パルデンの会

チベット独立と支那共産党に物言う人々の声です 転載はご自由に  HPは http://palden.org

10/29冊封粉砕街宣と11/3明治節イベントについて


龍柱反対署名提出 2015年11月20日
総合計 29,045筆

翁長雄志沖縄県知事は、那覇市長時代に、中国皇帝のシンボル龍の柱建設事業を、海の玄関の那覇市若狭に、極秘に進めていた‎龍の柱にヒビが入っています!!
3mの高さの首里城の龍柱は1768年の大地震で倒壊
したほど不安定。縦ヒビは広がり長くなっている。
世界に重量450トン高さ15m、12の石の接着による龍の柱の例は無い!危険な建設事業。


那覇市民が
1年8カ月前に投票した那覇市議会議員40名中、死亡、辞任、党も会派が変わり、16名も!





有権者に何の説明も無しの真逆な議会で、多数決で強行採決されました!

城間市長が、臨時市議会を開催し
市長は初日のみ出席。市長欠席。
市民不在政治

2015年5/8に、龍柱補正予算 臨時那覇市議会で可決!
賛成24(新風会、ひやみかち那覇共産党社民党民主党、社大党、無所属)
反対2(無所属の会)
退席11(自民、公明)
新たに追加予算1億円 那覇市民の負担!

那覇市の広報紙『なは市民の友』において約三年間一度も、龍柱が完成後の1月号においても『龍柱建設』について知らせをしていない。
市民告訴詳細HP『翁長市政を糺す』←クリック
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2016年10月21日

記者会見を県政記者クラブで10/21と10/28,2回致します。10/29冊封粉砕街宣と11/3明治節イベントについて

記者会見にあたっての
『取材のお願い』というマスコミへのお知らせビラです。
■1回目 10/21(金)10:00~用
シーサー平和会議のレギュラーメンバー3人で会見


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■2回目 10/28(金)14:30~用
トゥール・ムハメド博士(世界ウイグル会議・日本代表)
金城テル(住みよい那覇市つくる会会長)
シーサー平和会議のレギュラーメンバーで会見
「ラジオ・フリーアジア」クチルク氏が取材

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昨年の記者会見の様子
10.31冊封儀式粉砕デモ記者会見(7'24") https://youtu.be/ubt0X7tUGbM

昨年、『八重山日報』は記者会見を記事にして下さいました‼http://img01.ti-da.net/usr/s/t/g/stgeoge/12193886_1020929301261832_2538695858377783132_n.jpg



◉記者会見資料
朝貢冊封年表】
 清は1757年以来広東港でのみヨーロッパ諸国と交易を行い、公行(中国語版)という北京政府の特許を得た商人にしかヨーロッパ商人との交易を認めてこなかった
北京政府はヨーロッパとの交易を一貫して「朝貢」と認識していた。
北京政府による貿易や居住の制限や北京政府の朝貢意識を是正することによって英中自由貿易を確立することが課題になっていった。

 1773年に、イギリス東インド会社ベンガル阿片の専売権を獲得しており、ついで1797年にはその製造権も獲得しており、これ以降同社は中国への組織的な阿片売り込みを開始していた。北京政府は阿片貿易を禁止していたが、地方の中国人アヘン商人が官憲を買収して取り締まりを免れつつ密貿易に応じたため、阿片貿易は拡大していく一方だった。

 1793年、イギリスの外交官ジョージ・マカートニーは、乾隆帝に謁見した際に三跪九叩頭の礼を要求されるが、これを拒否してイギリス流の儀礼を押し通した。

 1813年にはウィリアム・アマーストがやはり三跪九叩頭の礼を拒否し、嘉慶帝への謁見が許されなかった。

 1823年には阿片がインド綿花に代わって中国向け輸出の最大の商品となっている。広東貿易の枠外に広がりゆく阿片貿易は広東貿易制度を崩壊させるきっかけとなっていく

 1838年に、道光帝は林則徐を欽差大臣(特命全権大臣のこと)に任命し広東に派遣、アヘン密輸の取り締まりに当たらせた。

 1839年(道光十九年)には、アヘン商人たちに「今後、一切アヘンを清国国内に持ち込まない。」という旨の誓約書の提出を要求し、「持ち込んだら死刑」と通告した。
さらにイギリス商人が持っていたアヘンを没収、夷館も閉鎖した。
同年6月6日には没収したアヘンをまとめて処分した。焼却処分では燃え残りが出るため、阿片塊を海水に浸した上で塩と石灰を投入し、化学反応によって無毒化させた。この時に処分したアヘンの総量は1,400トンを超えた。その後も誓約書を出さないアヘン商人たちを港から退去させた。
 1839年9月4日に九竜沖砲撃戦、11月3日に川鼻海戦

 1842年8月29日、両国は南京条約に調印し、阿片戦争(第一次阿片戦争)は終結

 南京条約では公行制度(一部の貿易商による独占貿易)を廃止し自由貿易制に改め、従来の3港に福州、上海を加えた5港を自由貿易港と定めた。加えて本条約では英国への多額の賠償金の支払と香港の割譲が定められた。
また、翌年の虎門寨追加条約では治外法権関税自主権放棄、最恵国待遇条項承認などが定められた。
この英国と清国との不平等条約の他に、アメリカ合衆国との望厦条約、フランスとの黄埔条約などが結ばれている。

