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難民問題に臨んでメルケル首相が行なった歴史的決断

安全保障や原発辺野古移転問題を騒ぐマスコミや左翼人権団体や野党の面々何か 間違った動きをしていませんか?
国富についてもう少し考えなければ アジアの人々に馬鹿にされますよ。
我々は根本的に 朝鮮人でも 中国人でもないことを自分たちで気が付かなければならない。
日本人に紛れて日本国の国富を 疲弊させようとする 在日朝鮮、
支那の狡猾な日本人背乗りに気が付くべきである。




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難民問題に臨んでメルケル首相が行なった歴史的決断

「モラルと倫理の政治」は、ドイツと英仏間の格差を歴然とさせた

2015年9月10日(木)熊谷 徹

 2015年9月5日は、欧州の歴史を大きく塗り替える日となるだろう。この日の早朝、独首相のアンゲラ・メルケルは、隣国オーストリアとともに、ハンガリーで足止めを食っていたシリアやアフガニスタンなどからの難民を入国させる方針を発表したのだ。

戦後最大の難民危機

 現在欧州で起きている難民流入は、第二次世界大戦後、最大の規模に達する。ドイツのきっぱりとした態度は、難民の受け入れに消極的だった英仏、東欧諸国とは際立った対照を見せた。その背景には、ドイツが多数の難民を受け入れることによって生じる困難を自覚しながらも、欧州連合EU)のリーダー国としての道義的責任を果たすことを世界に示す狙いがあった。EU内部の力学が大きく変わり、ドイツの比重が高まることは間違いない。

異国でゼロからスタートする難民たちの行方には、多くの苦難が待っている(ミュンヘン駅前にて、筆者撮影)
 9月5日と6日の週末だけで、ミュンヘン中央駅には約2万人の難民が到着した。ウィーンやブダペストからの列車が着くたびに、リュックを背負った難民たちがプラットフォームを埋める。女性たちの多くは、スカーフで髪の毛を隠している。

 彼らは警官隊に守られながら、駅の北側の難民受け入れゾーンに進む。ミュンヘン駅の北側のアルヌルフ通りに面したタクシーのたまり場には、災害時に被害者の救助にあたる援助組織の大きなテントが6個設置された。難民たちは、まずこのテントの中で名前などを登録し、ドイツ国内の宿泊施設に振り分けられる。彼らの手首には、番号が書かれた、蛍光色の紙の輪が付けられる。

仮設テントの中で登録を済ませた難民たち(ミュンヘン駅前にて、筆者撮影)

 受け入れゾーンの外側には、数百人のミュンヘン市民が集まっている。彼らは、長旅で疲れ切ったシリア人たちを拍手で迎えた。「難民の皆さんを歓迎します」というプラカードが見える。飲料水や食べ物が配られる。花束を持ったドイツ人のお年寄りもいる。母親に手をひかれた子どもに、ドイツ人がチョコレートや玩具を渡す。

 ドイツ人から玩具をもらった5歳くらいの少女は、嬉しそうな表情で飛び跳ねていた。柵越しに、難民の子どもを抱きしめる市民がいた。人々の顔に微笑みが戻ってきた。しわくちゃになったメルケルの写真を掲げたり、手をハートの形にしたりして、感謝の気持ちを示す難民がいた。ドイツ人の拍手に対して、手を振って応える難民もいる。

ミュンヘン市民から玩具をもらって、少女の顔に微笑みが戻った(ミュンヘン駅前にて、筆者撮影)
ミュンヘン駅に到着した難民の家族は、市民の歓呼に笑顔で答えた(ミュンヘン駅前にて、筆者撮影)
 現在ミュンヘンでは、秋の気配が深まり、夜には気温が5度前後まで下がる。中東からやってきたシリア難民たちは、防寒具を持っていない。しかしドイツ人のボランティアたちが毛布や古着を集めて、難民たちに次々に手渡した。
 私は、1989年11月にベルリンの壁が崩壊した直後に、西ベルリンにやってくる東ドイツ人を、西ドイツ人たちが拍手で迎えた光景を思い出した。当時の西ベルリンっ子たちは、東ドイツ人たちにシャンペンを振る舞い、贈り物を渡した。あの時の和やかな風景にそっくりだ。
 登録を済ませてテントを出た難民たちは、駅の北側にずらりと並んだ送迎バスに次々と乗り込む。バスは、難民たちをバイエルン州内だけでなく、隣接した州に設けられた臨時の宿泊施設に運んでいく。
バスに乗り込んで、収容施設へ向かう難民たち(ミュンヘン駅前にて、筆者撮影)

