本日 東京においての
6.4天安門被害者のため中国大使館前での抗議活動
と
渋谷ハチ公広場においての天安門被害者追悼キャンドルサービスに参加してきた。
どちらの集会も 参加在外・在日中国人と邦人の数は多いと言えないが、中国大使館の魔の手を知っていても集合した
参加者には敬意を表したい。
邦人は大陸に足を入れなければ問題ないが、 中国人の場合はそれなりの覚悟の必要な集会である。
参加した 在外・在日中国人の方には頭の下がる思いである。
数千人の中国人が 大使館の
「鶴の一声」で数日で集まるんだから
もちろん 各人に日当が出たとの話であるが、
日本でも抗議活動が行われたのは 自由国家として誇るところです。 この自由が未来永劫に続いてほしい。
大使館前行動
最後に右翼の街宣車登場、
たしかに スピーカーの音量はすごい
渋谷ハチ公広場
作って行った 八陣氏制作の ポスターも ハチ公前で翻りました。
【6月4日で30年】中国の「天安門事件」とは何だったのか?
あの「天安門事件」から30年。風化させてはならない「民主化運動」の軌跡
本日6月4日で、1989年に発生した中国の「天安門事件」から30年が経ちました。あらためて天安門事件とは何か、そして中国をはじめ台湾・香港で受け継がれた「民主化運動」の歴史について、駆け足で振り返ってみたいと思います。
多くの犠牲者を出した「天安門事件」とは何か?
米ソ冷戦時代の80年代後半、当時のソ連では「ペレストロイカ(政治体制の改革運動)」を始め「民主化」「自由化」が進みそうなムードになっていました。そのソ連と同じく共産党の「一党独裁」である国、中華人民共和国(中国)にも、変革の波が押し寄せていたのです。その「自由化」を推進していた人物が、中国共産党の胡耀邦(こ・ようほう)総書記でした。
胡耀邦氏。image by: 不明derivative work: JJ Georges [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
鄧小平氏。image by: Unknown or not provided [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
その後も要職を解かれた胡氏は、1989年4月15日に心筋梗塞で急死しました。この胡氏の死をきっかけに4月17日、北京で学生たちが追悼集会を開催。これは、ほどなくして「民主化要求デモ」に発展し、中国全土に拡大していきました。4月21日には北京のデモ参加者数は10万人までに膨れ上がったのです。
そして5月、その数は50万人に増加。革命を恐れた中国共産党のトップは6月4日、学生デモを「武力で鎮圧」するよう命令を下しました。これがいわゆる「天安門事件」です。犠牲者の数は、中国共産党の公式発表では「319人」としていますが、正確な数字は現在も不明ながら、欧米では「3000人から1万人」とも言われています。人民解放軍の戦車の前に1人で対峙する学生の写真などを目にしたことがある方も多いのではないでしょうか。
中国人民解放軍の59式戦車 image by: Max Smith [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で
当時の駐中国アラン・ドナルド英大使が翌6月5日に本国政府へ送った外交機密電報によると、「最低でも1万人以上が中国軍に殺害された」「1時間の退去期限を通告したが、実際には5分後には装甲兵員輸送車による攻撃が始まりひき殺され、大多数は広場から離れる途中で(学生たちが)犠牲に遭った」「学生たちは腕を組んで対抗しようとしたが、兵士たちを含めてひき殺されてしまった。そしてAPC(装甲兵員輸送車)は何度も何度も遺体をひき、ブルドーザーが遺体を集めていった」と記載されていました。この数字が正確なものだったかどうか、現在も多くの議論がおこなわれています。