この戦争を英国が引き起こした目的は大きく言って2つある。
それは、東アジアで支配的存在であった中国を中心とする朝貢体制の打破と、
厳しい貿易制限を撤廃して自国の商品をもっと中国側に買わせることである。
中国製の綿製品が英国製品の輸入を阻害したからである。これを良しとしなかった英国は次の機会をうかがうようになり、これが第二次阿片戦争とも言われるアロー戦争へとつながっていくことになった。

 清朝の敗戦は長崎に入港するオランダや清の商人を通じて幕末の日本にも伝えられた。
西洋諸国の軍事力が東洋に比して圧倒的に優勢であることがいよいよ明白になったため、大きな衝撃をもって迎えられた。
かつて強国であったはずの清の敗北は、さらにその先の東アジアへ進出するための西洋の旗印となる危機的な懸念があり、速やかな国体の変革が急務であることを日本に募らせた。
中国国内では重要視されなかった魏源の『海国図志』もすぐに日本に伝えられ、吉田松陰佐久間象山ら幕末における改革の機運を盛り上げる一翼を担った。林則徐の抱いた西洋列強への危惧は、中国ではなく日本において活かされることになったのである。
天保14年(1843年)南京条約の翌年には、昌平坂学問所にいた斎藤竹堂が『鴉片始末』という小冊子を書き、清国の備えのなさと西洋諸国の兵力の恐るべきことを憂えている。
 それまで異国の船は見つけ次第砲撃するという異国船打払令を出すなど強硬な態度を採っていた江戸幕府もこの戦争結果に驚愕した。同時期に、日本人漂流民を送り届けてくれた船を追い返すというモリソン号事件が発生したこともあり、
天保13年(1842年)には、方針を転換して、異国船に薪や水の便宜を図る薪水給与令を新たに打ち出すなど欧米列強への態度を軟化させる。この幕府の対外軟化がやがて開国の大きな要因となり、ペリー来航、明治維新を経て、日本の近代化へとつながることになった。

 1851年に、清朝の中国で、起こった大規模な反乱。太平天国の乱。

 1853年5月26日 ペリー 初めて那覇港に来航
 1853年(嘉永6年)7月8日黒船来航


 1856年から1860年にかけて、
アロー戦争は、清とイギリス・フランス連合軍との間で起こった戦争である。
最終的に北京条約で終結し、清の半植民地化が決定的なものとなった

  1867年 大政奉還
 1872年 廃藩置県の断行

 1873年台湾出兵の処理に赴いた特命全権大使副島種臣は、同治帝に謁見した際に三跪九叩頭の礼を要求されるが、古典(五倫)を引用して立礼を主張し、最終的に立礼で通した。
 1877年 西南戦争終結

 1883年8月と1885年4月にかけて起きた、ベトナム(越南)領有を巡るフランスと清との間の戦争、清仏戦争

 1884年12月4日(時憲暦光緒十年十月十七日)に朝鮮で起こったクーデター。甲申事変、朝鮮事件

 1885年 内閣制度の発足
 1889年 2月11日 大日本帝国憲法 公布

 1894年(明治27年)7月(光緒20年6月)から1895年(明治28年)3月(光緒21年2月)にかけて、
日清戦争は、行われた主に朝鮮半島李氏朝鮮)をめぐる日本と大清国の戦争である。
この戦争の結果日清講和条約が締結され、台湾には台湾総督府台湾製糖が設置され、また大日本製糖が台湾に進出した。

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【現在】
 2 0 1 2年11月15日 習近平の「就任演説」 (正式就任は翌年3月)
「わが民族は、偉大なる民族だ。5 0 0 0年以上にわたる文明の発展の中で、中華民族は人類の文明の進歩に不滅の貢献をしてきた。それが近代以降、艱難辛苦を経験し、最も危険な時期を迎えた。だが中国共産党の成立後、頑強に奮闘し、貧困の立ち遅れた旧中国を、繁栄と富強の新中国へと変えた。
中華民族の偉大なる復興』の光明は、かつてないほどすぐ近くの前景にある。
中華民族を『世界民族の林』の中で、さらに強く自立させるのだ!」


 ①「屈辱の1 0 0年」(1 8 4 0年~1 9 4 9年)
  中国が1 8 4 0年に起こったアヘン戦争でイギリス軍に敗北

 ②「新中国建国1 0 0周年」(1 9 4 9年~2 0 4 9年)
  アメリカを超えて世界ナンバー1の大国として君臨する。


 1949年以降8000万人が迫害死
「新中国建国1 0 0周年」までに、
 どれだけの人数が迫害死をするのか!!!
http://img01.ti-da.net/usr/s/t/g/stgeoge/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%EF%BC%98%EF%BC%90%EF%BC%90%EF%BC%90%E4%B8%87%E4%BA%BA%E8%BF%AB%E5%AE%B3%E6%AD%BB.jpg





