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中国人が日本の新元号に異常なまでの関心を持つ理由



ダイヤモンド・オンライン
2019年4月25日 中島 恵 :フリージャーナリスト

中国人が日本の新元号に異常なまでの関心を持つ理由

日本の改元を自国のことのように注目する中国人も少なくありません。
Photo:PIXTA

日本の新元号「令和」施行について、中国ではまるで自国のことのように関心を示す人が少なくない。なぜ、中国の人々は日本の元号に注目し、関心を持つのだろうか。(ジャーナリスト 中島恵)

日本の改元
わが事のように盛り上がる
「今年の5月1日はちょうど中国も休日なので、朝からインターネットで日本の新元号に関する特別番組を見る予定です!」
先日、大連在住の女性とウィーチャット(中国のSNS)でやりとりした際、彼女はウキウキした様子でこんな返信を送ってくれた。
元号「令和」の施行まであと数日。日本では「歴史的な一日」を前にさまざまな準備が進められているが、お隣の中国でも、なぜか日本の改元をまるでわが事のように気に留めて、ソワソワしている人が少なくない。
5月1日は中国では労働節(メーデー)の祝日。この日からちょうど4連休となるため、旅行に出かける人も多いが、私がチェックしたSNSの中には「歴史的瞬間をこの目で見るために、いざ東京へ!」などという書き込みをする日本マニア(?)もいて、一部の人はやけに盛り上がっているようなのだ。
中国人も日本の新元号にそんなに注目しているのか――。
私がそう感じたのは4月1日のことだった。菅義偉官房長官による発表が行われたのは午前11時40分過ぎだったが、それから数分も経たないうちに、中国共産党機関紙「人民日報」でも「日本の新元号」に関する発表があった。中国の主要紙である「環球時報」などいくつもの媒体でも、同じような報道が続き、日本のメディアとほとんど変わらないほどの素早さだった。また、マスコミの報道を追いかける形で、個人がSNSに投稿する文章が目に飛び込んできた。
「新元号は令和!恭賀!(おめでとう)」「安倍首相の安の字は、結局使われなかったんだ!」「平和にするということで、いい響き。いい元号だ」「新元号、ついに決定!」など、新元号に対する反応は、日本人のそれとほとんど同じようなものであり、そんなことが日本以外の国のSNSで繰り広げられ、彼らの関心がそれほど高いことに私はとても驚かされた。
元号の典拠について
中国のSNSで相次いだ投稿
よく知られているように、元号といえば中国が発祥だ。
前漢時代の「建元」が最初だといわれており、日本人も世界史の授業で学んだ「康熙」(こうき)、「雍正」(ようぜい)、「乾隆」(けんりゅう)などがあるが、中国は1911年、清朝の「宣統」(ラストエンペラーで有名な宣統帝・溥儀の時代)を最後に、元号を廃止している。元号は、今では“本家”の中国にはなく、日本でのみ連綿と続いているものだ。中国人は、自分たちがすでに失ってしまったものだからこそ、それほどまでに興味や関心があるのだろうと思ったが、さらに驚いたのは、それから間もなくしてからだった。
元号の典拠について、安倍晋三首相は『万葉集』と発表していたが、中国人の間からは、典拠は(中国最初の詩文集である)『文選』(もんぜん)ではないか?という投稿が相次いだからだ。
そうした投稿と前後して、岩波文庫編集部のツイッター(以下ので解説)上での指摘をはじめ、日本のメディアでも漢学者などへの取材から、「中国が典拠なのでは」という説がどんどん飛び出し、ネット上で大きな盛り上がりを見せた。だが、岩波文庫編集部のようなプロではない、ごく一般の中国人のSNSでも、ほぼ同じ時間帯から同様の指摘をする人がいたことに、私は舌を巻いてしまった。
※新元号「令和」の出典、万葉集「初春の令月、気淑しく風和らぐ」ですが、『文選』の句を踏まえていることが、新日本古典文学大系萬葉集(一)』の補注に指摘されています。「令月」は「仲春令月、時和し気清らかなり」(後漢・張衡「帰田賦・文選巻十五」)とある。
漢字や漢文への思い入れが深い中国の人々
日本で開催の『顔真卿展』も大フィーバー
いくら漢詩、漢文のお国柄とはいえ、新元号の発表からわずかしか時間が経っていない段階で、すぐに『文選』にある張衡の詩がもとになっているのではないか、という指摘が飛び出すというのは、非常に鋭いとしかいいようがない。
しかも、私とSNSでつながっている知人や友人(大卒者がほとんどだが、特別なエリートというわけではない会社員や教師)でさえそのように指摘しているのを見て、中国人の古典への造詣の深さ、漢文への関心の高さを改めて感じさせられた。
東京・上野で開催された『顔真卿展』には多くの中国人が足を運んだ
東京・上野で開催された『顔真卿展』には多くの中国人が足を運んだ Photo by Kei Nakajima
この一件で思い出したのだが、今年の2月にも同じように、中国人の漢字や漢文への思い入れの深さを強く感じさせられる出来事があった。東京・上野にある東京国立博物館で開催されていた『顔真卿展』を見に行ったときだ。
