株主代表訴訟が行われるのを期待する
ウォール・ストリート・ジャーナル7/.1より
東 京電力の幹部技術者らは、福島県の5基の原子炉に危険を生じ得る設計上の欠陥があったことを、長年にわたり把握していた
東京電力の幹部技術者らは、福島県の5基の原子炉に危険を生じ得る設計上の欠陥があったことを、長年にわたり把握していた。しかし、東電はその欠陥を十分に改善せず、震災が起こった際に事故が起こる結果となったことが、ウォール・ストリート・ジャーナルの調べで明らかになった。
東電は福島県内の10の原子炉で、2種類の異なった設計を採用していた。3月11日に大震災が起こった際には、新型の設計を採用した5基の原子炉は14メートルの津波に耐え、大切な冷却装置が止まることはなかった。これらの原子炉はその後、安全に停止した。
しかし、旧型の設計を採用していた4基の原子炉では冷却装置が止まった。予備のディーゼル発電機と(発電機と原子炉の冷却装置をつなぐ)配電盤は海水につかってしまった。結果として、3基の原子炉で核燃料は炉心溶融(メルトダウン)を起こし、複数の建屋が吹き飛ばされ、最終的にはチェルノブイリ以来最大となる、放射線の漏えいが起こった。
津波により、一部の原子力発電所の設計におけるアキレス腱が露出した。すなわち、キッチンテーブルほどの大きさの配電盤だ。新型の発電所では、配電盤は原子炉と共に頑丈な建物に入れられていた。それ以外では、当初の設計の遺物とも言える、あまり丈夫でない別の建物に入れられていた。津波が来たとき、それらの配電盤は使用不能となり、動いていた発電機も使えなくなった。
この記事は、東京電力の現役、および引退した幹部技術者十数人に対する取材を元にまとめた。その中には、1970年代に行われた、設計に関する決定に深くかかわった技術者もいる。そのうちの数人は、ここ数十年の間に、東電は古い原子炉を改良する機会があったと言う。それができなかったのは、大丈夫だと思う気持ちと、コスト削減の圧力と、規制の緩さが原因だと、彼らは話す。
「(新しい)6号機で使い始めたやり方を、福島第1の原子炉に当然すべて採用すべきだった」と、88歳の豊田正敏氏は言う。東電の元副社長で、原子炉建設の監督に力を貸した人物だ。彼は設計の欠陥に気づかず、のちにそれを修正しなかったとして、自身を責める。
東電の広報担当者は、現在日本政府が事故の原因について調査を進めているとして、この件に対するコメントを控えた。
古い原子炉を使っているのは日本だけではない。米国も30年以上稼働している原子炉が数十基あり、そのうち23基は福島の旧型の原子炉と同じ、ゼネラル・エレクトリック(GE)製のものだ。今後数年のうちに、運転許可の更新が必要なものが数台ある。ドイツやスイスでは古い原子炉をそのまま引退させ、福島の事故後、原子力発電も止めるという決定をした。
福島県の発電所は新型のものも含めて、すべてがGEの設計を基盤としている。GEは日本にあるGEの原子炉の点検・修理などを行うという実入りの良い契約を結んでおり、パートナーである日立とともに、古い原発の寿命を延ばすべく、世界で活動を行っている。
GEは福島の原子炉の欠陥については、東電が設計変更を担当していたのだから、GEの責任ではないと言う。GEの広報担当、キャサリン・ステンゲル氏は、福島第1原発における非常用ディーゼル発電機の設置は、東電と行政当局が確認して、許可されたと言う。
福島で最も古い原発の建設は、1960年代に行われた。震災以後の放射線問題すべてを引き起こしている福島第1原発は、東電にとって最初の原発だった。同原発は太平洋に面しており、ある意味、実験室のような位置づけだった。第2次世界大戦の終結からわずか20年ほどだった当時、日本には自国で原子力発電所を設計する能力はなかった。そこで、GEから原子力技術を卸してもらったのだと、日本の技術者たちは言う。