【世界の人権批判は中国共産党によるジェノサイドへ】

◆『世界ウイグル会議』のラビア・カーデル総裁は、
2005-2006-2007-2008-2009-2010-2011年度のノーベル平和賞 にノミネートされています。 


◆獄中のウイグル族学者に人権賞、中国政府は非難 http://www.cnn.co.jp/world/35090401.html @cnn_co_jpさんから
アムネスティ・インターナショナルヒューマン・ライツ・ウォッチなどの国際人権団体は11日、人権擁護に取り組む活動家を称える「マーティン・エナルズ賞」の今年の受賞者に、中国で服役中のウイグル族学者、イリハム・トフティ氏を選出したと発表した。
中国外務省の報道官はトフティ氏について「暴力的なテロ攻撃を行った過激派を公然と英雄扱いしている」と非難。「人権とは何の関係もない人物だ」と述べた。

資源の豊富な同自治区にはチュルク系言語を話すウイグル族が長年にわたり居住していたが、過去数十年間で漢族が流入すると両者の関係は緊迫化。中国の治安部隊によるウイグル族への厳しい処遇やイスラム教の宗教行事の規制などが問題として浮上するようになった。
マーティン・エナルズ賞の運営組織はウェブサイト上でトフティ氏について「20年の間、ウイグル族と漢族との対話と理解を促進してきた。分離主義や暴力を拒絶し、ウイグル文化の尊重を基礎とした和解を模索し続けてきた」と、その活動を評価した。

またマーティン・エナルズ財団のディック・オースティング理事長は声明で「イリハム・トフティ氏のような穏健な声を排除することで、中国政府は自らが防ぎたいとする本物の過激主義の台頭に向けた基礎固めを行っているのが実情だ」と指摘した。
投獄されているためトフティ氏のお嬢さんが代理でジュネーブ大学においての授賞式で、
国連人権高等弁務官のヨルダンのザイド・フセイン王子から受け取った

トフティ氏は今月、欧州議会の選出する「思想の自由のためのサハロフ賞」の候補にもノミネートされた。

『ラフト人権賞』とはノルウェーのベルゲンに本部があるラフト人権財団が授与するもので、87年トロロフ・ラフト博士の遺志を継いで設けられた。トロロフ・ラフト博士(1922~1986)はノルウェーの人権活動家ならびに経済学者で。彼は1979年チェコ・スロバギアのプラハを訪問中に共産党治安警察に暴力と虐待を受け、その後も後遺症に苦しみ、1986年に64歳で亡くなった。
◆歴代のラフト人権賞受賞者
年度 名前 国

1987 ジリ・ハジェック チェコ・スロバギア

1988 トリヴィミ・ヴェリステ エストニア

1989 ドニア・コルネア/FIDESZ ルーマニア/ハンガリー
1990 アウン・サン・スーチー ミャンマー ★

1991 ジェレナ・ボナー ロシア

1992 プレア・マハ・ゴサナンダ カンボジア
1993 ホセ・ラモス・ホルタ 東ティモール

1994 レイラ・ザナ トルコ

1995 ロシア軍人の母委員会 ロシア

1996 パレルモ・アノ・ウノ イタリア

1997 イアン・ハンコック ロマ人

1998 ECPAT タイ
1999 ジェナディ・クラシュホイ ベラルーシ
2000 金大中 韓国★
2001 シリン・エバディ イラン

2002 モハメッド・ダッダーシュ 西サハラ
2003 パウロ・テスファジオルジス エリトリア
2004 ラビア・カーディル(投獄中) 東トルキスタン

2005 リディヤ・ユスポワ チェチェン
2006 ド・ティックアン ベトナム
2007 デリー国際人権キャンペーン インド
2008 Bulambo Lembelembe Josué
2009 Malahat Nasibova
2010 José Raúl Vera López
2011 Sexual Minorities Uganda (SMUG)
2012 Nnimmo Bassey
2013 Bahrain Center for Human Rights (BCHR)
2014 Agora, represented by its chair Pavel Chikov
2015 Padre Melo
2016年 ヤナル・モハメド イラクで性暴力被害者らへの支援活動を続ける女性人権活動家 過激派組織「イスラム国」(IS)に奴隷として拉致されたクルド民族少数派ヤジド教徒の女性たちの保護(◎琉球新報は記事にしています)

https://www.rafto.no/?page=55
http://dadao.kt.fc2.com/turuk17rabiya.htm

Rebiya Kadeer:'I want to be the mother of the Uyghurs, the medicine for their sufferings, the cloth to wipe their tears, and the shelter to protect them from the rain.'
ラビア・カーディル:「私はウイグル人の母親、彼らの苦しみのための薬、彼らの涙を拭くための布、雨から保護するためのシェルターになりたい。」
 Rebiya Kadeer (1947) was awarded the 2004 Rafto Prize for her struggle for basic human rights for the Uyghurs. The Uyghurs are a Turkic speaking, primarily Muslim people. Although the region Xinjiang was given autonomy in 1955, millions of Chinese immigrants have been sent to the region and the Chinese have taken, progressively, more control politically and economically.