パルデンの会

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自民党総裁選は岸田、河野、高市の三氏に絞られた。この政争は既視感がある > 宮崎先生の日本歴史観・・・・・面白い

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宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和三年(2021)9月8日(水曜日)
通巻第7043号  
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 闘い止まず、日も暮れず、昨日の敵は今日の友
  自民党総裁選は岸田、河野、高市の三氏に絞られた。この政争は既視感がある
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 自民党の総裁選、候補者が出揃い、はやくも予想記事が花盛り、保守期待の高市議員はメディアのよって「泡沫」扱いを受けている。
 この一連の出来事を目撃しつつ筆者は、遠く奈良時代の政争を連想してしまった。

 「俺によく似ている男が居る」と異例の出世街道を驀進していた藤仲麻呂を遠くから観察している坊主がいた。
 風貌とか学識、出自のことではない。世の見方、考え方。その戦術的判断力と方向性がまるでそっくりなのだ。燃えるような個人的野心が共通した。坊主の直感力は当たった。共通するふたりは突こつたる山頂を極め、そして突如、墜落した。

 幼くして法相宗門に入り、義淵を師と仰ぎ、サンスクリット語を学び、唯識の修業を重ねていた僧侶の名は弓削道鏡

 法相宗興福寺薬師寺でその名を知られる。道鏡仲麻呂より六つ上だが、仏教界の序列は厳しく、世間に名を知られるようになるには学識を知られ、医術を極めて医薬治療でも名を売り、著名な寺の住職に就くことが当面の目標だった。

道鏡には志貴皇子の御落胤という噂があった。道鏡はその皇族に連なる名流という評価を世渡りに政治的活用した。寺での扱いもほかの修行増とは異なり、それなりに禅師としての頭角を現し、興福寺別当に上り詰め、皇居に侍るほどのなったのは六十近くなってからだ。
 弓削の氏は物部系の弓削部から来ており、物部守屋は大連(おおむらじ)に出世した。

 ▼藤原仲麻呂弓削道鏡

 藤原仲麻呂は隆盛を極めた藤原不比等の孫である。
 中大兄皇子と共謀して乙巳の変の成功で蘇我氏を滅ぼし、天智天皇政権の最大の功労者となった中臣鎌足は今際に天智天皇から藤原の姓を頂戴した。藤原氏の栄華が始まった。その藤原鎌足の子が藤原不比等、その子が仲麻呂の父・武智麻呂。かくして藤原家が宮廷に権勢を極めはじめた。

不比等持統天皇の信任篤く、右大臣となって、天武天皇の時代からブレーンとして活躍し、諸制度の改革に辣腕をふるった。
不比等の孫にあたる藤原仲麻呂にとって、藤原家の秩序から言えば、宗家の兄たちが上に綺羅星のように重なり合って中央政界への出番はなく、出世はやや遅れた。

父の藤原武智麻呂は大納言で、折からの長屋王の乱を鎮圧した立役者であり、興福寺建立の推進者でもある。母は阿部氏。だが藤原仲麻呂は庶子だったため嫡男の兄が何事にも優先した。
 ところが仲麻呂が三十一歳のとき、父親と宗家の四兄弟(広庭、房前、宇合、麻呂)が疫病(天然痘)に罹患して相次いで世を去った。当時、人口の三割が死んだという。
 仲麻呂の人生、突如サイコロの目が変わった。出世の道が兄たちの不幸によって拓けたのだ。

 それまでの仲麻呂は算術が得意で、陰陽術、天文学を理解していたと言われ、学者の淡海三船は「性識総敏」と評したという。御船も仲麻呂同様にシナの文化に染まり、それまでの歴代天皇の諱を唐風に改めた。カムヤマトイワレビコ神武天皇となりハツクニシラスミマキイリエイリビコは崇神天皇となった。

藤原仲麻呂は叔母でもある光明皇后に気に入られてからというもの、トントン拍子に出世街道を歩いた。というより走った。
光明皇后が譲位されて、孝謙天皇を即位させたのち、上皇となった上皇天皇の連絡通路、そのまつりごとの中枢を握る地位を確保するや、天皇上皇、そして皇子を操り、政治を壟断した。仲麻呂の目標は唐の官位や律令、納税、戸籍など諸制度を積極的に取り入れ、日本を唐風に染め上げることにあった。