初期の原子炉はGEの「マーク1」を用いていた。建設を担当したのは、アメリカのエバスコ(Ebasco)という企業で、同社は現在は存在しない。原子炉を小さく、安価にするために、エバスコは原子炉建屋を小さくしたと、豊田氏は言う。
原子力発電所は、不安定な核燃料を継続的に冷却し続けなければならない。このための冷却装置は電気で動き、電気は通常その国の電力網から引いてくる。電力網が機能しなくなった場合、原発のディーゼル発電機などの非常用電源が作動し、冷却装置を動かし続ける。これらの機器が作動しなければ、原発は炉心溶融の危険にさらされる。
東電の最初の原子炉建屋は小さかったため、非常用発電機は別の場所に置かなければならなかった。技術者らは、発電機を隣のタービン建屋に置いた。原子炉建屋は要塞のように厚いコンクリートの壁に囲まれており、頑丈な二重扉がついていた。それに比べるとタービン建屋、特にその扉はずっと造りが貧弱だった。
「原子炉の安全が主目的。だから、原子炉建屋に置くのが当たり前だ。耐震設計でクラスAの場所に置かなきゃいけない」と、豊田氏は言う。「津波が起こっても、ディーゼル発電機が原子炉建屋に入っていれば、今回のような事故は起こらない。ディーゼル発電機がタービン建屋にあったということを、私を含めて気がつかなかったのは残念だと思っている」
東電で原発技術担当の幹部だった岸清氏は、最初に設計が行われた当時は、福島の太平洋岸で大きな津波は「起こり得ない」というのが常識だったという。のちに東電は、この原発の(すべてではなく)一部を手直しし、5.7メートルの津波に対応できるようにした。だが、3月の津波はその倍以上だった。
1970年代以降、何度も福島第1原発を訪れたというある東電の技術者は、原子炉建屋は非常に窮屈で、通常の作業をするあいだ、バルブひとつを設置するのにも苦労したという。「マーク1はひどい設計。1人しか上れないようなはしごを上らなければいけない。時間もかかって、非常に効率が悪い」と、その技術者は言う。
東電の技術者らによると、東電はマーク1にまったく満足しておらず、福島第1原発の6号機を計画している途中で、別の設計を採用することにした。もっと細身のGEの原子炉、「マーク2」を導入し、建屋自体も大きくしたことで、6号機の建屋には予備の発電機を内部に置けるだけの十分なスペースができた。
1970年代後半、11キロほど離れたところに福島第2原発の建設を始める際には、東電はさらに設計を改善した。4基の原子炉がつくられ、そのすべてでマーク2が採用された。また、このマーク2には、津波や地震に対応しやすい仕組みを施しており、「ずっと日本向け」の仕様になっているのだと東電の技術者らは話した。
GEによると、同社は1980年代に米国と日本で、技術の進歩に合わせてマーク1の設計を改良したという。GEはマーク1は安全だという。
その後、東電は原発を繰り返し改善し続けた。日本政府も、何度も耐震基準を厳しくした。旧型の原子炉用の非常用ディーゼル発電機を納めたタービン建屋は、耐震安全性評価ではクラスBで、新型の原子炉用の非常用電源が入っている原子炉建屋のクラスSよりも、低い評価だった。
その技術者によると、1987年に政府による定期検査の準備をしていた時、この予備発電機の置き場所は「違いが際立っていた」という。彼は同僚に「この問題を解決すべきか」と尋ねたと話す。
別の専門家は、タービン建屋の地下だから、耐震上大丈夫だと言ったという。結局、その技術者は、「特にこだわってやるマスト・フィックス(必ず直すべきこと)ではない」と考えたと話す。
元副社長の豊田氏は言う。「その後たびたび、耐震設計などの見直しをやっている。それでもやっぱりお金がかかるということで、言い出せなかったのかもしれない」
東電はこの頃から、電気料金の高さを批判されており、そのような大きな変更は困難だったと、同社の元幹部は言う。
続ー1