パルデンの会

チベット独立と支那共産党に物言う人々の声です 転載はご自由に  HPは http://palden.org

中国による「チベット平和解放60 周年」式典 その1

国際チベットネットワーク より転載

中国軍がチベットに侵攻して以来、60年以上経過しました。2011年5月、中国は事実を醜悪に彎曲した「チベット平和解放60周年」と名づけられた式典を予定しています。チベット人とその支援者にとって、この60年は‘17箇条協定’への調印を皮切り に中国がチベットを強引に武力制圧し実行支配を始めた60年でした。‘17箇条協定’とは1951年5月23日に中国政府とチベット政府との間に強制的に交わされた協定で、のち1959年チベット人の蜂起とダライ・ラマの亡命により崩壊しました。(a). 60年の間、中国はチベットを支配してきました;60年もの時間をかけて、チベット人の民意を獲得するために、亡命中のダライ・ラマの影響力を弱め、チベットを中国本土に同化させようとしてきました。にもかかわらずチベット人は一貫して、中国の支配に対し、抗議行動や平和的な直接行動によって拒否し続け、なかには自由になるために亡命する道を選んでいる者もいます。ちょうど10年前、チベットの公式報道の中の声明チベット共産党機関紙は以下の文章を載せています。「50年間の輝ける歴史のなかで、全ての民族グループの党員と民衆は中国共産党の指導により、祖国の大家族の一員として、社会主義の道を邁進することによってのみ、チベットの輝ける今日と幸せな明日があることを確信する。よって、この地区のすべての民族グループは、この輝ける機会 において共産党社会主義、解放、そして人民の団結への感謝を、高原全土で声高らかに祝うものなり。」(b)この一方的な声明の発表された数年後に、これまで以上に広範囲な、毅然とした抗議行動がチベット高原全域で起こりました。チベット人達は再び、中国の支配に対する拒否を明確に示し立ち上がったのです。 2008年に起きた平和的抗議行動 (c)の特色として、若者の参加が多く見られたことがあげられます。 彼等はダライ・ラマの写真を手に、彼の帰還を訴えました。中国政府の抗議者に対する非道な弾圧にも関わらず様々な抵抗運動は今日も続いています。 チベット人の民族としての誇りは以前より強くなっており、チベット人歌手や作家が中心となり、チベット文化再興のために、カム、アムド、ウ・ツァンの、チベット3地域の団結を呼びかけています。歌詞は一様にダライ・ラマの帰還を訴え、亡命チベット人と内地のチベット人の連帯を謳います。 おのずから、チベット民族全体の団結は以前にも増して強くなっていると言えます。60年間、被占領下にある人々は、あらゆる苦しみに屈することなく、民族としての決意を貫いています。この「17箇条の相違」と題された報告書では、国際チベットネットワークと中国のプロパガンダと の間に存在する意見の相違を17箇条にまとめました。 国際チベットネットワークは世界各国から180団体のメンバーを持つ連携ネットワークであり、 チベットの人々の権利を取り戻すために活動しています。 注:

(a) Tsering Shakya, ‘Dragon in the Land of Snows’, 1999.
(b) Lhasa Xizang Ribao, 21 May 2001.
(c) 230以上の平和的な抗議行動を、中国はまとめて“暴動”と間違った総称で呼んでいますが、
実際には極めて少数が暴行を働いたのみでした。


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この資料(全6ページ)は以下のリンクからダウンロードして資料としてお使いいただけます。

「17箇条の相違」
1.‘平和解放’ではなく‘軍事支配’
中国:「中国の近代史のなかでチベットの平和解放は重要な出来事であり、チベットの発展にとっても
画期的な転機となった」胡 錦濤国家主席 (1a).
事実:中国によるチベットの平和解放とは、1949年に始まった武力による侵略です。
1950年10月7日、人民解放軍総勢4万 が ディチュ河 (長江)を越え チベット中心部に侵攻しました。
勢力で完全に上回った中国軍に対しチベット軍は降伏し(1b)、1911年以来、独立国であったチベットは、
被占領国家となりました。
(1d).中国による弾圧が徐々に勢いを高めるとともに、それに対するチベットの抵抗も強くなっていきました。
1959年3月ラサに大規模な抗議行動が起こり、人民解放軍が砲撃を開始し、ダライ・ラマチベットからの
脱出を余儀なくされました。
中国側の発表によれば8万7千人のチベット人がこの 蜂起で死亡または逮捕されました。
(1e).1989年,戒厳令が布かれ(1989年には一時戒厳令が布かれました)
現在もチベット  高原一帯には、推定で15万から50万の人民解放軍とともに、大規模な
中国軍が駐留しています。
 
