パルデンの会

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ネパール警察は「フリーチベット」を訴えたチベット系住民を逮捕


THE NEW CLASSIC  より転載

ネパール警察は「フリーチベット」を訴えたチベット系住民を逮捕―事件の社会的・歴史的背景と中国の影

 
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AFP通信によると、10日、1959年のチベット動乱を記念して、首都カトマンズ市内でデモを行ったチベット系住民十数名が、ネパール警察によって逮捕された。同国の北に位置する大国・中国への配慮が見え隠れする対応となった。
 
ネパールのチベット系住民
ネパールの首都カトマンズにて、チベット系の住民十数名が、チベットの旗を掲げ、「フリーチベット」を訴えながら、中国の領事館付近でデモを行って いると、30名程度の警察官がやってきて、デモの参加者を逮捕したと、AFPは伝えている。9人のチベット系住民が、反中国的な活動をした容疑で、警察の 車両に押し込められるようにして捕まり、残りのメンバーはその場から逃げたという。
ネパールは2万人近いチベット難民やチベット系の住民を抱えている。国境を接する中国西南部を占めるチベット自治区から、年間2000人程度の難民が流入しているからだ。弊誌でもお伝えしているように、チベット自治区における中国の人権問題は 国際的に非難が集まっているが、そのチベット自治区で抑圧的な生活に苦しむチベット族の人々は、亡命のために、チベット亡命政府のあるインドのダラムサラ を目指す。しかし、チベットから直接ダラムサラへ向かうと、ヒマラヤ山脈の険しい道のりを通らなくてはならないため、比較的困難の少ないネパールへのルー トを経由するのである。
チベット難民の問題をめぐっては、中国政府は以前に、「偏った悪意のある批判には断固反論する」と述べ、チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世 らを「祖国分裂と、チベットの発展と安定を破壊する活動を続けている」と非難していたように、強行姿勢を崩さない。ネパールも、北の国境を接する大国から の激しい圧力にさらされているため、中国を刺激するような言動については敏感にならざるを得ないのだ。実際に、ネパールにとって中国はインドに次ぐ第二の 主要貿易国であり、年間で8000万ドル近い直接投資を受けてもいる。
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赤く塗られた地域がネパール。北は中国、南はインドに挟まれた小国だ。
 
チベット人にとっての310日とは?
1959310日は、1951年以来中国共産党支配下にあったチベット自治区の中心都市ラサで、反中国・反共産主義の民衆暴動が勃発した日で ある。チベット蜂起記念日とも言われ、毎年この日には世界各地の亡命チベット人のコミュニティーや北米・ヨーロッパ、日本、インド等の各国で記念行事が行 われる。
中華人民共和国は、1950年にチベットへの侵攻を開始すると、1951年にはチベット政府「ガンデンポタン」(後のチベット亡命政府)を屈服させ る。軍事的圧力のもとで「十七か条協定」を強引に認めさせ、チベット全域を支配下に置いた。次第にチベット自治区の中心都市ラサで、チベットにおける中国 のプレゼンスへの反発が高まり、1956年には、カムやアムド地方でチベット人による武装反乱が始まる。対立が激化し、人民解放軍チベットの村や僧院に 対して制裁攻撃を加え、「ポタラ宮ダライ・ラマ14世を爆撃する」との脅しも行った。
1959年にダライ・ラマ14世が人民解放軍司令部で観劇に招待されると、それが中国のダライ・ラマの拉致計画ではとの疑念がチベットに生まれ、10日に動乱は頂点に達する。これをラサ蜂起といい、この3日間で1万人以上が死亡したとされている。生命の危機を感じたダライ・ラマ14世は317 日にインドへ亡命。インドへの国境越えの直前、チベット臨時政府の樹立を宣言し、インド北部のダラムサラに拠点を置くこととなった。現在それはチベット亡 命政府として、十数万人からなるチベット難民組織の頂点に位置している。