パルデンの会

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満州では 原爆が戦前に日本の軍部により 実験成功されていたのだ。それを ソ連はすべて持ち出して自分のものにしたのだ、

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 ソ連北朝鮮の原爆技術の基礎は日本人科学者が貢献した
   敗戦から朝鮮戦争勃発まで韓国のメディアは日本をどう伝えていた

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荒木信子『韓国の「反日歴史認識」はどのように生まれたか』(草思社)
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 本書は22の新聞を三年かけて読み、それを翻訳し基礎データとし、これを元に次は関連資料の読み込みに数年を費やすという、じつにじつに根気を要した努力の結晶、たいへんな労作である。
資料媒体の新聞は1945年8月15日から1950年6月25日まで韓国で発行されたものが中心。すなわち大東亜戦争終戦の日朝鮮戦争勃発の日までで、記事だけではなく広告にも目を通した
 状況は刻一刻と変化するが、新聞は日本および日本人について何を語っていたか、如何にしてあの歪つな対日歴史認識が構築されたかをえぐる。
対米国、対中国についての認識や、共産主義の影響なども考察しつつ、日本統治時代の様子を丹念に探っており、韓国並びに朝鮮半島に興味のある人には必見、研究者には必読文献である。

さて評者(宮崎)、この浩瀚な書物の頁をたぐるうちに次なる既述にぶつかった。
1945年10月、北朝鮮地域でソ連が日本の地下工場を発見した(ソウルの『毎日新聞』、45年10月1日)
日本の朝日新聞も同日付けの一面で「北鮮に地下化学工場」と僅か三行の記事がある。
ところが一年後の『漢城日報』(46年10月4日)に驚くべき記事が掲載された。
「日本軍の原爆研究、戦時中、興南で成功、技術者らソ連に抑留、拷問」という記事が掲載されたことで「地下化学工場」の正体が明らかになる。
記事の翻訳文は以下の通り(荒木訳)。
「朝鮮において米軍二十四師団犯罪調査班に勤務中だったディビッド・スネル氏は『アトランタ・コンスティテュユーション』という月刊誌に一文を寄稿したが、この中で日本は原爆研究を進展させ、敗戦三ヶ月前(正しくは三日前)に原爆実験に成功していたとして、続けて次のように述べている。
『私は朝鮮における原爆研究に関する秘密漏洩防止任務に従事していた日本人将校と会見したが、彼は次のような話を打ち明けた。日本はソ連軍が朝鮮興南に進駐する数時間前に未完成の原爆と秘密書類、原子製造施設を破壊した。その後、関係した科学者たちはモスクワへ送られ、ソ連は彼らに原爆研究を強要している』」
原爆実験が行われたのだ。
「火焔球の直系は1000ヤードに達し、様々な色の水蒸気が空中に散布した。付近の海上に置かれていたジャンクその他の船舶は強烈に燃焼し、海中に姿を消した」
広島級の原爆だった。
しかし「ソ連軍の進駐があまりに早かったため原爆を神風機に積載使用する余裕がなかった」(500~502p)
米国は日本の原爆開発レベルを知りたがった。またソ連がそれをどこまで掌握していたかをしりたがった。1947年にソ連は原爆実験に成功したが、連行された日本人科学者たちと如何なる関係だったのか?
荒木さんは次の重大なポイントを指摘する。
戦争末期の貧困状況にあっても、日本が原爆を開発し実験を成功させたのなら「現在の北朝鮮にも可能であるし、その基盤は日本が作ったという視点を米国は持っている」
当時もいまも北は鉱物資源に恵まれ、ウラニウム鉱脈あがる。
また「日本の原爆開発に貢献した科学者のうちの一人、荒勝文策博士が指導した京都帝国大学理学部には朝鮮出身の博士たちが在籍していた」(中略)北朝鮮の「原子力科学の父とされる都相禄」もまた京大出身だった。
ということは金正恩の核弾頭の基礎は日本人科学者が作ったということにならないか?

 (余滴)現在の北朝鮮の核弾頭はエンジンがおそらく旧型がソ連、近代のものはウクライナ製も多いと推定される。またソ連時代にはロシア人科学者が北で威張っていたが、原爆実験には到らず、冷終結後はウクライナのエンジニアが滞在した。また日本のエンジニアがハニトラや脅迫によって北朝鮮で開発に従事したという確度の高い情報がある。
 ジャック・アタリ欧州復興開発銀行元総裁は「北朝鮮が小型核弾頭を搭載できる長距離弾道ミサイルを開発すると(中国が容認できなくなり)状況は一変する」(日本経済新聞、3月30日)と発言している。
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