パルデンの会

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北朝鮮のミサイルは中国にも照準   つまり、中国の皮膚感覚としての高句麗の脅威は、現在の北朝鮮の核戦力の脅威に連結している。

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 「宮崎正弘の国際情勢解題」 
     令和四年(2022)10月15日(土曜日)弐
         通巻第7493号  
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●小誌、明日(10月16日、日曜日)は休刊となります!
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 軍事地政学からいえば北朝鮮のミサイルは中国にも照準
  北京は金王朝の暴走をいかなる歴史感覚で認識しているのか?
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 北朝鮮の核ミサイル、数十発が日本海へ、日本のEEZへ、そして本土を越えて太平洋まで飛翔し、つまりは日本列島全体を蔽う攻撃能力を誇示する。
 日本の議論は、北朝鮮がいずれ韓国を従えて、日本攻撃を狙うという軍事脅威論が主流である。

 はたと考えた。ミサイルの射程地図を『あちら側』に伸びしてみよう。
すると樺太(サハリン)、沿海州、旧満州国の殆ど(現在の中国遼寧省、吉林省黒竜江省内蒙古、河北省から山東省、山西省河南省湖北省まで、つまり北京、天津、鄭州、洛陽、太源、青島、済南を超えるのだ)。
南へ転ずれば、上海から寧波を飛翔して、はるか温州あたりまでが北朝鮮の核ミサイルの射程内だ!

 中国が安全保障上の基本として、隣国の軍事力は脅威という認識を体質的に持っており、「この野郎、生意気な」と金親子三代のことを思っているに違いないが、すでに核開発を終え、実験を繰り返し、小型化に成功したという情報もある。
ミサイルに小型核を装填したと推定されている。ならば最大の脅威を感得するのは韓国であるべきだが、感度が鈍い。日本は非常事態にあるにも関わらず防空壕もシェルターもない。防御ミサイルがアリバイ証明的にちらほら。つまり国防意識がゼロに近い。

さて北朝鮮の核を中国がなぜ脅威と認識するのか。
 簡略ながら歴史を辿ってみよう。
 高句麗の建国は紀元前、668年に滅亡するまで栄えた。軍事力に突出していた。
 二世紀に後漢で起きた黄巾党の乱で、シナの王朝が衰えた隙に乗じ高句麗は、北部へ進出し、あちこちに山城を造成し、現在の吉林省集安を拠点とした。集安はこじんまりとした街だが、鴨緑江をこえるとすぐ北朝鮮であり、広開土王の石碑は、この地で発見されたのである。

 高句麗は最盛期に現在の北朝鮮から沿海州、中国吉林省南部と遼寧省から、韓国の北部半分を抑えていた。当時の地域大国だった。
 581年に隋が建国され、冊封体制に入るものの高句麗は隋に従う気配はなく、590年に最初の抵抗を示した。
文帝が死ぬと隋は煬帝となって、598年に水陸30万の遠征軍をおくりこんだ。ころが。燎河の洪水で隋軍の進撃が阻まれてしまい、撤退した。また突厥の台頭があって隋は高句麗だけを相手にしている場合ではなかった。

 612年、隋の煬帝は満を持して百万の軍を派遣したが苦戦の末に撤退した。 
 613年 進撃途中に兵站が切れて、又撤退した。
 614年 軍派遣するも隋国内に反乱が起こり退却する。
 617年 煬帝はまたしても軍派遣を準備したが沙汰止みとなる。
 さんざん手こずって、結局、随は高句麗に勝てなかった。

 日本では百済任那府との関与が深く、隋と高句麗の戦線状況を把握していた筈である。
 645年に大和朝廷乙巳の変蘇我氏が滅亡したが、この同じ年に、唐の太宗は十万を高句麗に派遣し、激戦しつつ進撃をしたが、やはり撤退を余儀なくされた。新羅が唐に援軍を求めた。

 647年、648年に 唐は遠征に失敗したが、660年に13万の軍をおくり、大々的に百済を攻撃し、662年に百済は事実上滅んだ。日本に亡命していた王子に5000の兵をつけて、天智天皇百済救済に立つが、白村江海戦で唐海軍に敗れ、撤退した。

 高句麗が滅亡したのは668年である。
そこで新羅が恩ある筈の唐に造反し、失敗して遺臣等は日本に亡命してきた。彼らを武蔵国に集団移住させた。その名残が、高麗神社である。

 高句麗にかわって30年後に渤海国が698年に建国された。渤海は安全保障のため遠交近攻策をとり、じつに727年から919年の間に34回、「朝貢」のため日本に来た。現在ロシア沿海州のポジェト港あたりから出向し、前半は出羽、佐渡島などに漂着した。
後半は能登以西の港に着岸した。ヤマト王朝は最初歓迎したものの朝貢」というからには日本の方が負担が大きく、夥しい土産、物資が必要となり、やがて12年に一度の制度としたうえ、最後は「もう来なくても良い」となった。かれらは情報収集の傍ら朝貢の返礼品が目的で、交易で巨富を得ていたのだ。(渤海使の一覧は拙著『葬られた古代王朝「高志国」と継体天皇』(宝島社新書)にあります)。

 つまり、中国の皮膚感覚としての高句麗の脅威は、現在の北朝鮮核戦力の脅威に連結している。
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