘した。

  こうした意味から見るならば宗教と共産主義は有神論と無神論の対立というよりは、それぞれ異なる信仰と信仰の対立だ。共産主義に対する確信はメシアの約束に対する確信と同じ性質のものであるためだ。

  ◇
バチカンと中国の修交が迫っているのか

  
「中国特色の社会主義」という用語で見るように中国は全てのものを「中国化」しようと考えている。宗教も例外ではない。仏教の中国化、イスラム教の中国化、キリスト教の中国化のように、すべての宗教の中国化を掲げる。

  
どのような外来宗教も中国化しなければ根を下ろしにくい。明にカトリックを伝えたキリスト教宣教師のマテオ・リッチが中国の知識人を魅了させることができたのは彼が中国文化、特に儒教をよく理解していたためだ。

  
彼はひげと髪を伸ばし、儒学者が着る服を着て中国語を学んだ。儒教の経典に出てくる上帝の概念を通じて天主を説明する形で儒教カトリック教理の類似性を探そうと考えた。後にローマ法王庁が中国の儀礼偶像崇拝と見なしバチカンと中国の関係が歪んだりもしたが。

  
最近世界12億人の信徒を導くフランシスコ法王のバチカンと13億の人口である中国の修交が差し迫っているという観測が出ている。関心は司教任命問題をどのように解決するのかに傾く。中国は法王の固有権限である「司教叙品権」まで独自に行使してきた。始まりは58年だ。自主的に司教を選出し法王庁が切った「破門」のカードにぶつかったりもした。

  
これに対する解決法と関連して現在「ベトナムモデル」が議論される。これは司教候補者名簿をバチカンに提出するとバチカンが司教を選出し、これを再び政府の同意を経て最終的には法王が叙品する方式だ。

  
中国とバチカンの修交には台湾問題もかかわっている。「ひとつの中国」の原則を主張する中国が台湾との断交を修交条件として掲げているのだ。したがってバチカンと中国の修交のためにはバチカンが台湾と断交しなければならない。

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文化商品化する宗教

  
21世紀の中国では制度宗教と民間信仰とも復興している。動力は宗教の文化商品化だ。「生産力が発展して文明が進歩し思想が向上されれば宗教が存在する基盤が消え結局宗教は消滅するだろう」と習近平は語ったが、宗教はすでに中国で強固な基盤を確保しているようだ。

  
文化商品という皮をかぶった宗教は決して消えないだろう。宗教が抑圧されるよりさらに脅威なのは宗教が商品化されることだ。もちろん中国にだけ限定されたことではないだろう。神聖性を失った宗教を果たして宗教といえるだろうか。北京の空にも神は存在するのか? 地球にも神は存在するのか? 存在するならばその神は果たしてどんな神だろうか。

  
イ・ユジン延世大学人文学研究院研究員