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嘘韓国人慰安婦徴用問題、韓国人少女慰安婦徴用問題、嘘徴用韓国人炭鉱夫、など 韓国をめぐる問題は 我々日本人社会と全く違う社会で 左翼運動家が巧妙に作り上げた「詐話」の集大成であった。 朝日新聞の記者は今でも最高裁判所が下した彼の記事が「詐話」という判決に抵抗し韓国で大学教育に従事している。

ソウル五輪が強制収容に拍車

男児への奴隷労働とレイプが横行…韓国“ホームレス福祉施設”の闇

軍事独裁政権下で深刻な人権侵害が起きていた兄弟福祉院Photo: Courtesy of Brothers Home Welfare Center Incident Countermeasures Committee

軍事独裁政権下で深刻な人権侵害が起きていた兄弟福祉院
Photo: Courtesy of Brothers Home Welfare Center Incident Countermeasures Committee

Text by Choe Sang-Hun

 

子供たちが過酷な労働や性的暴行に苦しめられ、韓国・近現代史における最悪の人権侵害のひとつに数えられる「兄弟福祉院事件」。2022年8月24日、強制労働や虐待を黙認していた韓国政府の責任が初めて公的に認められたが、被害者のトラウマを癒し、社会復帰を促すにはまだ長い時間がかかると米紙が報じている。

「国全体が共犯者」


1976年から1987年にかけて、韓国の軍事独裁政権は約3万8000人を「兄弟福祉院」と呼ばれる福祉施設に収容した。同施設は、政府が「路上生活者」と呼ぶ人たちに食事を与え、教育と職業訓練を提供するはずだった。その大半は未成年者だったが、実際にはそこは「悪夢の家」だった。

多くの収容者が殴られ、レイプされ、奴隷労働に駆り出された。生存者や捜査官によれば、家族に知らされぬまま不法収容されて死亡した人の数は650人以上だという。

とりわけ、韓国南東部の港湾都市・釜山の兄弟福祉院は、韓国の近現代史のなかでも悪名高い人権侵害の舞台になった。しかしながら関係者のなかで、責任を問われた者はほとんどいない。1987年に同施設の院長が取り調べを受けると、政府が捜査に介入。院長は2年6ヵ月の懲役刑を受けただけだった。罪状は業務上横領の容疑で、人権侵害には問われなかった。

兄弟福祉院事件の被害者は当局の責任を長年にわたり追及し続け、2022年8月24日にようやく勝利を収めた。独立した政府調査機関「真実・和解のための過去史整理委員会(真実和解委)」は、当時の軍事政権が兄弟福祉院への不法収容と、施設内での強制労働を黙認した結果、収容者を暴行やレイプなどの虐待にさらして、ときには死に至らしめたと認定したのだ。

韓国の独裁政権下で起きた数々の人権侵害のなかで、この事件に関する資料は最も多い。元収容者らは数十年にわたって手記を書いたし、主要テレビ局も調査報道番組を放映した。人権団体と新聞も、福祉院での虐待と隠蔽工作の実態を何度も報じた。

だが、韓国政府がこの事件を「国家による重大な人権侵害」と正式に認めたのは、真実和解委が認定を下した日が初めてだった。和解委は政府に対し、被害者に謝罪するよう勧告。さらに彼らのトラウマ治療に対する支援を求めた。

1975年から1980年の間に兄弟福祉院に二度収容されたパク・キョンボ (58)は、「国全体が共犯者だ」と話す。

「膨大な証拠があるにもかかわらず、誰も私たちの話に耳を傾けようとしなかったし、関心を持とうとしなかった。私たちは社会のゴミのように扱われたのです」


ソウル五輪のためにホームレスを一掃


補償を求めて政府を提訴する被害者にとって、真実和解委の認定は強力な援護射撃となった。またこの調査結果は、国内の激動の時代と向き合ってきた韓国の努力の成果とも言える。

韓国の近現代史民主化運動だけでなく、民間人の虐殺や民衆蜂起、拷問や人権侵害の歴史でもある。

1960~80年代、当時の軍事独裁政権は「ホームレスの一掃」に取り組んだ。それが特に活発だったのが、1988年のソウル五輪大会前の数年間だ。1986年までに、政府の補助金で運営された36の福祉施設に1万6000人以上が収容されている。釜山の兄弟福祉院には、収容人員500人の建物に4355人も詰め込まれていた。

兄弟福祉院にはホームレスや障がい者だけでなく、ただ酒に酔っていた一般市民や身分証明書の不携帯者、物乞い、さらには反体制派の政治家までもが収容された。

捜査官によれば、こうした施設は収容人数に応じて政府から補助金を受けとっていたという。そのため、施設側は警察や自治体職員に賄賂を渡し、路上で大人が付き添っていない子供たちを見つけては福祉院に送り込み、孤児として登録していた。