官位や行政機関の部署の名称をすべて唐風に変えたため、国風を重んじる守旧派、保守派からは目の仇にされた。大国、文化先進国というシナへの誤解は日本の針路を大きく左右した。(いますよね。自民党の中にも、野党にも、このタイプが。。。)

 ▼仲麻呂保守主義者ではなかった

 太政大臣は「大師」、左右両大臣をそれぞれ「大博」「大保」、大納言を「御史大夫」にという具合で、日本独自の文化、伝統への斟酌はなかった。この点で藤原中麻呂は保守思想の考え方がなかった

 藤原仲麻呂光明皇后を強く支え、また絶大なる信頼を獲得した。聖武天皇の皇后だった光明皇后は篤く仏教を信仰し、寺々の保護者でもあり、奈良の大仏開眼にひたむきな情熱を傾ける。

大仏披露式典は当時の万博、752年の大イベントだった。仏教はすでに奈良朝にあっては猛威をふるい、伝統的神道は影が薄くなった。物部氏の中央舞台からの退場が大きく響いた。

 さて藤原仲麻呂の前に立ちはだかったのは保守主義の持ち主、橘諸兄とその子、橘奈良麻呂である。橘諸兄光明皇后の異母弟、妻は藤原不比等の娘、葛城王と言われた。
 橘諸兄元正天皇の信頼が篤く大仏造営には反対していた。つまり保守思想の持ち主だった。讒言されて失脚した。 

 息子の橘奈良麻呂は757年、仲麻呂の仕掛けた謀略に嵌められ、「橘の乱」を引き起こし、それを予想していたかのように藤原仲麻呂の反撃と鎮圧は迅速かつ過激だった。上皇がみまかると、クーデター計画があったとして橘奈良麻呂をはじめ、関与した443人を厳格に処刑し、ライバルの芽をしっかりと摘んだ。

 「橘の乱」など、実際には反仲麻呂派が宴会などで不満を述べあい、軽い気持で軍を動かすなどと言い合った。兵の動員計画はずさんを極め、詰めが甘かった。その談合を密告され、関係者が拷問され、大がかりな反乱計画がでっち上げられた。橘奈良麻呂の変はあっさりと鎮圧された。ここで奈良時代に保守の思想は敗れたのである。 

 そのうえ実力者の左大臣仲麻呂の兄である藤原豊成が左遷される
替わって仲麻呂が右大臣に出世し、翌年、てなづけてきた淳仁天皇が即位すると、まさに仲麻呂の天下となった。
 養老律令など諸制度をすっかり唐風に改めるという暴挙、しかも太政大臣としてほぼ独裁政治に君臨し、淳仁天皇から惠美押勝の名を賜った。この名前の意味は「ひろく惠を施す美徳」、秩序紊乱者を「押しまくって勝った」ことに由来する。
 『続日本紀』はこう解説した。
 「帆く恵むの美、これより美なるはなし。今より以後、宜しく姓の仲に惠美の二字を加ふべし。暴を禁じ強に勝ち、かを止め乱を静む。故に名づけて押勝と曰ふ」

 ▼しかし、その仲麻呂は国家防衛には積極的だった

 仲麻呂政治で特筆しておくことがある。
 それは新羅への大軍の出兵を三年がかりで準備し、実際に三万近い部隊編成も決め、兵隊装備も揃えていた。四百艘近い船団は筑紫に待機していたのである。

 その一世紀前、白村江の敗戦を契機に大和朝廷がなしてきた防衛努力はたいへんなものだった。しかし情報不足著しく敵方の事情を知らなかった。唐では安禄山大規模な反乱が全土に波及し、凄惨な内乱状態に陥いった事情も把握していない(三年後にやっと安禄山の乱で全土が無政府状態に近いという情報がもたらされた)。

 報復を懼れて日本が逆に攻めてくると思いこんでいたのが新羅だった。日本への軍派遣どころではなかったのである。
 だから新羅は、這いつくばるように日本に使節団を何回も派遣し、多くの貢ぎ物を献じて、日本のご機嫌うかがいにきたのである。

