故「岸本建男」前名護市長を忘れないで
沖縄県在住の歴史好き!より転載
先日、名護市の前市長岸本建男さんを偲ぶ会が名護市内であった。
62歳で急逝されたが岸本さんを惜しみ、多くの友人や同級生らが思い出を語り合った。
その中で、前知事の稲嶺恵一さんが、明かしたエピソードに印象が残る。
沖縄サミットで開催地の市長としてG8首脳の前で乾杯の音頭をとることを、岸本さんは断ったというのだ。
「名誉やかっこよさを求めず地味に裏方に徹したい」岸本さんは常に米軍普天間飛行場の移設問題に、向き合わざるを得った。
お酒を愛した。しかし「酒に強すぎたがゆえに、命を縮めた」と稲嶺さん。
東海岸地域は農林課長時代に農村整備構想を練った所だ。その岸本さんが「一生でもっとも困難な選択」として米軍機の飛行制限を含む基地使用協定など七条件をつけ、「確実に実施されなければ撤回」する事を市民に約束し、批判の中、同地域への移設を容認する。
体調に不安を抱える岸本さんは「このような時代を任されたことは私の運命」との言葉を残し、市長の職を退いた。その七つの条件や撤回条項は”消え”国は基地被害はオブラートに包んだまま振興策をえさに移設作業をすすめている。
「主人は生きていたとしても、終生妥協はしなかったと思う。皆さんもその姿を忘れないでほしい」能子婦人は偲ぶ会の参列者への挨拶を、こう締めくくった。
上記の記事は、昨日の沖縄タイムスの夕刊に掲載されていた。
市長時代に2度ほど公務中の岸本さんを見たことがあります。両脇を抱えらて歩く姿を見て私は心底”すごい男がいるもんだ”と感じておりました。
あなたのことはいつまでも私は覚えております。