パルデンの会

チベット独立と支那共産党に物言う人々の声です 転載はご自由に  HPは http://palden.org

6.4天安門事件30周年、シナ共産党への抗議6.4およびキャンドルサービス

本日 東京においての
6.4天安門被害者のため中国大使館前での抗議活動
渋谷ハチ公広場においての天安門被害者追悼キャンドルサービスに参加してきた。

どちらの集会も 参加在外・在日中国人と邦人の数は多いと言えないが、中国大使館の魔の手を知っていても集合した
参加者には敬意を表したい。
邦人は大陸に足を入れなければ問題ないが、 中国人の場合はそれなりの覚悟の必要な集会である。
参加した 在外・在日中国人の方には頭の下がる思いである。

それに引き替え、2008年長野聖火リレーに動員された 中国共産党動員の学生や会社員の数はすごかった。
数千人の中国人が 大使館の
「鶴の一声」で数日で集まるんだから
もちろん 各人に日当が出たとの話であるが、
その動員力は 戦争状態になったとき彼らが 工作員として動くのでしょうね、  反日共産党政府の中国人スパイは 我々日本人社会からは 見つけのが難しいでしょうね。

日本でも抗議活動が行われたのは 自由国家として誇るところです。 この自由が未来永劫に続いてほしい。

大使館前行動
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最後に右翼の街宣車登場、
 たしかに スピーカーの音量はすごい
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渋谷ハチ公広場

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作って行った 八陣氏制作の   ポスターも ハチ公前で翻りました。


【6月4日で30年】中国の「天安門事件」とは何だったのか?

2019.06.04
 
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by gyouza(まぐまぐ編集部)

あの「天安門事件」から30年。風化させてはならない「民主化運動」の軌跡

本日6月4日で、1989年に発生した中国の「天安門事件」から30年が経ちました。あらためて天安門事件とは何か、そして中国をはじめ台湾・香港で受け継がれた「民主化運動」の歴史について、駆け足で振り返ってみたいと思います。

多くの犠牲者を出した「天安門事件」とは何か?

米ソ冷戦時代の80年代後半、当時のソ連では「ペレストロイカ(政治体制の改革運動)」を始め「民主化」「自由化」が進みそうなムードになっていました。そのソ連と同じく共産党の「一党独裁」である国、中華人民共和国(中国)にも、変革の波が押し寄せていたのです。その「自由化」を推進していた人物が、中国共産党胡耀邦(こ・ようほう)総書記でした。
Hu_Yaobang_1953
胡耀邦氏。image by: 不明derivative work: JJ Georges [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
胡氏は、中国版「ペレストロイカ」ともいうべき民主化・自由化を中国で実行しようとしましたが、当時の実際の最高実力者だった鄧小平(とう・しょうへい)氏が反対し、胡氏は失脚。1987年1月のことでした。
Deng_Xiaoping
鄧小平氏。image by: Unknown or not provided [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
その後も要職を解かれた胡氏は、1989年4月15日に心筋梗塞で急死しました。この胡氏の死をきっかけに4月17日、北京で学生たちが追悼集会を開催。これは、ほどなくして「民主化要求デモ」に発展し、中国全土に拡大していきました。4月21日には北京のデモ参加者数は10万人までに膨れ上がったのです。
そして5月、その数は50万人に増加。革命を恐れた中国共産党のトップは6月4日、学生デモを「武力で鎮圧」するよう命令を下しました。これがいわゆる「天安門事件」です。犠牲者の数は、中国共産党の公式発表では「319人」としていますが、正確な数字は現在も不明ながら、欧米では「3000人から1万人」とも言われています。人民解放軍の戦車の前に1人で対峙する学生の写真などを目にしたことがある方も多いのではないでしょうか。
中国人民解放軍の59式戦車 image by: Max Smith [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
当時の駐中国アラン・ドナルド英大使が翌6月5日に本国政府へ送った外交機密電報によると、「最低でも1万人以上が中国軍に殺害された」「1時間の退去期限を通告したが、実際には5分後には装甲兵員輸送車による攻撃が始まりひき殺され、大多数は広場から離れる途中で(学生たちが)犠牲に遭った」「学生たちは腕を組んで対抗しようとしたが、兵士たちを含めてひき殺されてしまった。そしてAPC装甲兵員輸送車)は何度も何度も遺体をひき、ブルドーザーが遺体を集めていった」と記載されていました。この数字が正確なものだったかどうか、現在も多くの議論がおこなわれています。
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http://jasmineplaces.blogspot.com/2014/06/8961-10.html

89年6月1-10日北京军队镇压处决人员统计 - 三万二千人

作者:总参军官

以下的数字出于中共内部,时间为2004111日,其本人已于20041121日在北京被杀。其姓名不详,只知道是总参的高级官员。


19896月,在中国下达武力镇压的命令后,由于内部指挥问题导致在人民英雄纪念碑东侧与南侧镇压时误杀了混在示威人群中的近百位便衣人员。许多示威人员在被从纪念碑上清场并向东西长安街方向退散,但是为了斩草除根,避免类似的事件再次发生,消灭未来威胁统治的动力,对仍在现场的近四万人进行了血腥屠杀,由于解放军在人数上的安排,为了避免内部一些军队的不满,导致不同番号的部队协同镇压,线行推进,造成了千古奇冤

被杀后的许多人员在死后,尸体被堆成小山,除一小部分被允许象征性摆放家属领回或认领外,大部分被强行火化,死无对证,天安门镇压地区随后进行了大规模的内部清洗及修复工作,清除血迹及弹痕,由于在镇压时采用分割方法,许多示威人员是被群体分割后以群为单位处决的,许多受伤人员后被补杀,这也就是为什么初期死亡人数很少的原因。许多离场的人员只见到小部死亡,大量受伤的情况,事实上在完全包围后,现场的人员均被处决,或被补杀,实际死亡人数远远高于人民的预期。


在中国军队内部有许多人保存有六四镇压的文字资料与影片及图片,甚至有许多远距离的天安门地区的镇压资料,或许在六四平反或中共垮台后,那些如日本法西斯的南京大屠杀一样的血腥一幕会展现在国人面前,以下是在19891012日总参统计的部份资料(不含受伤人员):

198961-10 死亡总人数 31978人:

1 其中学生(身份确认) 10974
2 普通人员(身份确认) 7992
3 不明人员(不予确认) 11865

(23类人员含工人,农民,教授,医务人员,武警,公安人员,便衣警察,国家部委人员,离退休干部,僧尼,教会人士,外国人等)

被袭军队死亡(身份确认) 113
军队内部误杀(身份确认) 197
因伤过重死亡人数(医院) 837

死亡地区:(以下含军人)
颐和园地区 12
北京大学地区 17
清华大学地区 23
万寿路地区 39
木樨地地区 11
燕京饭店外 27
民族饭店外 57
西单地区 113
西单至新华门地区 389
人民大会堂 271(尸体堆群)
南长安街至南池子大街 933(尸体堆群)
天安门广场人民大会堂一侧 3569(大的尸体堆群)
天安门广场历史博物馆一侧 5781(大的尸体
人民英雄纪念碑底南侧 2544(大的尸体堆群)
人民英雄纪念碑底北侧 4633(大的尸体堆群)
天安门广场长安街侧 9531(大的尸体堆群)
金水桥 289(尸体堆群)
午门 812(尸体堆群)
前门大街 53
崇文门地区 29
北京饭店外 21
建国门外 19
二环建国门至朝阳门 33
红庙地区 17
进入居民宅及办公区处决 1918
医院 837

合计 31978