■特派員リポート 鬼原民幸(国際報道部記者)
 2008年の中国・四川大地震から7年以上がたった。死者・行方不明者は約8万7千人。政府からの十分な補償も無く、抗議を続ける被災者や家族がいる一方、それぞれの思いを抱きながら、今も被災地で暮らす人がいる。11月、日本記者クラブと在日中国大使館が企画した中国取材団に参加し、「被災のまち」を訪ねた。
 大地震は中国中西部の四川省汶川県で、08年5月12日午後2時28分(日本時間午後3時28分)に起きた。同県を震源とする直下型地震で、規模はマグニチュード8・0(中国政府発表)。阪神大震災の30倍のエネルギーが生じたとされる。四川、陝西、甘粛の3省で死者は計約6万9千人、行方不明者は約1万8千人。約500万人が家を失った。
 四川省都江堰市の聚源中学校では、周囲の建物に大きな被害がなかったにもかかわらず、校舎がほぼ全壊。地震後、校舎に細い鉄筋や粗悪なセメントが使われていたことがわかった。一部の遺族らは今も賠償を求めている。倒壊の責任などを追及するための行政訴訟は、政府の通達によって裁判所で受理すらされない状況だという。今回の日程に聚源中学校に関係する取材は入っていなかった
 取材団が向かったのは、四川省省都成都市から車で1時間半ほど、地震後に開通した高速道路を走ったところにある汶川県映秀だった。壊滅的な被害を受けた場所だ。現在は被災者のために新興住宅地「九龍社区」が整備されている。

 この社区には458戸1458人の被災者が生活する。管理委員会職員の王虎さん(43)によると、大地震で被害を受けた住民に対し、当局は1人あたり35平方メートルを目安に戸建ての住宅を無償で提供。くじ引きで家の場所を決め、10年1月から周辺地域の人がともに新たなコミュニティーでの生活を始めた。

 社区の入り口には警備員が立ち、住民の出入りをチェックする。舗装された道路を挟んで白壁の住宅が並ぶ。植木や街路樹もきれいに整えられている。庭先で世間話をしながら洗濯する女性たちの姿もあった。

 「被災者に取材をしたい」と取材団から中国側に要望していたこともあってか、住民への取材が許可された。入り口に近い一画に夫婦で暮らす代俊坤さん(72)の家は、広々とした2階建て住宅。1階には15畳ほどのリビングと、ガスコンロ付きの台所、ダイニング、2階には寝室と客間がある。大地震前の家は燃料に石炭を使っていたといい、代さんは「暮らしはかなり良くなった」。最初は近所付き合いに戸惑うこともあったが、今では良好な隣人関係を築いているらしい。成都の人もうらやむほど、この場所は素晴らしい。元の地域に戻りたいとは思わない」と笑顔で話した。

 社区の近くにある「汶川特別旅行区」には、大地震で倒壊した中高一貫校がそのままの姿で保存されている。聚源中学校の跡地にビルが建ち、当時の面影を残していないのとは対照的だ。旅行区には年間300万人の観光客が訪れる。職員には被災者を採用しており、入り口から倒壊した校舎までの10分ほどの道のりには、民宿やレストラン、土産店が並ぶ。聞くと、どれも被災者が経営しているという。

 ひときわ大きな声で客引きをしていたのは、四川料理店を営む楊和江さん(39)。トラックの運転手だったが大地震で職を無くし、4年前、政府から提供された建物を使って料理店と民宿を開いた。年収は120万円ほど。「客が来るとすぐに金が手に入る分、生活は昔よりちょっとましかな」

 ただ、家族の話題になると顔を伏せ、口を閉ざした。商売のことを話していたときとはまるで違う顔に、記者が「言いづらいことを聞いてすみません」と言うと、楊さんは小さい声で「理解します」とだけ返した。あとで楊さんを知る人に聞くと、大地震で妻と、8歳と生後3カ月の2人の子どもも亡くした。楊さんは当時、自宅から3キロほど離れた場所で仕事をしていて助かった。今も家族を救えなかった悔しさを抱え、多くを語らないという。

 旅行区の奥に進むと、倒壊したままの校舎が姿を現す。大地震の2年前に完成したばかりの校舎だったが、揺れに耐えられず横倒しになった。隣接する高校生用の宿舎も1階部分がつぶれた。43人の生徒が亡くなったとされる。校舎の正面玄関には、地震の時間を刻む大きな時計のモニュメントが造られている。献花台には観光客らが供えた花が並んでいた。

 校舎を回るように設けられた通路を歩くと、割れた窓ガラスや粉々になったコンクリート片が地震のすさまじさを物語っていた。案内してくれた陳艶さん(31)も被災者で、祖母を亡くしたという。旅行区の完成を知ってガイドを志望し、今では多くの観光客に当時の記憶を伝えている。

 とはいえ、地震で家族を亡くした身。地震関連の施設で働くのはつらくないのだろうか。そう問う記者に、陳さんは「風化させたくないの」と即答したあと、こう続けた。「ここを訪れた子どもたちに、いつもこう話します。命は本当に弱いもの。毎日を大切にしてほしい。あなたの悩みは、きっと大したことじゃないと」。そう伝えることが、いまを生きる自分の使命だと感じているという。

 今回、取材団の行程は中国側と日本記者クラブが決めた。取材する対象の選定について、記者クラブ側から中国側に出した要望の中には、通らなかったものもあった。取材できた被災者たちも、中国側が「この人に取材してください」と、指定した人たちだった。今回の取材をもって、大地震の被災者の「いま」をすべて語ることはできない。補償を受けられずに苦しみ続ける人々にも、政府から新たな生活の場を与えられた人々にも、それぞれの7年半があるのだ。

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 鬼原民幸(きはら・たみゆき) 国際報道部記者。2005年入社。大津総局、政治部、特別報道部などを経て、2014年4月から現職。34歳。