メルマガ『黄文雄の「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」』 の著者で台湾出身の評論家・黄文雄さん
は、「中国はかつて、台湾は日本に属する、もしくは自分たちの支配地域ではないという立場を取っていた」としています。メルマガでは日本が台湾に出兵した「牡丹社事件」など歴史的事実を時系列で追いながら、その証拠を白日の下に晒しています。
かつて中国は台湾を「日本に属する」と見なしていた
浜田はその逆襲として、28年に長官ヌイツを台湾に監禁、人質としてその息子5人を平戸まで連行し、幕府にオランダ平戸商館を閉鎖させた。さらに、オランダが有する台湾の城塞引き渡し、または破壊を要求。結局、オランダ商館は青銅の灯篭を日光東照宮に献ずることで一事をしのいだが、江戸幕府とオランダのバタビア政府との間に残ったしこりは、和解まで10年もかかった。
確かに、清朝占有前の台湾は、倭寇暗躍の地であり、倭寇の「巣窟」とみなされていたため、日本の領土の一部だと誤認してもおかしくない。台湾が倭寇の根拠地だったことは、「寇民遁れて海に入りて台湾の地に向かう」(嘉靖42年、正親町天皇の永禄6〈1563〉年)という、明代の記録からも分かる。
それでも日本政府は台湾との接触を試み続けた。それを裏付ける二つの記録が残っている。ひとつは、山田長政がシャムへ行く途中に一時台湾に停留していたという記録。もうひとつは、泉州堺の商人・納屋助左衛門(呂宋助左衛門)が文禄3年に台湾で奇利を博し、日本に帰って秀吉に謁見して珍品を献じたという話が「三才図会」にある。
家康の命を受けた有馬晴信は、部下を台湾に送ってまずは視察をし、原住民を撫順してから通商を試みたが、結果は失敗に終わる。元和元(1615)年、今度は長崎代官・村山等安が高山国の朱印状を得ることができた。村山は人を集めて台湾へ渡り、日本との貿易と入貢を求め、ひそかに台湾占有を狙ったのだが、有力な後援を得られずにこれまた失敗した。
倭寇時代から、オランダ人が台湾を領有した時代までの日台関係は、人的ではなく物的な関係が主流であった。八幡大菩薩の幟を掲げていた八幡船や御朱印船は、甲冑、刀剣、塩、漆器、扇子、生活雑貨を台湾へ積み出し、金、鉛、生糸、絹織物、鹿の皮、ガラス、黒檀などを台湾から日本へ持ち帰っている(ただ、台湾は貿易の中継地として利用されていただけで、この当時の台湾には甲冑など必要なかった)。
台湾出兵の発端となった「牡丹社事件」
台湾での事件に「われ関せず」を決め込んだ清国
このことは、初めて清国と対等な立場で謁見した国家が現れたと、各国駐北京大使の間で称賛された。副島の件以前にも、清国は同じようなトラブルを他国と起こしており、たとえば乾隆帝の時代、英王ジョージ3世の特使マッカートニーが謁見を求めたときも、「三跪九叩」の礼をめぐってトラブルがあった。以来、西洋各国はその礼儀の国との「礼」をめぐるトラブルが続いた。
「台湾事件(牡丹社事件)」から「台湾出兵」への決定は、大久保利通と大隈重信が「台湾問題」(征台論)と「朝鮮問題」(征韓論)の問題処理に副島をはじめ外務省のリゼンドル顧問、柳原前光、鄭永寧ら「副島部屋」の面々と相談のうえ立案したものであった。決定が下された後、大久保と大隈は連名にて「台湾蕃地処分要略」全九カ条を答申し、それが閣議を通り国策として発動される運びとなった。
同年4月、西郷は谷干城陸軍少将や赤松則良海軍少将らをはじめ、軍艦5隻、船舶13隻、兵員3,600名を率いて台湾へと赴いたのである。ちなみにこのとき、西郷隆盛は士官を中心にした士族300人を集めて信号隊を編成して、西郷従道の出征を支援している。また、後の三菱財閥を築いた岩崎弥太郎は御用船の手配にあたっている。
台湾出身の評論家・黄文雄が、歪められた日本の歴史を正し、中国・韓国・台湾などアジアの最新情報を解説。歴史を見る目が変われば、いま日本周辺で何が起きているかがわかる!