2.‘少数民族’ではなく‘国家’
中国:「中国国家大家族の一員として、チベットの人々は長い歴史のなかで、
絶えず近隣の他民族との接触と交流をはかり、彼等独自の素晴らしい文化を創りあげてきた。」
劉延東( Liu Yandong)・中国共産党中央統一戦線部部長(当時)(2a).
事実:中国はチベット人運命共同体として繋がっている、56民族の中の一民族である(2b) と主張していますが、
(2c).  このねつ造された主張は中国の深い歴史的な民族優越主義に由来しており、
この思想はチベットと他近隣地帯(2d)の植民地化政策の基礎となりました。
チベット政府は中国共産党が結成される30年も前に、すでに主権国家として認知されるべき項目を
満たしており、チベットが一国家と定義されるべきなのは明白です。
中国の侵攻前には、両国の接触、政治的関係は無かったに等しく、中国はチベットを正式に
支配していませんでした。(2e).中国の指導者たちは、チベット人を“野蛮で未開”であるとし、
中国人として“同化するか排除されるべき”であるとしました。(2f).
誇り高く、独立心の高いチベット人は“同化”する気配を見せなかったので、中国はチベット人をさらに
根絶する政策へと進んでいきます。
 
3. 同意に基づいた統治ではなく武力による支配
中国:「祖国の団結を守り抜くために 万里の長城を築くごとく徹底的に分裂主義と戦い、
チベットの基本的な安定を長期的安定へと導かなければならない。」 胡錦濤(3a).
事実:60年たった今も、中国はチベットの統治を軍と準軍事的組織に頼っています。
チベットの記念日などの敏感な時期ごとに武装警備は強化されています。2011年3月のンガバの
例を上げるまでもなく、2008年以来、チベットでは大規模な抗議行動が後を断ちません。
現在、チベットでは少なくとも824人の政治囚が服役しています。 (3b).
中国では保安予算が国防予算を上回っています。 (3c).2008年の抗議行動の際に拘束された
推定何千人と、過剰警備による死亡者に対して、中国政府は責任を問われていません。(3d)
例:2006年に中国軍、国境警備隊の発砲による死亡した17歳の尼僧、ケルサン・ナムツォ
4.繁栄ではなく貧困
中国:「チベット地区のGDPは2010年度に500.8億元(約600.8億円)に達し、年間成長率が12.4%.
農民と牧民の納税後の年間収入が2005年度の2倍にあたる4,319元となった」 ペマ・ティンレー
(Padma Trinley)チベット自治区人民政府主席 (4a).
事実:中国がチベット自治区に2001年以降に投資した総額は3100億元という巨額にも関わらず (4b)、
投資は主に中国からの移民の為に使われ、チベット人に対して経済的疎外状態を作りだしています。
経済学者で経済開発の専門家であるAndrew Fischerは中国政府の発表した数値の統計を分析した結果、
チベットの経済成長を“民族除外的”である(4c)と呼んでいます。
漢民族によるチベット高原への移住の規模とその速度、その結果引き起こされる、チベット人に対する
ビジネスや雇用の不公平は、2008年にラサで起きた抗議行動の要因の一つです。
 
5. ダライ・ラマ:狼ではなく平和のシンボル
中国:「我々はダライ一派との、血と火を見る勢いの生と死をかけた戦いの最中である」
張慶黎(Zhang Qingli)中国共産党チベット自治区書記
さらにジャンパ・プンツォク(Jampa Phuntsog)チベット自治区人民政府主席(当時)は中国日報 でこう述べています。
「大多数のチベット人ダライ・ラマの帰還を望んでいない。」(5a)
事実:ダライ・ラマは紛れもなくチベット人の、絶対的な精神的かつ政治的指導者です。
北京政府はダライ・ラマを最大の敵と見なし“袈裟を着た狼”や“人間の顔をした怪物”などの表現を用いて
冒涜しています。
2008年に起きた抗議行動では、 ダライ・ラマの帰還を望む声が世代を超えたチベット人から起こりました。
中国はダライ・ラマとその支援者を‘分裂主義者’と呼び、抗議行動の首謀者であるとして非難しています。
(5c).またダライ・ラマの写真を持つことは禁止されており(5d)、チベット人政治囚はダライ・ラマの写真を踏みつけたり、
破棄することを強要された自身の苦しい経験を証言しています。
亡命を余儀なくされて50年たった今でも、中国政府はチベット人ダライ・ラマの強い絆を壊すことはできません。
 
続くーーー
 

貼り付け元  <http://freetibet.holy.jp/2011/05/1239/>