 この体質はいまも変わらない。かの半島の政治家たちは、シナが強いときは日本に居丈高となり、シナが弱いときは日本に揉み手して近付く。

 藤原仲麻呂の時代、唐はまったく逆に自分の置かれた劣勢を認識しており、百済の遺臣団を率いて日本が復讐戦で来襲することを懼れ百済の亡命希望者らを引き連れて日本に挨拶に来る。

 日本は日本で、これは唐の打った芝居、何かの悪巧みと疑い、筑紫長門に山城を造営し武器を貯蔵した。

 天智称制四年にも唐は劉徳高を団長に二百五十四名の正式使節を派遣してきた。
 その一方で唐は新羅に命じて百済朝の形式的な恢復をさせていた。さらにややこしいのは新興の高句麗である。実際に唐も新羅も高句麗の躍進を軍事的脅威と認識しており、この高句麗が日本と組んで、矛先を新羅と唐に向けてきたらたいへんなことになるというのが当時の北東アジアの軍事情勢だった。

 事実、高句麗は二度、日本に使節団を派遣してきた。日本は助力を約束しなかった。直後に天智天皇は大津へ遷都した。称制を終えて天智天皇が近江での即位の年に新羅使節団が博多へ入港した。このとき、高句麗は滅亡に危機に瀕していた。
 新羅も唐も高句麗百済残党もお互いに相互不信、複雑な過程を経るが、彼らに共通していたのは日本を敵にまわさず朝貢するなり友好を装っての使節団を送り続けることだったのだ。

 ところが日本はそういう国際情勢の舞台裏をしっかりと把握していないため大量の土産を持たせて送り返したのである。この情報力、諜報ネットワークに脆弱さはこんにちにも引き継がれている。

 ▼白村江敗戦から百年も、日本は心理的衝撃から抜け出せなかった

 大東亜戦争の敗れてからの日本人の精神的荒廃は、76年続いている。
 白村江の敗戦で過剰な自信喪失に陥っていた日本は唐に対して金品をふんだんに進呈してひたすら和を乞う。今日の親中派の屈辱的外交とそっくりな愚策が繰り返された。
 この屈辱的姿勢が百年続いたのである。

 そうこうするうちに新羅使節団の態度が傲慢となり、あまつさえ使節と云いながらも位の低い代表者を送り込んできたので、立腹し、日本と新羅の蜜月時代は終わりを告げた。理由は簡単だった。西でチベットウイグルが唐に楯突き、長安は陥落の危機にあって朝鮮半島のことなど唐は構っておられなくなったのである。

 こうした状況の激変を伏せて、唐突に新羅は日本に居丈高となるのだが、また擦り寄ってくる。というのも沿海州渤海高句麗の後継)が興隆しはじめ、唐は新羅との仲直りを急ぐ。国際情勢は複雑怪奇、しかも渤海からも日本へ使者が訪れた。奈良の最高実力者は藤原仲麻呂の祖父、不比等だった時代である。 

 天平七年(735)、新羅は日本に対し国名を変更したと宣言した朝貢していたのなら日本の許可が必要だったろう)、その非礼に怒った日本は使節を追い返した。

 そうこうするうちに新興の渤海国の影響力が強まる一方、唐は戦いの連続に疲労し、国力に疲弊の色を濃くする。そこでまた忘れた頃に、新羅はご機嫌取りに使節を派遣してきた。しかし使節の官位が低いので筑紫で追い返す。騙し合いが続いていたが、安禄山の乱唐に国力衰退を見て取った日本は新羅への出兵を決意する。

 天平宝宇二年(758)、仲麻呂が右大臣の地位にあって、太宰府に500艘の船の建造を命じ、また各地に鎧甲、弓箭などの生産を急がせる。本格的な戦争準備で、仲麻呂は大規模な新羅討伐軍を決断していた。造船に三年、防備、武装船団の用意はほぼ整備されつつあった。

 この新羅遠征は突然沙汰止みとなる。主因は疫病の大流行と農村の疲弊、飢餓が各地に拡がり、災害が連続していた。  
 藤原仲麻呂の絶頂はそれ以後も三年ほど続いた。

 だが光明皇后がみまかり、仲麻呂を毛嫌いするようになった孝謙皇が即位して、淳仁天皇を煙たくなり、険悪な関係となった。仲麻呂の世は唐突に終わりを告げる。
 763年、興福寺別当仲麻呂派だった慈訓が解任され、後任は誰あろう、弓削道鏡だった。