「歓迎する文化」

 私は、難民に対するドイツ人たちの今回の態度を間近に見て、感動した。彼らの態度を端的に表わすのが、Willkommenskultur (ヴィルコメンス・クルトゥーア)という言葉だ。英語でいえば welcome culture だ。日本語に訳すと、「歓迎する文化」になる。難民を拒否せず、温かく受け入れる姿勢が、いまドイツ社会のメインストリームになっている。ミュンヘンに限らず、ドイツ全国でボランティアたちが動き始めている。私の周囲にも週末に、アフリカからの難民にドイツ語を教えているドイツ人がいる。多くの若者たちが「シリアなどからの難民たちは、戦争でひどい目にあったのだから、助けるのが当たり前だ」と考えている。もちろんネオナチのように亡命申請者の宿舎に放火する愚か者もいるが、彼らは社会の主流派ではない。

 ドイツ連邦政府の移住・難民局によると、今年1月から7月までにこの国で亡命を申請した外国人の数は、約22万人。これは前年同期の2倍を超える。
 さらに、連邦政府は、今年ドイツへの亡命を申請する外国人の数が約80万人に達すると予想している。これは戦後最多である。これまで難民の数が最も多かった1992年には、約44万人がドイツに亡命を申請したが、今年はこれを82%も上回る。

 難民たちがドイツで温かいもてなしを受けている映像をテレビやネット上で見て、さらにこの国を目指す難民が増える可能性がある。ドイツに着いた難民は、シリアに残っている家族や友人に、「ここは良い国だ。おまえたちもドイツに来い」とメッセージを送っているかもしれない。このため私は、今年ドイツに流れ込む難民数が、100万人に達するかもしれないと考えている。

バルカン半島経済難民

 亡命申請者の数が増加している最大の理由は、シリアやイラクで内戦が激化していることだ。特にシリアでは、過激派組織イスラム国(IS)と政府軍の戦闘のために、シリア国民のほぼ半分が故郷を追われている。政府軍による無差別な市街地爆撃で、犠牲となる市民が急増している。内戦が終息する見込みが立たないために、祖国を脱出する市民が増えているのだ。

 隣国トルコには、約200万人のシリア人が逃げ込んでいるほか、ヨルダンやレバノンも多数の難民を受け入れている。欧州では今年に入ってから、地中海やエーゲ海を船で横断したり、バルカン半島を陸路で北上したりして、西欧へ向かう難民が急増していた。
 ただしドイツなど西欧にやってくるのは、紛争国の市民だけではない。今年1月から7月までにドイツで亡命を申請した外国人のうち約43%は、コソボアルバニアマケドニアセルビアなど、バルカン諸国の市民だ。

 これらの国ではシリアやイラクと違って、内戦や政治的迫害は起きていない。だが、経済状態が悪化しているために、ドイツなどに移住することで生活水準を向上させようとする市民が増えている。いわば「経済難民」だ。このため、バルカン半島からの難民の大半は、ドイツにたどり着いても亡命申請を却下され、国外追放となる。

 しかし、彼らの多くはパスポートなど身分証明書をわざと持ってこないので、亡命申請の審査に最低3~5カ月かかる。ドイツ政府は全ての亡命申請者に毎月352ユーロ(約4万9000円)の小遣いを支給するほか、宿泊施設や食事も与える。つまりバルカン半島からの経済難民は、仮に国外追放になっても、ドイツに数カ月滞在すれば、それなりの「収入」になるわけだ。たとえばコソボの国民1人あたりのGDPは、約7000ユーロにすぎない。ドイツ政府が難民に支給する小遣いが、バルカン半島からの難民を引き寄せる「磁石」となっている。

人間運搬業者の暗躍

 さて危機がエスカレートしたのは、8月下旬以降だ。8月28日には、ハンガリーとの国境に近いオーストリアの高速道路脇に停められた保冷車の中から、シリア難民71人の遺体が見つかった。中東では難民から金を受け取って、欧州に移送する「人間運搬業者」が暗躍している。これらの難民は、「人間運搬業者」が手配したトラックに乗っている間に窒息死したものと見られる。闇の運搬業者は、金を先払いで受け取るので、難民が死んでもかまわない。この事件は、欧州の政治家や市民を震撼させた。

