過去の伝聞はもうよい、 地震後から現在までに 聞こえてくる 支那政府の悪評について書かなければ 行った目的はない。 政府が出す情報ぐらいなら 新華社のHPで十分。 本当にひどい被害にあったチベット人の町の話は出てこない。
高い金かけて、お芝居はやめてほしい。
- http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20151209002209_commL.jpg
- http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20151209002214_commL.jpg
- http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20151209002216_commL.jpg
- http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20151209002218_commL.jpg
- http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20151209002222_commL.jpg
- http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20151209002227_commL.jpg
この社区には458戸1458人の被災者が生活する。管理委員会職員の王虎さん(43)によると、大地震で被害を受けた住民に対し、当局は1人あたり35平方メートルを目安に戸建ての住宅を無償で提供。くじ引きで家の場所を決め、10年1月から周辺地域の人がともに新たなコミュニティーでの生活を始めた。
「被災者に取材をしたい」と取材団から中国側に要望していたこともあってか、住民への取材が許可された。入り口に近い一画に夫婦で暮らす代俊坤さん(72)の家は、広々とした2階建て住宅。1階には15畳ほどのリビングと、ガスコンロ付きの台所、ダイニング、2階には寝室と客間がある。大地震前の家は燃料に石炭を使っていたといい、代さんは「暮らしはかなり良くなった」。最初は近所付き合いに戸惑うこともあったが、今では良好な隣人関係を築いているらしい。「成都の人もうらやむほど、この場所は素晴らしい。元の地域に戻りたいとは思わない」と笑顔で話した。
社区の近くにある「汶川特別旅行区」には、大地震で倒壊した中高一貫校がそのままの姿で保存されている。聚源中学校の跡地にビルが建ち、当時の面影を残していないのとは対照的だ。旅行区には年間300万人の観光客が訪れる。職員には被災者を採用しており、入り口から倒壊した校舎までの10分ほどの道のりには、民宿やレストラン、土産店が並ぶ。聞くと、どれも被災者が経営しているという。
ひときわ大きな声で客引きをしていたのは、四川料理店を営む楊和江さん(39)。トラックの運転手だったが大地震で職を無くし、4年前、政府から提供された建物を使って料理店と民宿を開いた。年収は120万円ほど。「客が来るとすぐに金が手に入る分、生活は昔よりちょっとましかな」
ただ、家族の話題になると顔を伏せ、口を閉ざした。商売のことを話していたときとはまるで違う顔に、記者が「言いづらいことを聞いてすみません」と言うと、楊さんは小さい声で「理解します」とだけ返した。あとで楊さんを知る人に聞くと、大地震で妻と、8歳と生後3カ月の2人の子どもも亡くした。楊さんは当時、自宅から3キロほど離れた場所で仕事をしていて助かった。今も家族を救えなかった悔しさを抱え、多くを語らないという。
旅行区の奥に進むと、倒壊したままの校舎が姿を現す。大地震の2年前に完成したばかりの校舎だったが、揺れに耐えられず横倒しになった。隣接する高校生用の宿舎も1階部分がつぶれた。43人の生徒が亡くなったとされる。校舎の正面玄関には、地震の時間を刻む大きな時計のモニュメントが造られている。献花台には観光客らが供えた花が並んでいた。
校舎を回るように設けられた通路を歩くと、割れた窓ガラスや粉々になったコンクリート片が地震のすさまじさを物語っていた。案内してくれた陳艶さん(31)も被災者で、祖母を亡くしたという。旅行区の完成を知ってガイドを志望し、今では多くの観光客に当時の記憶を伝えている。
とはいえ、地震で家族を亡くした身。地震関連の施設で働くのはつらくないのだろうか。そう問う記者に、陳さんは「風化させたくないの」と即答したあと、こう続けた。「ここを訪れた子どもたちに、いつもこう話します。命は本当に弱いもの。毎日を大切にしてほしい。あなたの悩みは、きっと大したことじゃないと」。そう伝えることが、いまを生きる自分の使命だと感じているという。
今回、取材団の行程は中国側と日本記者クラブが決めた。取材する対象の選定について、記者クラブ側から中国側に出した要望の中には、通らなかったものもあった。取材できた被災者たちも、中国側が「この人に取材してください」と、指定した人たちだった。今回の取材をもって、大地震の被災者の「いま」をすべて語ることはできない。補償を受けられずに苦しみ続ける人々にも、政府から新たな生活の場を与えられた人々にも、それぞれの7年半があるのだ。