 同年に鑑真が死去した。道鏡が閨で何を囁いたかは定かではないが藤原仲麻呂の討伐が準備されていた。
まさに「天平聖武朝前後は、藤原家と坊主の陰謀の歴史である」亀井勝一郎『美貌の皇后』)。

 ▼吉備真備弓削道鏡、そして藤原仲麻呂の乱

 ここで仲麻呂の乱(惠美押勝の乱)の鎮圧に登場するのが吉備真備である。
 真備は学者にして遣唐使として派遣されること二回。長安にあっては阿部仲麻呂とならぶほどの有名人だった。阿部仲麻呂は帰国船の難破により、唐土で没することになるが、吉備真備天文学軍事学をマスターし、多くの仏典、書籍を持ち帰って称賛される。この名声を妬んだ仲麻呂吉備真備を冷遇し、太宰府長官を命じたのだ。

 764年、その吉備真備太宰府から帰任し要職に就いた。
 藤原仲麻呂は劣勢に立たされたことを自覚する。すでにその二年前から仲麻呂暗殺計画が練られており、藤原良継の変もあったが、首謀者らは筑紫、肥前あたりに左遷されただけの謹慎処分だった。

仲麻呂の権勢が揺らいだのは、女婿の藤原御楯が死去し、軍事力が明確に削がれたこと、後任の授刀衛督にライバル藤原北家から、正志(四等官)には道鏡の弟が就任し、つまり王城護衛軍は仲麻呂の統制から離れた。

 孝謙天皇に絶大な信頼を寄せられ、「法王」の位に就いていたのは道鏡だった。
 かつて仲麻呂が仕掛けたように謀をなし、仲麻呂の失脚を謀る計画孝謙天皇のもと、軍略は吉備真備臨機応変に立案し、動員計画をすすめ即応態勢を敷いた。
 仲麻呂は危なきをしって近江から越前へ逃亡し越前国府に赴任している息子のもとで態勢の立て直しを図ろうとした。

 吉備真備は朝廷軍を先回りさせ、近江に入れさせず、湖西方面へと仲麻呂軍を追いやり、要衝をすべて抑えた。これが藤原仲麻呂の乱、もしくは惠美押勝の乱である。
 764年、仲麻呂は琵琶湖で捕縛され、一族郎党ことごとくは斬となって仲麻呂の時代は非業の終焉を遂げる。

 ▼「我が世の春」は長くは続かないものです

 我が世の春が来たのは道鏡だった。
 弓削道鏡の絶頂は五年続いた。仲麻呂が心血注いだ新羅討伐軍の計画は水泡に帰し、国家安全保障は政策の重要性を稀釈化させた。
 道鏡はなにしろ軍事には疎い唯識論の禅僧である。しかし「法王」という高みに登って権力に酔い、客観情勢が判断できなくなると墜落は一気にくる。

 道鏡の落日は、あろうことか天皇になろうと宇佐神宮のお告げがあったことにし、皇位簒奪を狙った。孝謙天皇が念のため宇佐神宮行って神意を確かめよと派遣された和気清麻呂の勇気によって道鏡の野望は水泡に帰した。怒った天皇道鏡和気清麻呂に穢麻呂(きたなまろ)と改名を強要し大隅へ左遷した。

 孝謙天皇薨去直後に道鏡は下野に左遷され、淋しく死んだ。72歳だった。唯識における思想家として名を残すことはなかった。後世の史家は道鏡平将門足利尊氏と並べて「三悪人」とした。

 和気清麻呂桓武天皇の下に復帰して平安京への遷都でも奔走し、栄誉に包まれた。
 吉備真備は長寿を全うし、享年81歳。右大臣から太政官と、後の菅原道真と並ぶ学者出身の政治家となった。最大の功績は養老律令の改定である。唐風を和風の法律に修正し、日本独自の法律へ塗り替えた。ようやくにして保守の復権が成った。

 かくして藤原仲麻呂のハイカラ趣味と道鏡の仏僧とは思えない不敬という二つの政治事件を踏まえて、日本の奈良朝は謀略と暗殺の坊主の暗躍という暗い側面を越えて、多くの政治家は保守の立場を貫徹した。
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