 アフリカやトルコから海を渡ろうとして溺死した難民の数も、数千人に達する。地中海やエーゲ海は、海の藻屑と消えた難民の墓場となりつつある。ドイツ人たちの中には、そのことについて良心の呵責に苦しむ者も増えていた。

 さらにドイツ人の怒りをかったのが、ハンガリー政府の対応だった。右派ポピュリストとして知られるハンガリー首相のヴィクトル・オルバンは、これまでも言論の自由の制限などをめぐってEUとの間に軋轢があった。オルバンは9月3日にブリュッセルで行った記者会見で「難民流入は、ヨーロッパの問題ではない。ドイツの問題だ。難民には、ハンガリーに来てほしくない」と公言。ドイツが難民受け入れに前向きの姿勢を見せたことが、ハンガリーへの難民の流入につながっているとして、ドイツ政府の態度を批判した。

ハンガリーの措置に強い批判

 ハンガリーは、難民の流入を食い止めるために、セルビアとの国境に鉄条網などを使った「防壁」を建設し始めていた。25年前にハンガリー政府は、オーストリアとの間の国境を開放して、東ドイツからの難民が西ドイツへ亡命するのを許し、ベルリンの壁崩壊のきっかけを作った。皮肉なことにそのハンガリーが、今やヨーロッパを分断する「防波堤」の建設を始めたのだ。

 ハンガリーブダペスト駅周辺には8月末からシリア難民など数千人が集まり、オーストリアやドイツへ向かう列車を待っていたが、ハンガリー政府は一時ブダペスト駅を封鎖。駅の周辺で多くの難民が野宿する事態となった。

 駅の封鎖が解かれると、多数の難民が列車に殺到して、プラットフォームは大混乱に陥った。多くの人々は窓から電車に乗り込んだ。しかしハンガリー政府は動き出した列車をオーストリアへは向かわせず、途中で停車させた。政府は難民を列車から降ろして、臨時のキャンプに収容しようとした。多くの難民は、ハンガリー政府にだまされたと感じた。彼らは、列車から降りることを拒否した。

 あるシリア難民の夫婦は、ドイツへ行けないと知ると、絶望のあまり子どもを抱いたまま線路に横たわり、警察官に排除された。難民たちは、「ドイツへ行けないならば、死んだ方がましだ」と叫んだ。このシーンは、テレビを通じて全世界に流され、ヨーロッパの混乱を強く印象づけた。

 また一部の難民は、高速道路を歩いてハンガリーからオーストリアとドイツへ向かった。高速道路の車線が難民で埋まり、大事故が起きても不思議ではない状況になった。

 メルケルオーストリアとともに「難民を受け入れる」と発表したのは、難民がハンガリーでこれ以上の足止めを食った場合、混乱がさらに悪化すると判断したからだ。ハンガリー政府も、難民が高速道路を歩き始めたのを見て、彼らをオーストリアやドイツへ自由に出国させることを決めた。

ナチス時代への反省

 ドイツとオーストリアの決定は、一種の超法規措置だ。EUが1997年に施行したダブリン協定によると、EU域外の国から来た難民は、最初に入ったEU加盟国で亡命を申請しなくてはならない。たとえばバルカン半島を経て欧州に入ったシリア人が最初に入る国はハンガリーである。このためこのシリア人は、本来ハンガリーで亡命申請手続きを取らなくてはならない。だがドイツは、ハンガリーでの混沌とした状況を見て、難民たちがハンガリーからEU域内に入ったにもかかわらず、ドイツで亡命を申請することを特別に認めたのだ。これは、きわめて寛容な措置である。

 ドイツが難民の受け入れに踏み切った背景には、ナチス・ドイツが行った暴虐に対する反省がある。ナチスユダヤ人や周辺諸国の国民を徹底的に弾圧した。一部のユダヤ人や反体制派が生き延びることができたのは、スカンジナビア諸国やスイス、米国などが亡命申請者を受け入れたからである。たとえば、60~70年代に独連邦政府の首相を務めたヴィリー・ブラントは、第二次世界大戦中にナチスに迫害されたが、ノルウェーに亡命したために、一命を取り留めた。私の知人のユダヤ人の女性は、フランスの農家にかくまわれたため、アウシュビッツで殺されずに済んだ。

