追伸 2018.3.1.
中・米共同軍が撮ったとする映像は米軍の説明では
死んだ日本人から靴下を盗む中国兵というキャプチャーがある、なぜすぐわかる嘘を韓国はつくのか?????
ここまでが追伸
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日本のマスコミが一切伝えないところである。
も
調べてほしい: 通州事件
ソウル市が三一節(抗日独立運動記念日)99周年を記念して27日に開催した韓日中「日本軍慰安婦国際カンファレンス」で、旧日本軍の朝鮮人慰安婦虐殺を見せる映像を初めて公開した。
終戦前の1944年、中国雲南省騰沖で朝鮮人慰安婦が虐殺されて捨てられる場面を見せる19秒間の白黒映像だ。ソウル市とソウル大人権センターが2016年と17年の2回、米国立公文書記録管理局(NARA)を訪問して資料調査と発掘作業を行った結果、撮影から70余年後に映像が公開された。
映像には朝鮮人慰安婦が旧日本軍によって殺害された後に捨てられる残酷な場面が映っている。周辺では遺体を埋葬しにきたとみられる中国軍兵士2、3人の姿も見える。連合軍164通信隊写真中隊のボルドウィン兵士が1944年9月15日に撮影したもので、映像の場所は中国雲南省騰沖と推定される。
ソウル市とソウル大人権センターはこの映像資料1点をはじめ、写真資料2点、当時の米中連合軍が作成した作戦日誌をはじめ、旧日本軍の慰安婦虐殺を裏付ける文書14点も共に公開した。映像と共に公開された連合軍情報文書には騰沖が陥落する直前の1944年9月13日夜、旧日本軍が朝鮮人女性30人を銃殺したと記録されている。旧日本軍が慰安婦を虐殺したという証言、記事などが公開されたことはあるが、朝鮮人慰安婦を含む旧日本軍の慰安婦虐殺現場が撮影された映像が公開されたのは今回が初めて。
朴元淳(パク・ウォンスン)ソウル市長は「国を失って力がない祖国で女性と少女がどんな苦痛を経験したのか、あまりにも胸が痛む現実を私たちは直視している」とし「このような不幸な歴史も記録して記憶してこそ二度と繰り返さないだけに、今後もソウル市が可能なすべての力と資源を集中し、歴史を記憶して正す作業に率先していく」と述べた。
終戦前の1944年、中国雲南省騰沖で朝鮮人慰安婦が虐殺されて捨てられる場面を見せる19秒間の白黒映像だ。ソウル市とソウル大人権センターが2016年と17年の2回、米国立公文書記録管理局(NARA)を訪問して資料調査と発掘作業を行った結果、撮影から70余年後に映像が公開された。
映像には朝鮮人慰安婦が旧日本軍によって殺害された後に捨てられる残酷な場面が映っている。周辺では遺体を埋葬しにきたとみられる中国軍兵士2、3人の姿も見える。連合軍164通信隊写真中隊のボルドウィン兵士が1944年9月15日に撮影したもので、映像の場所は中国雲南省騰沖と推定される。
ソウル市とソウル大人権センターはこの映像資料1点をはじめ、写真資料2点、当時の米中連合軍が作成した作戦日誌をはじめ、旧日本軍の慰安婦虐殺を裏付ける文書14点も共に公開した。映像と共に公開された連合軍情報文書には騰沖が陥落する直前の1944年9月13日夜、旧日本軍が朝鮮人女性30人を銃殺したと記録されている。旧日本軍が慰安婦を虐殺したという証言、記事などが公開されたことはあるが、朝鮮人慰安婦を含む旧日本軍の慰安婦虐殺現場が撮影された映像が公開されたのは今回が初めて。
朴元淳(パク・ウォンスン)ソウル市長は「国を失って力がない祖国で女性と少女がどんな苦痛を経験したのか、あまりにも胸が痛む現実を私たちは直視している」とし「このような不幸な歴史も記録して記憶してこそ二度と繰り返さないだけに、今後もソウル市が可能なすべての力と資源を集中し、歴史を記憶して正す作業に率先していく」と述べた。
歴史から抹殺された通州日本人虐殺事件
2016/10/17(月) 21:20
「通州事件」と言っても、知っている人は少ないだろう。
当時、朝日、東京日々はじめ日本の新聞各紙は1面で大々的に報じ、雑誌なども後追いした。
当時の日本人なら誰でも知っていたであろう、この悲惨な事件は戦後、日中両政府によってほとんど黙殺と言うにふさわしい扱いを受けてきた。
岩波の近代日本総合年表にも1行も記されていない。その事を渡部昇一さんたちに批判され、最近の版では記載されている――それが通説になっているが、この原稿を書くためにチェックしてみると、最新の版でも1行も書かれていなかった。
ついでに愛用している小学館の『現代史年表』も調べてみたが、こちらも1行もナシ。
7月29日、通州城内で何が起こったのか、なぜ起こったのか。
わが社刊行だから、手前みそと言われるかもしれないが、どうしても読んでいただきたい。
7月29日深夜3時過ぎ、城内南方から聞こえた2、3発の銃声が事件の発端だった。
数日前主力の歩兵第2連隊は南苑に向かい、その夜、城内に残る守備隊は自動車部隊(つまり輜重兵)53名を含むたった163名。武器も十分ではなかった。
邦人の安全を守るべき中国兵の保安隊が城内に3300名、城外に2500名。
その保安隊が東西南北の城門をすべて閉め、反乱を起こしたのだ。
奮戦空しく守備隊は1時間ほどでほとんど全滅。中国兵たちは容赦なく民間人を殺りくする。女性も子どもも容赦ない。
しかも、その殺し方が尋常ではないのだ。
当時18歳、北京で中国語の研修中だった河野通弘さんの手記も今回、加藤さんが発掘した貴重な記録だ。
〈保安隊は日本人家屋を襲い、射殺、殴殺、地に頭を叩きつけて殺す。婦人は殺された上に、青龍刀で首、腹などを斬りさいなまれ、まさに修羅場であった。(中略)虐殺方法には中国何千年という伝統がある。古代、中世のそれと変わらぬ残虐さで居留民は虐殺されたのだ〉
中国人と結婚、事件を目撃した佐々木テンさんが晩年に残した証言について加藤さんはこう書いている。
〈あまりにも凄惨かつ鬼畜のような猟奇的行為が語られ続け止まらない。私は幾度ももう引き写すのをやめようかと、キーボードから指を離したくらいだった。読み始められる前に、どうかある覚悟を持たれて読み進めていただきたい。また途中で気分が悪くなられた方はどうか本を伏せていただきたい。体調を崩すほどの蛮行は続くからだ〉
ぼく自身、とても読めず、その部分はほとんどを飛ばして読んだ。
加藤さんは、資料によってこの事件が決して突発的なものではなかったと断じている。
迫真のノンフィクションだ。