パルデンの会

チベット独立と支那共産党に物言う人々の声です 転載はご自由に  HPは http://palden.org

ウクライナ侵攻開始直後からロシア国内では「戦争反対」の声があがった。  抗議集会、デモは徹底的に弾圧された。プーチン大統領は反戦運動をする国民を「第五列」(スパイ)と呼び捨て、「ロシアの人々は、真の愛国者を汚物や裏切り者から常に区別し、偶然に口に飛び込んだ小虫のように彼らを吐き出すことができるだろう」などと口汚く非難した。

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宮崎正弘の国際情勢解題」 
     令和四年(2022)6月15日(水曜日)
         通巻第7368号 
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 ネムツォフ、チュバイスが不在となって、ナワリヌイは獄中
   反プーチンを代弁するロシア人は海外から発信中
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 ウクライナ侵攻開始直後からロシア国内では「戦争反対」の声があがった。
 抗議集会、デモは徹底的に弾圧された。プーチン大統領反戦運動をする国民を「第五列」(スパイ)と呼び捨て、「ロシアの人々は、真の愛国者を汚物や裏切り者から常に区別し、偶然に口に飛び込んだ小虫のように彼らを吐き出すことができるだろう」などと口汚く非難した。

 「泥棒国家」には政敵の暗殺はつきもの、スターリンは最強の政敵だったトロツキーを海外亡命先にまで刺客を送って暗殺した。

 エリツィン政権で最初の首相はチェルノムイルジンだったが、二代目はキリエンコである。キリエンコは物理学者、首相在任四ヶ月で通貨安定に失敗したとして解任され。この時の第一副首相がネムォフである。キリエンコは、その後、原子力庁長官(現在の「ロスアトム」)。同庁がポロニウムを管理していた。
アレクサンドル・リトヴィネンオはポロニウムを浴びて死亡した。

 リヴィネンコはKGB、FSBのプロとして教育され、97年にベレゴフスキー暗殺を命じられて拒否したため刑務所にぶちこまれた
ときのFSG長官はプーチンだった。
その後、トルコ経由で英国へ亡命し、モスクワの爆破事件でチェチェン介入の口実としたが、あれはFSBの自作自演だったなどとプーチンの陰謀を暴露し続けていたため、命を狙われていた。

 ネムツォフ暗殺は2015年2月27日だった。そう、クリミア併合直後、ネムツォフは軍事介入反対デモの先頭に立ったユダヤ人。モスクワのレストランで美人モデルと食事したあと、モスクワ川の橋の上で六発の銃弾、四発が命中して死去した。
 ネムツォフはエリツィン政権下、キリエンコ内閣の第一副首相を努め、ウクライナのカラー革命ではユシチェンコ首相を支持し、顧問格で支えた。明確に反プーチンの立場を明らかにしていた。 


 ▲ナワリヌイもノーベル平和賞のジャーナリストもやばい

 反プーチンを代表した知識人のアレクシー・ナワリヌイはえん罪をかぶせられ、獄中にある。
 リベラルなロシアの英字紙『モスクワタイムズ』(6月15日)に拠れば、ナバルヌイはモスクワ東郊外のポコロフ刑務所から、通称「1K-6」という特別刑務所に移動し、弁護団はそのあとで知られたという。

 ナワリヌイは政権与党=統一ロシアを「詐欺師と泥棒の党」と呼んだ。刑期は九年に延長された。嘗ての石油大手「ユコス」CEOで野党最大の支援者だったミハイル・ホドルコフスキーと同じ刑期となった。

ホドルコフスキーはシベリアのチタ刑務所で九年を過ごし、病気療養を名目に保釈された。地下でドイツの交渉が展開されていた。ドイツへ出国後、英国へ移住し、ロンドンからプーチン批判を続けている。

ミハイル・カシヤノフがSNSに登場して言い放った。
プーチンはロシアを破壊する、愛国的なロシア人の弾圧を開始した」
5月14日のインタビューでカシヤノフは、「戦勝記念日の軍事パレードで行われたプーチン大統領を見て、『緊張している』ように見えた。彼が『この戦争に負けている』ことをすでに気付き始めた」と語った。

 このカシヤノフって誰だっけ? 彼は第六代ロシア首相である。
 カシヤノフは、2000~04年にプーチン政権下の初代首相を務めた。プーチン政権が発足したとき、ロシア政治の未来にまだ多少の「希望」があった。
カシヤノフは以前に財務大臣を担当し、ルーブルの安定に努めた。チュバイスネムツォフも協力したが、やがてプーチンから離れ、野党活動に移行した。プーチンは、かれら自由主義が求めた指導者ではなかった。

 カシヤノフは野党を組織し、ネムツォフと協議して大統領選挙に立候補した。落選後、暗殺の危機をさとり、海外へでた。カシヤノフ元首相はどこにいるかは不明だが最近もAFP通信のビデオインタビューに応じ、ロシアのウクライナ侵攻について、戦争は「2年続く恐れがある」と暗い見通しを述べた。

ウクライナ侵攻前にプーチンが招集した安全保障会議の様子を見て、「戦争があると実感した。プーチン氏は既に正気でないように見えた」と指摘したカシヤノフは「もしウクライナが陥落すれば、次はバルト諸国だろう」と不気味な予言もしている。

 カシヤノフの後、2007年から16年まで九年間、首相を詰めたフラトコフはユダヤ人である。フラトコフは首相解任後、FSB長官を歴任したが左遷され、現在はロシア戦略研究所所長となっている。


 ▲ロシアのジャーナリストは命がけなのだ

 四月七日、ノーベル平和賞のロシア人ジャーナリストで独立系リベラル紙『ノーヴァヤ・ガゼータ』の編集長、ドミトリー・ムラトフはモスクワ発サマラ行きの列車内で襲撃され、有機溶媒アセトンが含まれた赤い塗料をかけられた。

 同氏は暗殺対象とされ、プーチンが目の敵にしてきた。
2000年にはイーゴル・ドトニコフがハンマーで襲われ撲殺された。03年には副編集長のユーリー・シェチェコチーヒンが毒殺された。
06年に同紙のアンナ・ポリトコスカヤ女史が自宅を出てエレベータの中で銃殺され、世界に衝撃を与えた。
 『ノヴァア・ガゼータ』紙は停刊に追い込まれた。

ほかにプーチンの意に沿わないメディアでは、ラジオ局「モスクワのこだま」、テレビ局「ドシチ」も活動停止に追い込まれている。プーチンを「ロシアの恥」としたメディアはすべて活動停止中である。

どこかの国の「ジャーナリスト」のように安全地帯に身を置いて、好き勝ってな政治論を展開し、政策を批判し、責任をとろうともしない。不利になれば沈黙し、まずい情報は報道しない。命がけでない行為は歴史を動かさない。
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