 ドイツが亡命申請者に対して寛容な態度を取る背景には、ナチス時代の経験を教訓として、戦争や政治的迫害に苦しむ市民に手を差し伸べるというこの国の「理念」がある。
 EU加盟国の数は28だが、現在EUへの難民の90%は、ドイツをはじめとする9カ国が受け入れている。今年7月の時点では、ドイツが48%を受け入れていた。

難民受け入れに消極的な英仏

 ドイツのきっぱりとした態度に比べると、英仏の態度は消極的だ。今年6月にドイツが3万5000人の難民を受け入れたのに対し、英国は3000人、フランスは5600人を受け入れたに過ぎない。
 英国のデービッド・キャメロン首相は、9月2日まで「全ての難民を受け入れれば、問題が解決できるというものではない」と述べ、ドイツの態度を間接的に批判していた。英国は、EUの重要な原則である「域内の移動と職業選択の自由」を制限するよう欧州委員会に求めていた。
 キャメロンが2017年までにEU脱退の是非について国民投票を行う理由の1つが、この移民問題なのである。したがって彼は、欧州に流れ込む難民の数が急増しても、受け入れについて積極的な姿勢を見せなかったのだ。
 だが英国の日刊紙「インディペンデント」が、トルコの海岸で溺死したシリア難民の子供の写真を掲載すると、キャメロンは踵を返すようにして「2020年までに2万人のシリア難民を受け入れる」という声明を発表した。

 フランスのオランド大統領も、長い間音無しの構えだった。彼は9月7日になってようやく、「今後数週間以内にドイツに入国した難民のうち、1000人を受け入れる。今後2年間に、2万4000人の難民を受け入れる」と宣言した。ドイツのノルトライン・ヴェストファーレン州政府の内務大臣、ラルフ・イェーガーは、「我が州は現時点で1万3500人の難民を受け入れた。今年末までに受け入れる難民の数は、フランスが受け入れる難民数よりも多くなるだろう」と発言している。フランスの極右政党「フロン・ナショナール」のマリーヌ・ルペン党首は、難民に寛容なドイツの態度を厳しく批判している。

国家エゴよりもモラルと倫理を重視

 メルケルは、自分の国の事情よりも、戦火を逃れて欧州にやってくる人々の救援を優先させた。そこには、国家エゴよりも人道主義を重視する、戦後のドイツ政府の基本方針が反映している。私は今年7月に上梓した「日本とドイツ ふたつの戦後」(集英社新書)」の中で、戦後ドイツがナチスの時代への反省から、モラル(道徳)と倫理性を重視する国になったと主張した。今回の難民危機に臨んでドイツが見せた態度にも、そのことがくっきりと表れている。

 80万人から100万人の難民を受け入れることは、豊かな国ドイツにとっても大変な負担である。
バイエルン州政府やミュンヘン市からは、「もはや難民を泊まらせるところがない。我々は限界に近づきつつある」という悲鳴が聞こえてくる。
 メルケル政権は9月7日、難民対応のための予算を60億ユーロ(8400億円)増額することを決めた。ヨーロッパには、難民対策のためにこれほど多額の予算をつぎ込んでいる国は、ドイツ以外に1つもない。
 ドイツの副首相、ジグマー・ガブリエルは9月7日に「我々は、今後数年間に50万人の難民がやってきても、受け入れる準備がある」と自信に満ちた発言を行っている。

 また、ドイツにやってくる80万人の中には、ISが潜り込ませたスリーパー・エージェントも何人か混ざっているだろう。今後何年か経って、ドイツの暮らしに幻滅して、イスラム過激派の思想に感化され、テロリストになる者も現れるだろう。そのことは、旧植民地国からの移民の問題を抱える英国やフランスの例を見れば、明らかだ。ロンドンの地下鉄やバスを狙った爆弾テロ、フランスの風刺新聞「シャルリ・エブド」編集部に対する襲撃事件の犯人たちは、いずれも移民の子どもたちだった。いわゆる「ホームメード・テロリズム」は、欧米諸国の治安当局にとって頭の痛い問題である。

 だがドイツ政府は、そうしたリスクを計算に入れても、シリアなど紛争国からの難民を道義的な理由から、受け入れる決断をした。ハンガリー政府などの自己中心的な態度に対して、ドイツは大国としての責任感を持っていることを全世界に示した。

