パルデンの会

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寛仁三年(1019)3月28日、対馬・壱岐が突如襲われ、4月7日に女真族海賊は壱岐から博多を襲ったと太宰府に報告された 古代のサムライは女真族襲撃に反撃し、同胞拉致者を奪還した

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 「宮崎正弘の国際情勢解題」 
    令和五年(2023)7月29日(土曜日)弐
        通巻第7841号 
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 北朝鮮拉致被害者を救出するには「刀伊の入寇」が教訓となる
   古代のサムライは女真族襲撃に反撃し、同胞拉致者を奪還した
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 「刀伊(とい)の入寇」は女真族海賊の来襲事件。夥しい人的被害が記録された。幕末の史論は「寛仁異賊之禍」とし、明治には「刀伊の賊」などと表現された。
 寛仁三年(1019)3月28日、対馬壱岐が突如襲われ、4月7日に女真族海賊は壱岐から博多を襲ったと太宰府に報告された。
9日には博多警固所も襲撃を受けた。十八日後に平安京へ「刀伊国ノモノ五十余艘、対馬嶋ニ来着、殺人放火」の凶報が届いた。
 全体の被害は死者が364人、捕虜として拉致された人々は1289人、牛馬被害は380頭。

 拉致が多いのはシナ大陸に奴隷の需要があり、売り飛ばす目的だった。この伝統は北朝鮮の日本人拉致につながり現代ですら北朝鮮ら欺されて中国に脱出する女性が性奴隷に売られるケースが相次ぐ
 太宰府軍は鏑矢で応戦し、とくに大神守宮、財部弘延らが勇敢に戦闘を展開した。平到行、大蔵種材、藤原至孝、平為賢らは海賊団を追撃した。

 排除に活躍した人物は太宰府に権師(次官)として赴任していた藤原隆家と言われる。
 しかしそれを伝える『大鏡』は過度の隆家贔屓である。また隆家の報告を鵜呑みにした『小右記』の藤原実資は隆家と仲が良く、しかも両者は藤原道長に強い反感をもっていた事実がある。これらを割り引く必要がある。なぜなら藤原隆家は撃退後の恩賞によくしていないからだ。

 勲功は散位朝臣平為賢、前大監藤原助高、大蔵光弘、藤原友近、紀重方だった。
 『大鏡』によれば賊の来襲時に太宰府武装の用意が乏しく、しかし「隆家は才能、知謀に優れていた」ので、近隣から兵をあつめた
 「家門が高く、その威光で重大事変を鎮定したのだから勲功を賞して大納言となるべきだが何のご沙汰もなかった」とした。
 隆家には随兵の警備団があったので、戦闘に参加し軍功を挙げたのは事実だ。隆家の随兵は当時の瀬戸内海に海賊が横行していたため、赴任に際して武装警戒が必要とされ一緒に太宰府へやってきた強者たちだった。

 制度的には応戦指導のトップにあるのが藤原隆家だった。彼は「追撃は新羅の境に入るな」と指示した。女真海賊は帰路に松浦にも上陸したが地元豪族らが撃退した。 
 九月になって高麗が救助した拉致被害者270人を日本に送り届けた。高麗は頻発する女真族の来襲を警戒し待ち構えていたのだ。
 人道援助ではなくあくまでも外交的配慮で、高麗は日本に恩を売りよしみを深くしておく必要があった。拉致された者が1289名で、生還が270名ということは1019名が海の藻屑と消えたが、女真族の奴隷として売り飛ばされたと推定される。

 『大鏡』は隆家が高麗使節をねぎらい黄金三百両を与えたと伝える
 このとき平安京では藤原道長三条天皇藤原実資も、全員が眼疾を患っていた。
 同年四月に実資は眼病で参内をとりやめた日々があった。御所周辺では不審火、強盗、盗賊が横行し小野宮近くでも放火があった。
 当時、三条天皇は失明同然だった。また藤原道長は晩年、殆ど視力を失う日々があって『御堂関白記』に記載があり、症状のひどい時は日記を書いていない。緑内障と考えられる。
 太宰府に自ら赴任を希望した藤原隆家の場合、博多に帰化人の名医がいると聞いて、その治療が目的だった。

 視力が失われるのは加齢が原因なら老眼だが、生まれつきの近視、乱視、遠視がある。
 現代医学は白内障は手術で治せる。
 白内障は目の中のレンズ(水晶体)が白く濁る病気で、原因は加齢によるものが殆どだ。水晶体の成分であるたんぱく質活性酸素よって変化し白く濁るのだ。
 緑内障は、視角で得られる情報を脳に伝達する視神経に障害が起こり、視野狭窄となる。これは視神経が圧迫・障害されることで発症する。目の硬さ(目の中の圧力)が、その人の視神経が耐えられるレベルを超えて上がることが原因と言われる。

 これらは現代医学で手術で治ったという人が多い。しかし十世紀、十一世紀に外科手術がある筈はないから、完治は難しい。
 かくて隆家の戦功というのは怪しいのである。

                      (『月刊日本』七月号から再録)
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