顔真卿(がんしんけい)とは唐代の書家・官僚の名で、書聖といわれる王羲之を超えたともいわれる人物。今年1月中旬から約1ヵ月間、開催されていた展覧会に私も足を運んだのだが、そこは「ここは中国か?」と思うほど数多くの中国人が入場して、ごった返していたのだ。2月上旬の時点で入場者が10万人を突破した同展には、台北故宮博物院に収蔵されている顔真卿の傑作「祭姪文稿」(さいてつぶんこう)が展示されており、めったに見られないその作品を目当てに、春節の大型連休を利用して大勢の中国人がやってきていた。
日本人でも書道に親しみを感じている人はもちろん多いし、幼い頃から書道教室に通っていたという人も相当いるだろう。だが、一部の書道家や愛好家を除いて、一般の日本人は、草書、隷書、楷書などの書体についての知識や興味はあまり多くないのではないだろうか。また、日本人は、習い事や授業の一環として書道の経験はあっても、その後、わざわざ書道展を見に行く機会は、絵画展などの美術展に行く機会と比べると多くないと思われるし、書道展のほうが規模は小さく、日本ではどちらかというと「書道」は話題になりにくいのではないか、と個人的には思う。
だが、同展覧会では、観光で来日していた中国人が、書体の一つひとつを指さしながら「このハネが……」「この筆のかすれ具合が……」などと唾を飛ばしながら激論していた姿があちこちで見られたし、在日中国人のSNSなどでも、「ついに念願の顔真卿展に行った!」「記念に筆や硯、図録を買ってきたので、今度、中国へのお土産にするよ」といったような投稿を数多く見かけた。中国人の「書体や漢字そのものへの関心の高さ」は並々ならぬものがあり、やはり“本家”は、日本人とは熱の入り方が違うのだなと感じさせられた。
国学」への関心が高まり
古典ブームが巻き起こっている
中国のある程度知的レベルの高い層の人々と話していて感じるのは、その豊富な語彙力や表現力だ。文章を書いたり、会話をしたりしているときに四字熟語を多用したり、さらさらと漢詩を書いたりすることも珍しくない。日本人の中にも四字熟語に詳しい知識人は多いが、ふだんから漢詩をさらさらと書けるような人はめったに見かけない。
以前、九州の城下町にある小さなカフェを取材した際、その店主が、中国人旅行客が書いたというメッセージを私に見せてくれたことがあった。来店した人が自由に感想を書き込める「思い出ノート」の一部だったが、中国人は皆、自作の素晴らしい漢詩を書いていた。
このようなことは頻繁に起きていることなのか、あるいは私がこれまであまり気がつかなかっただけなのかは、正直いってよくわからない。だが、中国では、少なくともここ数年、「国学」への関心が以前よりも高まっていることは確かだ。
国学とは、論語をはじめ、孟子老子、大学、四書五経、弟子規(孔子などの教えに基づく生活規範)などの中国の古典のこと。日本では古くからこの分野の研究が進み、「孫子の兵法」などに代表されるように、日本で出版されている中国古典のレベルは高く、また、日本社会にも「中国からやってきた文化」は知らず知らずのうちに浸透している。
だが、“本家”の中国では、文化大革命などの影響で、これらの古典は長い間、軽んじられたり、日の目を見なかったりするような風潮があった。
ところが、ここ数年、中国では経済的な成長と比例するように、人としての成長を求める動きがあり、その基盤となる古典ブームが巻き起こっている。
“本家”としての自覚に目覚めつつあると感じるのだ。
『日本の「中国人」社会』(日本経済新聞出版社)、著者:中島恵、新書:232ページ
『日本の「中国人」社会』日本経済新聞出版社)、著者:中島恵、新書:232ページ
北京や上海にある大手の書店に行けば、「老子」「孟子」「論語」などの本が、大人向けから子ども向けまでズラリと売られており、私の知人の子どもが通う幼稚園では「弟子規」の内容を歌にして園児に歌わせている。中学や高校では、以前は「語文」(日本でいう国語のこと)の授業の一部でしか漢詩などは扱わなかったが、近年では「古典」という科目を教えている学校もある。
テレビでも、大学教授が中国の古典をわかりやすく解説する番組「百家講壇」があるし、1人が漢詩の前半を暗唱し、もう1人がその漢詩の後半を暗唱する、2人1組で参加するクイズ形式の番組「詩詞大会」もとても人気がある。私もこれらの番組を中国で何度か見たことがあるが、幼い子どもが、突然出題された難解な漢詩をそらんじている姿に感動を覚えたものだった。
“本家”としての
自意識や知的好奇心
今回の日本の新元号発表は、彼らに、“本家”としての自意識や、知的好奇心のようなものを呼び起こさせたような気がする。だからこそ、4月1日の中国のSNSはあれほど盛り上がりを見せ、来る5月1日にも注目しているのではないだろうか?
京都を旅行した中国人観光客の中には、「ここはまるで昔の長安の都のようだ」と感じる人が少なくないと聞くが、彼らがそんなふうに感じる「心のふるさと」が、もしかしたら日本には数多く残っているのかもしれない。

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中国文明黄河文明を超える 縄文文明の研究が進み、我々のコアに
大陸や半島の知識が加わった いわゆる神話時代の日本の存在が
本当に大事になってくると思われる。
大事だと思えるから 大陸や半島からの侵略が今でも考えられるのである。