パルデンの会

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日本とチベットの近代のつながりを作った 堺市出身の僧侶・河口慧海

慧海脱出 緊迫の関所

2016年10月22日 読売新聞
 チベット日記公開 26日から堺
 ◇決断や安堵 生々しく
 堺市出身の僧侶・河口 慧海 ( えかい ) (1866~1945年)が明治時代、日本人として初めて足を踏み入れた鎖国状態のチベットから脱出する際につけていた日記が、26日から同市博物館(堺区)で初公開される。「薬を買う急用がある」とうそをついて関所を通過するなど、緊迫した道中を慧海自身の筆からたどることができる。(浦西啓介)
  黄檗 ( おうばく ) 宗の僧侶だった慧海は1897年、教典を求めてチベットへと出発。1900年に潜入した。「中国人の僧」と身分を偽り、ダライ・ラマ13世にも面会したが、怪しまれていることを察知して脱出。帰国後は仏教やチベット文化の研究に尽力した。
 東京都に住むめい、宮田恵美さん(90)宅で見つかった日記は、計17ページ。チベットのラサ滞在中の02年1月1日から、インドのダージリン到着後の同8月17日まで記録されており、市は慧海の生誕150年を記念する「慧海と堺展」での公開を決めた。
 日記では、勉学に励む様子などを記したページに続いて、5月23日には、多くの人に迷惑をかけることから、「 印度 ( インド ) ニ出国ノ訳ニ及ビタレバ」(インドに出国することになった)と脱出を決断した記述が現れる。
 入国時は人目につかないよう、公道を避けた慧海だったが、出国時は一般的なルートを選んだ。6月8日の日記にはその心境を「正々堂々ト旅行スルモノヲ 何人 ( なんびと ) カアヤシマン」(正々堂々と旅行する者を誰も怪しまない)と記している。
 関所は五つ。同11日に1か所目にさしかかり、同14日には5か所目を通過している。その間、慧海は「ラサから来た医者」と言い張り、「薬を買う急用がある。急いで通行券を与えてほしい」と偽ったこともあった。
 「事成ラバ成ラン 成ラザレバ我前世ノ 羯磨 ( かつま ) ノ結果ナリ」(同14日)(うまくいけば成功するし、成功しなければ私の前世の行いの結果だ)と書き、肝が据わったように見えるが、全ての関所を突破した後は、「無事ニ通過セシハ 偏 ( ひと ) へニ仏力二依ル事ヲ思ヒテ仏陀ニ謝シ奉リ」(日付不明)(無事に通過できたのは仏様のおかげと思い、ブッダに感謝した)と 安堵 ( あんど ) の思いを吐露している。
 文化財課の中村晶子学芸員は「本当にチベットに行ったと示すため、詳細に日記をつけていたと考えられる。内容からは、脱出に自信を見せていたかと思えば、成功を仏に感謝するなど、慧海の生々しい心の内がうかがえる」と話す。
 ◇
 「慧海と堺展」は12月4日まで。市博物館では、慧海がチベット語を学ぶために使用した「蔵英辞典」なども展示する。市立町家歴史館清学院(堺区)、同山口家住宅(同)でも関連資料が公開される。問い合わせは同課(072・228・7198)へ。
2016年10月22日Copyright © The Yomiuri Shimbun