10歳のときに兄弟福祉院に送られたイ・ドンジン(57)は、「家の近所で遊んでいたら、いきなり見知らぬ男たちに冷凍トラックみたいな車両に投げ込まれました。まるでゴミ扱いでした」と話す。

イは兄弟福祉院で「110番」という識別番号で呼ばれた。そこで過ごした7年間は「地獄そのもの」だったという。

収容者の約4分の1がレイプ被害に


釜山の兄弟福祉院の院長を務めていたのは、陸軍軍曹だったパク・イングンだ。パクは模範的な福祉施設を運営したと政府に評価され、その軍服は勲章で飾り立てられていた。

1981年に官製の映画制作会社が制作したプロパガンダ映画では、パクは敬虔なキリスト教徒で、ホームレスや悪の道にそれた人たちの更正に精力的に取り組んでいると紹介された。施設の最上部には、大きなプロテスタント教会があった。

兄弟福祉院の職員は政府の補助金を目当てに路上にいる人たちを強制収容した
Photo: Courtesy of Brothers Home Welfare Center Incident Countermeasures Committee


だがのちに、強制収容所のような兄弟福祉院の実態が、被害者や捜査関係者の話から明らかになる。施設は高い塀に取り囲まれて、夜間は外から鍵が掛けられていた。収容者は廃棄された軍服や青いトレーニングウェアを着せられて、衣類や靴、釣り道具、カクテルに飾る傘などを生産する工場で夜明けから日暮れまで働かされた。真実和解委によると、収容者の賃金は規定の半分以下で、無償労働の場合もあったという。

毎週月曜の朝には「人民裁判」がおこなわれ、規則違反者は数千人の前でひどい懲罰処分を受けた。1986年、軍諜報機関は兄弟福祉院を「統制および規律能力において、刑務所よりも秀でている」と評価している。また、まるで「治外法権」を楽しむかのように同施設は運営されていたと真実和解委は指摘する。

パクに忠実な収容者は「小隊長」に昇格し、他の者を震え上がらせた。収容者はほとんどが男性だった。釜山市が実施した2020年の調査によると、元収容者の4分の1近くが施設内でレイプされたと回答した。また、調査報告によれば、兄弟福祉院は少なくとも11人の子供を海外に養子に出して外貨を獲得した疑いがあるという。

「パク・イングンは、キリスト教徒の寄付者から金を集めていました」とチェ・スンウ(53)は証言する。彼は1986年までの5年間、同福祉院に収容された。

「その一方で、彼は私たちを教会に集め、規則を破ったという理由で『イエスと神の名において』体罰を与えたのです。私たちは足蹴にされ、棍棒で殴られました。頭部からは、血が飛び散りました」

兄弟福祉院に8歳で収容されたハン・ジョンサン(46)は、てんかんの発作を起こした青年を看守が殴打するのを見たと話す。その青年は白目をむいたまま連行され、それっきり行方知れずになった。ハンは、男性の小隊長から日常的にレイプされたという。

犯罪者や虐待者になった元収容者も


1987年、虐待を示す重要な情報が次々と通報され、検察と野党議員が兄弟福祉院を調査した。だが政府は検察に圧力をかけ、調査を骨抜きにした。同年、民主化を求める大規模なデモが発生すると、兄弟福祉院事件の存在は忘れ去られていった。

ハン・ジョンサンは2012年、国会前で単独の抗議活動を開始し、長い沈黙を打ち破ろうとした。チェ・スンウも他の元収容者と共に座り込みやハンガーストライキで抗議に参加したが、事件解明の動きは鈍かった。院長のパク・イングンは2016年、老衰で死亡した。

人権侵害の実態を訴える元収容者たち
Photo: Courtesy of Brothers Home Welfare Center Incident Countermeasures Committee


2020年、韓国政府は過去の人権侵害の調査を担当する政府機関で2010年に解散した真実和解委を再設置した。釜山の兄弟福祉院事件は、新生・和解委が扱った調査案件の第一号だ。報告会の場で同委員会のチョン・グンシク委員長は次のように明言した。

「政府は兄弟福祉院の人権侵害への対処を求める請願を無視し、問題があることを知りながら何の行動も起こさなかった。1987年の事件調査において本事件の重大性を見逃し、歪曲し、事実に基づく適切な法的解決を妨げた」

被害者は兄弟福祉院から解放されたあともうつ病や怒りに苦しんだ。刑務所に入る者や、暴力的な配偶者・親になった者も多かったという。元収容者のひとりチェ・スンウの弟は、2009年に自死した。ハン・ジョンサンと共に収容されていた姉は、精神病院に入れられた。

二度の収容経験を持つパク・キョンボは言う。

「兄弟福祉院はまだ若かった私たちから青春と教育を奪いました。その結果、私たちは政治的な関心を持って権利を主張する機会も得られませんでした。国が民主化してもなお、私たちは社会に溶け込めません。人目に触れないところに埋もれたままにしておくのが、いちばん良いとされたのです」