パルデンの会

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終戦から半年後に、通化では日本人三千人が惨殺された この中国軍がやった「通化事件」のことを戦後史家はなぜ書かなかったのか



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宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成30年(2018年)7月8日(日曜日)
        通巻第5754号 
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裏口入学なんてメじゃないって。予備校もカンニング機器の販売に手を貸した
  受験を欺く新兵器の数々、消しゴムに隠された補聴器、指紋のニセモノ

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 詐欺にかけては世界一の技術を誇る国は?
 正解はシナ。指摘する必要もないだろう。裏口入学で日本は大騒ぎをしているが、コネによる裏口入学が常識でさえある中国で、昨今、話題となっているのはカンニングの新兵器である。

 当局は5月24日に李と名乗る入試カンニング機器販売の主犯格を逮捕し、出荷寸前だった10万個の「機器」を押収した。不正な機械を販売してきた12の団体を手入れし、容疑者を拘束した。

この国家考査(全国統一模試)を突破するためにカンニングの新製品が年々歳々向上していた事実が浮かび上がった。
 予備校の中には、この機器を購入したところが八校もあったという(サウスチャイナモーニングポスト、2018年7月7日)。

 まず指紋である。身代わり受験を防ぐための中国の模試会場の入り口で指紋の照合がある。荷物検査は金属探知機があり、ここを突破する新しい、金属探知機にみつからない兵器が求められていた。

 注目は小さなイヤホンで、金属探知をのがれる。また消しゴムに内蔵されたスクリーンや計算機を偽造した液晶パネル。これらを入試会場から三キロ以内に陣取るグループが問題を解いて受験生に送るシステムであり、やっぱり中国人の発想は違うなぁと感心するばかりである。

 ロス米商務長官は中国を「ルール違反常習」とは言わず、「貿易の詐欺師」とまで酷評したが、科挙試験以来、替え玉やカンニングは彼らのお家芸であり、あげくは入試不合格でも、つぎは有名大学の「卒業証明」の偽造である。

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 終戦から半年後に、通化では日本人三千人が惨殺された この中国軍がやった「通化事件」のことを戦後史家はなぜ書かなかったのか


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加藤康男『八月十五日からの戦争 通化事件』(扶桑社)
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 日ソ中立条約を破棄してスターリン満州への侵攻を命じた。
八月十五日まで防衛線と要塞を死守した日本軍は多くで玉砕した。満州各地では激しい戦闘がつづいたが、陛下の玉音放送で、ぴたりと戦いをやめ、降伏した。スターリンを信じて、迂闊にも武装解除に応じてしまった。
 まさか、ソ連兵が日本軍兵士をシベリアに抑留し、また残留日本人をあれほどの残虐性を示して虐殺、國際ルールの無視をやるとは、善意の日本人の想像を超えていた。戦車で日本人をひき殺し、婦女子は暴行したうえで殺害し、あらゆる物品を奪った。
 この残虐に輪をかけて、人類の想像を超える残酷をみせたのが中国人の武装ゲリラ、朝鮮人の盗人集団などである。
当時、満州にはこうした匪賊が三百万人ほどいた。
 本題の「通化事件」とは、戦争がおわって半年もすぎたときに、引き上げを待っていた日本人が三千人も惨殺された事件のことで、犠牲者は「通州事件」の十倍以上である。河は血の海となって鮮血に染まった。

しかし日本はこの事件の抗議も行わず、沈黙した。だから誰も知らない。
 加藤康男氏は、こうした戦後史の闇に葬られてきた事件を丁寧に掘り起こし、深層に迫る仕事を丹念に精密に調査されながら、息の長い、かずかずの仕事をこなされてきた。
 さて通化事件は、近年「通州事件が知られるようになって慰霊祭も行われていることとは対比的に、じつは殆ど何もなされていない。
通化事件は全貌の検証もされていないのだ。
 評者(宮崎)は、通州事件のあとには二度行って現場を検証したが、じつは通化事件の現場にも足を運んで、つぶさに街をあるいた。
十年以上前のことで、まだソ連兵の司令部跡や、参謀部跡、処刑場のあとなどが確認できた。それを写真と地図入れで、拙著のどこかにワンチャプターを建てて報告したのだが、いま、何という本だったかの記憶がない。つまり誰も注目しなかったので、評者の問題提議に、これといった反応がなかった。
 しかし、いま加藤さんの新作がでるに及んで、本格的な慰霊や追悼講演会などが企劃されても良いだろうと思う。

 本書にはもう一つ、これまた誰もが忘れてしまった「お町さん」という女傑の物語が挿入されている。
雲南省の山奥の拉孟(らもう)で、最後まで日本兵とともに敵と戦った慰安婦の日本人女傑がいたことは、近年、桜林美佐さんの活躍でしられるようになった。評者も八年ほど前に現場を歩いた。
 お町さんとはどういう女性だったのか?
 「お町は日本の女で御座います」と胸を張ってロシア、シナの匪賊と立ち向かった。
 お町さんの活躍ぶりは、当時遼寧省の安東(いまの丹東)で引き揚げ船をまった芦田伸介藤原作弥氏らの回想録、著作にひょいと名前がでてくる。つまり敗戦後のどさくさに、ソ連兵の暴行を防ごうと、お町さんは立ち上げり、「ソ連兵相手のキャバレーを創ったのだ」(安寧飯店)。
ただしプロの女性だけを雇用した、事実上の慰安所であり、これが防波堤となって、多くの日本人女性を悪魔の被害から救った。
 しかし、この女傑が経営したキャバレーは、八路軍から国民党のスパイのたまり場と因縁をつけられ、お町さんは八路軍の手にかかって銃殺された。鴨緑江が血に染まった。
 その女傑を顕彰する石碑は、じつは三ヶ根の殉国七烈士の墓場近くと、出身地の吉崎御坊の近くに建立されていた。
 加藤さんはそれを見つけた。本名も探り当てた。関係者を訪ね歩く苦労を重ねながら、津軽半島の奥地から、福井の芦原温泉近くの出身地で、顕彰碑を発見し、ついに石川県の願慶寺に建立されていたお墓にたどり着いた。
そこで住職が保存していた僅かに残されていた資料と写真を手に入れた。ようやくにして、足で歩いたノンフィクションが完成した。

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