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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和四年(2022)10月15日(土曜日)弐
通巻第7493号
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●小誌、明日(10月16日、日曜日)は休刊となります!
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軍事地政学からいえば北朝鮮のミサイルは中国にも照準
北京は金王朝の暴走をいかなる歴史感覚で認識しているのか?
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北朝鮮の核ミサイル、数十発が日本海へ、日本のEEZへ、そして
日本の議論は、北朝鮮がいずれ韓国を従えて、日本攻撃を狙うとい
はたと考えた。ミサイルの射程地図を『あちら側』に伸びしてみよ
すると樺太(サハリン)、沿海州、旧満州国の殆ど(現在の中国遼
南へ転ずれば、上海から寧波を飛翔して、はるか温州あたりまでが
中国が安全保障上の基本として、隣国の軍事力は脅威という認識を
ミサイルに小型核を装填したと推定されている。ならば最大の脅威
さて北朝鮮の核を中国がなぜ脅威と認識するのか。
簡略ながら歴史を辿ってみよう。
高句麗の建国は紀元前、668年に滅亡するまで栄えた。軍事力に
二世紀に後漢で起きた黄巾党の乱で、シナの王朝が衰えた隙に乗じ
高句麗は最盛期に現在の北朝鮮から沿海州、中国吉林省南部と遼寧
581年に隋が建国され、冊封体制に入るものの高句麗は隋に従う
文帝が死ぬと隋は煬帝となって、598年に水陸30万の遠征軍を
612年、隋の煬帝は満を持して百万の軍を派遣したが苦戦の末に
613年 進撃途中に兵站が切れて、又撤退した。
614年 軍派遣するも隋国内に反乱が起こり退却する。
617年 煬帝はまたしても軍派遣を準備したが沙汰止みとなる。
さんざん手こずって、結局、随は高句麗に勝てなかった。
日本では百済、任那府との関与が深く、隋と高句麗の戦線状況を把
645年に大和朝廷は乙巳の変で蘇我氏が滅亡したが、この同じ年
647年、648年に 唐は遠征に失敗したが、660年に13万の軍をおくり、大々的に
高句麗が滅亡したのは668年である。
そこで新羅が恩ある筈の唐に造反し、失敗して遺臣等は日本に亡命
高句麗にかわって30年後に渤海国が698年に建国された。渤海
後半は能登以西の港に着岸した。ヤマト王朝は最初歓迎したものの
つまり、中国の皮膚感覚としての高句麗の脅威は、現在の北朝鮮の
□☆◎☆み□☆☆□や☆□☆□ざ☆□☆□き☆□☆□