日本人の足跡
能海寛、経典入手も旅を続行 心を駆り立てた使命感
100年前のチベット巡礼③
※2001年2月27日 産経新聞掲載。敬称略
死をも厭わずに西へ
1899年10月時点の2人の位置を確認しよう。
能海寛はダライ・ラマの直轄地、中国・四川省のパタン。河口慧海はカトマンズから白馬で約3カ月のヒマラヤ山中・ツァーラン村である。2人とも、ラサを視野にとらえる直前での足踏みであった。
さて、能海。パタンの関所で官吏に「引き返せ」と言われ、国境の街ダルツェンドに21日間かけて戻った。そして7カ月後、再び、青海省の省都西寧(シーニン)に向かった。同行の寺本婉雅はこれより前、重慶経由で帰国の途についていた。
100年前のチベット巡礼④
※2001年2月28日 産経朝刊掲載。敬称略
宿屋で金品盗まれ
能海寛は「今度こそ」と、1900年8月24日、西寧(シーニン)を立ち翌日には50キロ先のタンカールに着いた。
青蔵ルートには標高6000メートルの峰がそびえ、2000キロにわたる世界最大の高原も横たわっている。能海は、その仏教伝来の道でもあったであろう、難ルートを遡ってラサに入ろうというのである。
※2001年3月2日 産経新聞掲載。敬称略
「生きた薬師様」
屋台が、ずらりと並んでいた。チベット最大の繁華街バルコル。中国人らは「八角街」との文字をあてる。
バター灯、マニ車、数珠などの仏具、衣類やアクセサリー…。バルコルは、ラサの中心にあるジョカン寺の一周約2キロをぐるりと回る環状巡礼路でもあった。
巡礼者はマニ車を回しながら左回りに何周も歩く。