パルデンの会

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松本龍 震災復興大臣 とは

松本龍 震災復興大臣 とは
(本当に 政治不在もはなはだしいようである
しかし 男気は非常に強い方のようだからそこに
期待するのもいいのかも???)


.wikipedia.org/より
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来歴

生い立ち

福岡県福岡市出身。部落解放の父と呼ばれた松本治一郎の養孫。実家は養祖父の代からのゼネコン松本組。自身も顧問を務める。

政界にて

1990年第39回衆議院議員総選挙日本社会党から出馬して初当選し、以後7回連続当選。1996年社民党を離党して旧民主党結党に参加。部落解放同盟副委員長であり、人権擁護法案の推進派である。日韓議員連盟常任幹事。国鉄労働組合のJR採用差別闘争に連帯している[1]
2000年10月17日、実家の松本組を継いだ実弟松本優三の自宅玄関ドアに約5発の銃弾を撃ち込まれる事件が発生した[2]
2008年度の国会議員の所得公開で国会議員でトップの8億4366万円の所得を得ていたことが伝えられている[3]

菅政権

2010年9月17日菅第1次改造内閣において環境大臣内閣府特命担当大臣防災担当)に就任し、初入閣。内閣府特命担当大臣(防災担当)を環境大臣と兼任するのは異例。
同年10月に行われた第10回生物多様性条約締約国会議(COP10)の議長を務め、議長案採択にこぎつけた。2010年の閣僚資産公開では保有資産7億6073万円、菅内閣の閣僚の中でも突出してトップであると報じられ、2位の鹿野道彦農林水産大臣の5968万円を大きく引き離した[4]
翌2011年発足の菅第2次改造内閣でも留任。2011年3月11日に発生した東日本大震災以降は、内閣府特命担当大臣(防災担当)として対応にあたる。2011年6月27日国務大臣としての担当事項に「東日本大震災からの復興のための施策を政府一体となって推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」[5]が加わった。それにともない、環境大臣を退任した[5]。なお、内閣府特命担当大臣(防災担当)は引き続き兼務する。

政策

環境

生物多様性条約締約国会議
2010年愛知県名古屋市で開催された第10回生物多様性条約締約国会議では、議長に就任した。しかし、先進国発展途上国の主張が激しく対立し、最終日まで合意に至らない状況となった[6]。この事態を受け、松本は「最後の一秒までやります」[6]と述べ、最終日に各国に対して議長案を提示した。しかし、最終日まで対立が解けない状況での議長案の採決には懐疑的な見方も強く[6]環境省内部でも大臣に恥をかかせて終わるのではないかと懸念の声が挙がるなか、議長案の作成が急遽進められた[7]
最終的に各国は松本の議長案を微修正のうえで受け入れることで合意し、「名古屋議定書」として採択された[8]。また、2020年までの世界目標も修正案が纏まり、議長提案により「愛知ターゲット」と呼称されることが決まった[9]。その他、資金動員戦略関連の文書も全て採択された[9]。松本が「皆さんの英知、努力、汗と涙が実った結果」[9]と述べ、涙ぐみながら謝辞を述べると拍手が沸き起こった[7]。松本の閉幕宣言後、会議の出席者だけでなく傍聴者も次々に立ち上がり、1分にわたりスタンディングオベーションが続くなど[10]、国際会議としては異例の幕切れとなった。
のちに、松本は「あの時は泣いてしまった」[7]と述べたうえで「一生忘れることができない」[7]と述懐している。

防災・災害復興

東日本大震災復興構想会議
五百旗頭真議長として構成される「東日本大震災復興構想会議」について、審議が東京都内で行われている点を指摘し「これから東北でやるというぐらいの気持ちがなきゃダメ。東北でやるべきだ」[11]と主張するなど、被災地で開催することで実態に即した議論がなされるよう促した。
消防団の充実
消防団活動については「地域のかなめ」[12]と位置付けており、消防団の充実や活性化を主張している。ニッポン放送の『おはよう! ニッポン全国消防団』には消防団員の法被を着用して自ら出演し、消防団の重要性を説いた[13]

発言

「一日も早く退陣した方がよい」発言

2011年6月3日内閣総理大臣菅直人が退陣する意向を表明するとともに、衆議院本会議で内閣不信任決議案が否決された。その翌日、焦点に浮上した菅の退陣時期について、松本は「復旧復興を急がないといけないということから言えば、(菅内閣は)一日も早く退陣した方がよいとの文脈になると思う」[14]と発言した。さらに「6月いっぱいというのが私の中にはある。復興基本法案や二次補正予算案の編成あたりがめどだ」[14]と述べ、現職閣僚でありながら菅に早期退陣を迫る異例の展開となった。
しかし、菅は自らの退陣時期について明言しない状態が続いている。2011年6月27日、菅は退陣する条件について「2011年度第2次補正予算案、再生可能エネルギー促進法案、(赤字国債発行に必要な)特例公債法案の成立が一つのめど」[15]と初めて明言したものの、退陣する時期については言及しないままとなっている。
東北太平洋沖地震」、「東日本大震災」、および「菅おろし」も参照

「民主も自民も公明も嫌いだ」発言

2011年6月28日、復興相就任会見の席上で「3月11日以来、私は民主も自民も公明も嫌いだ」と発言[16]。このことが自民党公明党から「復旧・復興の中心に立つべき人が与野党の協力が必要ないと考えているならば任に当たる資格無しだ」(逢沢一郎)、「信じられない言葉だ。松本氏はどうかしてしまったのか」(漆原良夫)との猛反発を呼び[17]7月1日、謝罪に追い込まれた[18]

復興相として被災地入りした際の発言

2011年7月3日、復興担当相就任後に初めて被災地入りし、岩手県を訪問した際に、達増拓也知事との会談で「おれ、九州の人間だから、東北の何市がどこの県とか、わからんのよ」や「知恵を出したところは助けるけれど、知恵を出さないところは助けない」[19]。などと発言。
さらに午後から訪問した宮城県庁では、数分遅れで応接室に入ってきた村井嘉浩知事に対して「お客さんが来る時は、自分が入ってから呼べ。しっかりやれよ」、「長幼の序がわかっている自衛隊ならそんなことやるぞ」と発言した。また漁業の集約や民間への開放など、村井知事が打ち出していた独自の計画案に対しては「県でコンセンサスをとれよ。そうしないと、我々は何もしないぞ」と発言。さらに会談の最後には「今の最後の言葉はオフレコです。みなさん、いいですか、『絶対書いたらその社はもう終わり』だから」などと発言し、[20]、周りにいた職員や取材陣が緊張した表情で沈黙する様子と共に東北放送の「TBCニュース」[21]、TBS News-i[22]で放送された。
これら一連の発言は被災地の市区町村からも「あの態度はない」と批判の声があがっている[