 メルケルは、EUの事実上のリーダーとして、国家予算や法律の制限にとらわれることなく、困窮者の救援という普遍的価値を優先した。もしもドイツがEUのルールに束縛されたり、保守的な市民の懸念に配慮したりして、シリア難民の受け入れを拒否していたら、全世界から轟轟たる非難の声が上がっていたはずだ。「ドイツはナチス時代の過去から学ばなかった」という批判がメルケルに対して向けられていたに違いない。

 私は、モラルと倫理の重要性を世界中に示したメルケルの決断を称賛する。ハンガリーはもちろん、英国やフランスの首相や大統領たちの、EU内部での重要性は低下するだろう。メルケルは、「木を見て森を見ず」の愚に陥ることなく、森という全体像を把握して、難民受け入れに踏み切った。正しい選択だった。

国富を弱者救済に回したドイツ

 ドイツ連邦政府は、好景気と低金利国債発行コストの低下、税収の改善によって昨年約40年ぶりに財政黒字を実現し、国債を新規に発行する必要がなくなった。多くのヨーロッパ諸国が、いまだにユーロ危機の後遺症に苦しむ中、ドイツ経済はほぼ独り勝ちの状態にある。

 こうした中、フランスの人類学者エマニュエル・トッドの著作に代表されるように、ドイツを羨望し批判する論調がヨーロッパで強まっていた。だが今回ドイツは、国富を自分たちのためだけに使うのではなく、シリアなど紛争国からの難民にも分け与えることを決めた。この事実は、「ドイツ帝国が、自国の利益のためにユーロを導入し、ヨーロッパや世界を滅ぼそうとしている」という陰謀論に、冷水を浴びせると思う。ドイツ連邦政府が今のところ比較的冷静な態度を保っているのも、この国が財政黒字を生み、新規国債の発行が不要になっているためだ。財務大臣もヴォルフガング・ショイブレも、「ドイツはこの重荷に耐えられる」と語っている。

 メルケルの決断には、弱肉強食と自由放任主義を旨とする英米型資本主義とは一線を画し、政府が弱者に手を差し伸べる「社会的市場経済(Soziale Marktwirtschaft)」を標榜するドイツの哲学も反映している。

 もちろん、ドイツ社会はこの難民の受け入れによって、大きく変わる。ドイツは、米国のような移民国家としての性格を強めていくだろう。大都市での住宅難が悪化し、フランスの大都市の郊外にあるような「外国人ゲットー(banlieu)」が生まれる可能性もある。極右勢力が外国人を狙うテロが増えるかもしれない。ドイツ人たちは、今後大変な困難に直面するに違いない。

 私は1990年代の初めにドイツ統一後のお祭り騒ぎが収まった後に、西ドイツ人、東ドイツ人の双方で幻滅感が広がったことを覚えている。「灰色の日常生活」が戻ってきた時、ドイツ人そして難民たちはどう振る舞うだろうか。

 ドイツ人の間からは、「同じ言葉を話す東ドイツ人の国を統合するのも、大変な苦労が伴った。ドイツ語を全く話さない難民を1年間に80万人も受け入れて、本当に大丈夫なのか?」とか「難民たちをすみやかに自活させることができるのか?」という懸念の声が早くも聞かれる。ドイツ人の国民性である「高いリスク意識」と「心配性」が頭をもたげ始めている。

 だがそうした懸念は、ドイツが「倫理と道徳に金を使う国」というメッセージを全世界に送ったことのプラス効果に比べれば、大した問題ではない。

 大事なことは、シリア人の少女が、戦場と化した祖国で砲弾や銃弾の犠牲になる危険から逃れ、ドイツにたどり着いたことである。そのような子どもが、1人でも2人でも増えるべきだ。メルケルの決断は、軍隊を動員しない「積極的平和外交」である。私はドイツに住む1人の納税者として、政府が行ったこの決断を誇りに思う。

 私はミュンヘン駅で、難民たちを拍手で迎えるドイツ人たちを見ながら、ふと思った。「もしも日本に80万人の難民が流れ込んだら、我々日本人はどのように対応するだろうか?」。国家や、民族の軽重は、こうした瞬間に問われるのではないだろうか。


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熊谷徹のヨーロッパ通信

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